第三十一話 高速度鋼と口紅
ここ数日、ハルトヴィヒはダニエルという村の若者に『木工旋盤』での加工を教えていた。
ダニエルは養蚕技術者の1人で、今年24歳。刈り上げた焦げ茶色の髪、茶色の目をしたがっしりした男である。
「そうだ、なかなかうまいぞ」
「ありがとうございます」
彼もそうだが、養蚕技術者のメンバーは皆ほとんど訛っていない。
というのも、ド・ラマーク領の若い連中は、王都方面へ出稼ぎに行く者が多かったからだ。
それが、アキラの統治により、出稼ぎに行く者が減り、村で冬を越す者が増えた。
必然的に人口流出が抑えられたわけで、過疎化の心配はなくなったといえよう。
同時に、食糧事情も徐々にではあるが改善してきているので、領内の人々、特に若い者たちの体型の変化が著しかった。
わかりやすく言うと『ヒョロガリ』から『細マッチョ』になってきているのである。
衛生観念の普及により病気が……特に胃腸の……が減ったこと、栄養バランスについて気を付けるようごく簡単な教育がなされたことも大きい。
乳幼児の生存率も劇的に向上しており、ド・ラマーク領の人口は確実に増加傾向にあった。
その分、食糧生産も増やさねばならないわけで、そちらも軌道に乗りつつある。
特に水田が作られれば、小麦・大麦と共に『米』も主食としてポピュラーになるであろう。
閑話休題。
ド・ラマーク領は、もう1つ、経済的な発展もしてきている。
その1つを担っているのが冬の内職である。
今、ダニエルが学んでいる『木工旋盤』によって作り出された製品は、数年の間は大きな利益を生むと期待されている。
数年、というのは他所で同じような製品が作られるようになるまでの猶予期間だ。
『異邦人』であるアキラは、その現代日本の知識を生かして様々な恩恵をこの国……ガーリア王国にもたらしている。
それは1地方で抱え込むことなく、国内に普及させることを前提にしているのだ。
もちろん、技術的・気候的・環境的・人的など、他では真似できないものもあるだろうが……。
そしてこの『木工旋盤』は、ハルトヴィヒが開発したばかりであり、他所にはないはずであった。
つまり、『木工旋盤』が普及して技術者が育つまでは、ド・ラマーク領の独擅場というわけだ。
アキラとしては、今のうちに稼げるだけ稼いでおきたいと思っているのである。
* * *
「うん、これなら申し分ないな」
ハルトヴィヒはダニエルはもう一人前だと太鼓判を押した。
「ありがとうございました」
「これからは自分の工夫で製品を作っていくんだ。いいな?」
「はい!」
『木工旋盤』1号機はこのままダニエルに貸し出し、ハルトヴィヒは2号機の製作に取り掛かることになる。
これまで使ってきた経験をフィードバックし、よりよいものを作り出そうというのであった。
「この部分は金属にしたほうが精度が出るな。それに刃物は何と言ったか。……そう、高速度鋼にしてみよう」
高速度鋼は別名をハイス……ハイスピードスチールという。略してHSS。
実は、ハルトヴィヒがそう言い出したのには訳がある。
旋盤で製品を削っていると、どうしても刃先は摩擦のため熱を持つ。
この時、通常の鋼……炭素鋼だと、焼きが戻ってしまうのである。
一般的な炭素工具鋼の場合、焼入れ温度は摂氏800度から850度、焼戻し(焼入れしたままでは硬すぎて脆いため、粘り(靭性)を増すための熱処理)を行う。
その温度は摂氏150度から200度である。
木材加工ではこの温度には達しないように思えるが、刃先のミクロな部分に注目すると、この温度に達することがあるのだ。
そのため、『長切れしない』(切れ味が長続きしない)という事態になる。
切れ味が落ちたなら砥石で研げばいいのだが、あまりその頻度が高いと作業効率が落ちるわけで、研ぎは1日1回以下に抑えたいところであった。
ここで高速度鋼である。
高速度鋼は焼入れ温度は摂氏1200度から1300度、焼戻し温度は550度から600度と、高温が必要になる。
その分加工中の温度上昇による焼きの戻りが少ないわけだ。
焼入れ温度が高いため、熱処理が難しいが、魔法技師であるハルトヴィヒなら可能である。
焼戻しも同様。
問題は高速度鋼を作るための添加元素……クロム、モリブデン、タングステン、バナジウム、コバルトなどだが、刃物に使うレベルの量なので、鉱石の山から時間を掛けて抽出したハルトヴィヒであった。
「どれも数グラムしかないが、刃先に使うだけだから間に合うな」
魔法技師であるハルトヴィヒは、魔法の助けを借りて、通常の炉でも高速度鋼を作れるだけの熱量を確保できるのだった。
ただし実験室レベルの規模なので、大きな物を作れるだけの量は賄えないのが玉に瑕。
ハルトヴィヒの仕事は順調であった。
* * *
ハルトヴィヒが木工旋盤や加工用の刃物に改良を加えていた時、その妻であり魔法薬師でもあるリーゼロッテもまた、新しい製品を作り出していた。
『口紅』である。
ただの口紅ではない。現代日本で使われているのと同じ『スティックタイプ』のものだ。
今現在ガーリア王国で使われている『紅』は、赤い花から取り出した染料を筆で唇に塗るものがほとんど。
それゆえ、食事をすればすぐ色落ちしてしまうし、舌で唇をなめても落ちてしまう。
食用油に混ぜたものもあったが、油の臭いが好まれなかった。これは、作り置きせざるを得ないため、油が酸化して古くなってしまったためである。
リーゼロッテが作った『口紅』は、要するに『色を付けたリップクリーム』である。
主成分は蜜蝋とひまわり油、そして染料だ。
重要なのはひまわり油である。栽培したひまわりの種から絞った油であるが、これにはトコフェロール……ビタミンEが豊富に含まれているのだ。
そしてビタミンEには強い抗酸化作用がある。つまり比較的『長持ちする』。
また、抗炎症作用もあるため、肌荒れに効く。つまりリップクリームとしても役立つ。
また、蜜蝋はハチミツを絞った残りを使っており、わずかながらハチミツ成分を含んでいる。
そしてハチミツは唇の荒れにとてもよく効くのだ。
そして油成分を蜜蝋で封じているため空気に触れづらく、なおのこと酸化しづらく、いやな臭いが出にくいというわけだった。
そうしてできた口紅は使いやすく、唇に優しいのは当然で、赤色を抑えた『色つきリップクリーム』を、唇の荒れやすい冬に普及させようというのであった。
「これ、すごくいいわ!」
「唇が切れていたんだけど、一晩でよくなったし」
「淡い色がいいわね。唇がきれいに映えるわ」
『絹屋敷』と『蔦屋敷』の侍女たちに使ってもらい、使い心地や使い勝手を報告してもらっている。
概ね好評なようだ。
気を付けねばならないのはアレルギー反応だったが、幸いにして、今のところ1人も出てはいない。
「いいな、これは」
「ええ」
アキラとミチアも……アキラは『色なし』……のリップクリームを愛用していた。
おかげで2人とも、唇の荒れとは無縁の冬を過ごせそうである。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は9月18日(土)10:00の予定です。




