第50話 箱の中から魔法使い
旅の八日目。
日が昇ってすぐ、僕たちはルェメイサの宿を発った。
次の目的地は、タリア王国に最も近い中規模都市・ヴァロットだ。
「ヴァロットに着いたら、タリア入国の策を練ろう。国境を越えるのも容易ではなさそうだからな」
アドルフの言葉に、僕は父上から伝えられた影武者の話を思い出す。
いわく、「逃亡が確認された四人のうち、何人かは西大陸南部へ逃れた」と。
けれど――タリアのような排他主義の根強い国に、わざわざ潜伏するだろうか?
「アドルフさん。ダロドネスさんが言っていた密入国者の話、どこまで信じますか?」
「あくまで噂の域を出ないが、情報がほどんど手元にない今、あいつの話が唯一の頼みの綱だ」
広げた地図に目を落としたまま、軍人は淡々と応じる。
不安など微塵も感じさせない声を聞いてもなお、嫌な予感は拭い去れない。
マントの中で、サラマンダーの魔道具がカチャリと鳴る。
オラカロンの店を出るとき、店主の老人はこっそり僕に耳打ちした。
『お主に渡したのは、魔除けの役割も果たす御守じゃ。失くすでないぞ』
このアミュレットが、タリアでの災いを退けてくれるだろうか――と、つい神頼みめいたことを考えてしまう。
「あ、あれ……二人とも、あれ見えますか?」
僕の左隣を歩くベンジャミンが、ふいに前方を指さした。
よく晴れた青空の下、草原の真ん中に箱のようなものがぽつんと置かれている。
近づくにつれ、それはお伽話に出てくる宝箱のような姿をしているとわかった。
大きさは、幼児が一人すっぽり収まるくらいか。
「ひょっとして、移動を補助する魔道具でしょうか」
「どうでしょう……微かに魔力は感じますけど」
さらに近づいて観察すると、箱の蓋には南京錠がぶら下がっていた。
だが、蝶番も錠も壊れており、鍵の役目は果たしていない。
すると――次の瞬間。
箱が、突然ガタガタと左右に揺れ始めた!
軍人のアドルフがいち早く後退する。
その指先は、既に長剣の柄に添えられていた。
僕とベンジャミンも慌てて数歩下がり、箱から一定の距離を取る。
激しく左右に動いていた箱は、程なくしてピタリと動きを止めた。
そのまま三人で固唾を飲んで見守っていると――
「――っはあ!! なんてこった!」
箱の中から転がるように飛び出したのは、財宝でも閉じ込められた幼児でもなく、ローブに身を包んだ若い男だった。
◇◇◇
「くそっ! あの魔道具屋のオヤジ、とんだペテン師だぜ!」
金髪を振り乱しながら、男は盛大な悪態をついた。
よほど頭に血が上っているのか、ローブの先が箱の角に引っかかっていることにも気づいていない。
「あ、あの。ローブの裾、破れちゃいますよ」
僕の指摘に、男はバッと振り返ると慎重な手つきでローブの端を持ち上げる。
無事にローブを箱から外すと、気障な笑みを僕たちに向けた。
「助かったぜ、坊や。師匠から譲り受けた物に傷をつけるわけにはいかねえ」
地面すれすれまで垂れた、裾の長いローブ姿。
さりげなく口にした「師匠」という言葉。
何より、魔道具の箱から一人で現れた、この男。
僕の胸中で、ある推測が膨らむ。
けれど――魔法使いは、容易に正体を明かすべきではない。
師匠の教えが、喉元まで出かかった言葉を押し留めた。
「……あんた、旅人か?」
僕の代わりに問いかけたのは、アドルフだった。
男は一瞬だけ肩を強張らせると「あ、ああ。そうだが」と小さく答える。
「何処から来た? 何処へ行く?」
軍人特有の、有無を言わさぬ口調で詰め寄る。
金髪の彼は居心地悪そうに視線を彷徨わせていたが、アドルフの手が剣の柄へ伸びた瞬間にさっと顔色を変えた。
「待て待て! 怪しい者じゃない! 俺は……その、あれだ。ここで手品の練習をしていたんだ。空っぽの箱から飛び出す練習。手品師の見習いってところかな、ははは」
両手をぶんぶんと振り、必死の形相で訴える。
子どもでも騙されないような嘘を吐く男に、軍人も植物学者も白けた顔を向けていた。
「あの。さっき、魔道具屋って言いましたよね。その箱、移動のための補助魔道具ではないですか?」
ローブの青年は両目を丸くして、僕を見つめる。
「あんた、どうしてそんなことを」
「僕たちも……移動手段には工夫をしましたから」
あえて曖昧に答えると、男は少しだけ迷うような表情を見せる。
やがて何かを察したように小さく息を吐くと、
「なるほど。これを補助魔道具と見抜いたところ、坊やも俺と同類か」
これ、のところで箱につま先を向ける。
僕は「やっぱり」と呟いてから、剣の柄に手をかけたままの軍人を見上げた。
「アドルフさん、大丈夫です。この人は同業者ですから」
アドルフは疑わしげに鼻を鳴らしつつも、ゆっくりと剣から手を離す。
金髪の男は安堵したように吐息を漏らすと、
「まさか、こんなところで仲間に出会うとはな。俺はキース・ライネン。あんたらと違って独り身のさすらい人さ」
気取った調子で名乗り、握手を求めてきた。
細いがしっかりと節を感じる手を握り返し、僕は仮の名前だけ簡潔に告げる。
そのまま、隣に立つ二人を「アドルフとベンジャミンです」と紹介した。
「そっちの二人も、魔法を使えるのか?」
キースは縮れた金髪の間から青い両目をのぞかせ、軍人と植物学者を一瞥する。
よく見ると、アドルフと変わらないくらいの高身長だ。
乱れた髪さえ整えれば、女性の一人や二人は振り返るほどの色男かもしれない。
「いいえ。アドルフは剣術の達人で、ベンジャミンは植物学者です」
「また、変わった組み合わせだな……で、あんたらも旅の途中みたいだが、宛てはあるのか?」
「僕たち、これからタリアへ向かうところなんです」
「へえ、そうかい。タリアね――って、タリア?!」
頷きかけた直後、金髪の魔法使いは素っ頓狂な声を辺り一帯に響かせた。




