第十話 全滅の危機
『蔦屋敷』で蚕の病が発生、という急報を、開通したばかりの『電信』を通して『電報』として受けたアキラは、折返し『病気になった蚕の様子を教えてくれるよう』電報を打った。
そして、待つこと1時間。
次の『電報』が送られてきた。
「ええと、なになに……」
「手伝うよ、アキラ」
「助かる、ハルト」
モールス符号をアルファベットに直すのに、まだ慣れないので時間が掛かっている。
これではせっかくの通信の優位性が半減してしまうなあと思いながら、アキラとハルトヴィヒは協力して翻訳していった。
「『黒い斑点、繭を作らない』だと?」
アキラは、そうした症状に心当りがあった。
アキラ自身は体験してはいないが、養蚕の歴史上での一大事件として。
それで、大急ぎで資料を読み返す。
「ええと………………これだ!」
『微粒子病』。それが『蔦屋敷』が管理する蚕を襲った病気の名前である。
微粒子病は蚕の幼虫が掛かる病気で、菌類の一種が寄生することによって引き起こされる。
地球でも、1850~60年代にヨーロッパで大流行し、フランスでは養蚕業が壊滅的状態に陥ったという過去がある。
明治初期に外務省が編纂した幕末外交史料集『続通信全覧』に、ヨーロッパ各国が日本で蚕卵紙を求めたと記されている。
当時はまだ徳川政権で、幕府は1500枚の『種紙』(蚕卵紙)を寄贈したとある。
その後さらに、種紙1万5000枚を追加で寄贈したらしい。
そしてこの『微粒子病』はフランスのパスツールによってまもなく病因が解明されることになり、医学の発展にも寄与したということだ。
余談だが、この時に送られた種紙が南フランスの養蚕農家に現存していたというニュースが2015年11月の『シルクレポート』に載っている。
筆者はアンティークストッキング収集研究家の鴇田章氏である。
さらに余談だが、その『紙』はもちろん和紙であり、丈夫で見栄えがよいことから書籍カバーとなっていたものである。
その蚕種紙は『本場 青龍』とあり、裏には判読不可能な朱印と墨印が押され、その下に『蚕種製造人 甲斐国 山梨郡 栗原筋 千野村 村田八郎兵衛組 同郡赤尾村 保坂新造』と記されていたという。
また、村田八郎兵衛という人物の子孫は歯科医を営んでおり、作者も通っている、という縁がある。
付け加えると、ほぼ同時期に信州上田産の種紙『扶桑撰』も発見されている。
この種紙の発見は、『日本の手漉き蚕種紙の盛衰』を語る上でも重要な資料であるし、日本とヨーロッパの国々との関係を知るにもよい資料となる。
(興味のある方は『シルクレポート 2015 11月 No45』で検索していただけると幸いです)
閑話休題。
『微粒子病』の原因は菌類の一種である微胞子虫類によるものである。
この世界で養蚕を始めた時から、アキラは病気には注意し続けてきた。
というのも、今育てられている蚕は全て同一種であり、同じ性質をもっている。つまり、同じ病気に弱いのだ。
伝染病が流行れば、容易く全滅してしまう、ということだってあり得るのだ。
それを防ぐためアキラは、養蚕の拠点を複数にしたり、『種紙』を別途『魔法式保存庫』に保存したり、職人の日常生活を清潔に保ったりと、心を砕いていた。
だが、それでも病気は発生するものらしい。
「この病気は『殺菌』すれば防げるはずだ」
「なら《ザウバー》の出番ね」
《ザウバー》はリーゼロッテが改良した魔法で、浄化と殺菌の効果がある。
『蔦屋敷』にも『絹屋敷』にも、その効果を持つ魔法道具を設置してあるのだが、今回はそうした対策の漏れにより、『蔦屋敷』管理下の蚕に病気が発生したようだ。
アキラはその旨をまとめ、電報で送ると共に、自ら『蔦屋敷』へ行き、対策の指示を行うことにした。
* * *
「とにかく、作業者だけでなく、出入りする者全員に《ザウバー》を掛けてくれ。それから、桑の葉にもだ。この病気は食べ物から伝染する。こちらの蚕に絶対に移してはならない」
「わかりました」
「わかった」
「わかったわ」
アキラはミチア、ハルトヴィヒ、リーゼロッテらに指示を出すと、馬を駆って『蔦屋敷』を目指したのである。
* * *
「少しでも被害を食い止めないとな……」
気は焦るが、馬の速度は変わらない。
それで対策の方法をあれやこれやと考えながら『蔦屋敷』を目指すアキラであった。
幸い、雨は降っておらず曇天であるため、走りやすかった。
さらに街道の整備が進んでいたので、以前よりも所要時間を1割短縮し、『蔦屋敷』に着くことができたアキラである。
「おお、アキラ殿!」
『蔦屋敷』の主、フィルマン・アレオン・ド・ルミエ前侯爵が自らアキラを出迎えてくれた。
「来てくれたのだな、助かる」
「ご無沙汰しております。早速ですが、病気の蚕は?」
挨拶もそこそこに、アキラは案件を口にする。この病気は、できる限り早く対策をした方がいいからだ。
「うむ、ブリゾン村で育てている蚕だ。ほぼ全滅らしい」
「ブリゾン村……ブノワ村長の所でしたね」
「うむ」
「では、ここ……『蔦屋敷』の蚕はまだ大丈夫ですね?」
「うむ」
少しほっとするアキラ。距離的に離れていれば感染のリスクが下がるからだ。
「でしたら……」
ここでまずアキラは、この病気が『微粒子病』らしいこと、菌類によって移ること、ゆえに《ザウバー》が有効なこと、と説明していく。
「なるほど、出入りする者全員に《ザウバー》を掛けるのだな」
「はい。……こちらの『蚕室』には《ザウバー》の効果のある魔法道具を設置してあるので大丈夫とは思いますが、念には念を入れましょう」
「わかった」
てきぱきと指示を出していくアキラ。
とにかく、『蔦屋敷』内の蚕に感染させないことが重要だ。
そして、掛かってしまった蚕は、卵も繭も幼虫も成虫も焼却するしかない。
ここで惜しがって、全ての蚕に感染させてしまったら何もかも終わりだからだ。
単一品種ゆえの脆さである。
「見落としやすいのは桑の葉です。採取したものは全て、桑畑の葉も全部に《ザウバー》を掛けましょう」
「わかった。すぐに指示を出そう」
「他の村にも通達してください」
「そうしよう」
当分の間、『蚕室』に出入りする者は制限することになった。
(うーん……突然変異でもいいから、蚕の品種を増やせないかなあ……)
指示を出しながらも、そんなことを考え始めたアキラであった。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は12月4日(土)10:00の予定です。
20211127 修正
(誤)「『黒色い斑点、繭を作らない』だと?」
(正)「『黒い斑点、繭を作らない』だと?」
(誤)桑畑の葉も全部を掛けましょう」
(正)桑畑の葉も全部に《ザウバー》を掛けましょう」
20211130 修正
(誤)『微粒子病』。それが『絹屋敷』が管理する蚕を襲った病気の名前である。
(正)『微粒子病』。それが『蔦屋敷』が管理する蚕を襲った病気の名前である。
20211224 修正
(誤)挨拶もそこそこに、アキラは要件を口にする。この病気は、できる限り早く対策をした方がいいからだ。
(正)挨拶もそこそこに、アキラは案件を口にする。この病気は、できる限り早く対策をした方がいいからだ。




