第45話 馬車商人探し
オリンビアの宿で一泊し、旅も七日目に突入した朝。
旅の支度を先に済ませ、僕とベンジャミンは食堂でアドルフと合流した。
彼はいつものように一足早く席につき、バターの塗られた干しパンを淡々と口に運んでいる。
スプーンが皿に当たる硬い音と、立ち上る温かな湯気が、朝という時間の感覚を緩やかに取り戻してくれる。
僕たちはアドルフの対面に並んで腰を下ろし、同じ朝食にありついた。
干しパンを奥歯で噛みちぎりながら、ぼんやりと昨夜の会話を思い出す。
エルディア皇族の関係者だと明かした後、僕はベンジャミンに問いかけた。
『そういえば、ベンジャミンさんは気にならないんですか? 僕の本当の名前』
『本当の名前、ですか』
『僕が偽名を使っているのは分かってますよね。皇族の立場ですし』
『ええ、まあ……ですが私は、もう“ネイサン”で呼ぶほうが落ち着きます。それに、名前が変わったところで、ネイサンへの印象は何も変わりませんから』
……何も変わらない、か。
当たり前のように言われた言葉。
それが「当たり前にならない」世界で育ってきた僕には、彼の言葉をすぐには飲み込めなかった。
魔法魔術を操る者にとって、本当の名前は特別な意味を持つ。
名前そのものに魔力が宿っているからだ。
もし、魔力を持つ敵に自分の名前を奪われたら――それは、魔法魔術使いにとって「死」を迎えたも同然。
だから、城の外では自分の本名を安易に名乗ってはならない。
父上にも師匠にも、口酸っぱく教え込まれてきた。
アドルフも理解していて、城を出てから一度も、僕の本名を漏らしていない。
うっかり言いかけることすらなかった。
ベンジャミンも、そうした事情を薄々察していたのだろうか。
名前だけじゃない。旅の本当の目的すら、何も聞いてこなかった。
残りのパンを白湯で流し込みながら、向かいに座る軍人をちらと一瞥する。
彼は――アドルフは、まだ気づいていない。
僕の正体が、ベンジャミンに知られたことを。
昨夜、ひとり布団の中で悶々と悩んだ末、僕はその話を黙っておくと決めた。
後ろめたいから……では、ない。
主従関係を結んでいるとはいえ、すべてを彼に洗いざらい話す必要もないのだ。
『自身にとって、国にとって、何が必要で何が不要か。適切かつ瞬間的に判断することが、我々皇族には求められる』
父上からの教えは、一言一句、胸の中に刻み込まれている。
自覚しなければならない――城を出て「影武者殺し」の使命を背負った瞬間から、僕はもう「護られる立場ではない」のだと。
黙々と、だが不思議と居心地の悪さは感じない空間で、僕たちは静かに朝食を終える。
そして、地平線から昇る朝日に迎えられながら宿を発った。
◇◇◇
馬車商人の街と言われるオリンビア。
まだ朝の早い時間にもかかわらず、生活の気配があちこちから感じられる。
石畳を叩く馬の蹄音、露店から漂う香辛料の匂い、煙突から立ち上る細い煙。
人々の営みが、今日も新しく巡り始めようとしていた。
「ところで、どうやって馬車商人に乗せてもらいましょう?」
オリンビアの街中をぶらぶら歩きながら、ふと疑問を口にする。
まず反応したのは、眼鏡越しに穏やかな視線を向ける植物学者だ。
「目的地が同じ方向の商人に声をかけて、乗せてもらうのが一般的でしょうね」
「でも、ただってわけにはいかないですよね。乗車賃みたいなのを払うか……」
資金に余裕があるとはいえ、物資の補充や宿泊で出費も重ねている。
距離が長くなればその分の対価も増えるだろうし、使い過ぎは禁物だ。
「アドルフさん、どうやって馬車商人を探します?」
歩きながら地図を見ている軍人に声を向ける。
彼は視線を手元から離さぬまま、人の流れを器用に避けつつ答えた。
「ローリイン湿原付近まで乗せてもらうのが理想だが、そこまで親切な商人はいないだろうな。せめて、中間地点の村までは馬車で行きたいが」
アドルフの言う中間地点は、ネーデラアルネという小さな村だ。
彼は地図上に引かれた一本の街道を指先でなぞり、周囲の地形を検分するように目を細める。
「ネーデラアルネは、隊商が立ち寄ることで有名だ。エーレ・ロード以南は砂漠や湿地帯が増えるから、商人の多くは単独より隊商を組んで動く。オリンビアから南下する馬車商人なら、ネーデラアルネへ向かう隊商をつかまえるのが得策だろう」
理路整然としたその口ぶりに、僕は改めて実感する。
彼を旅の相棒に選んだ、父上の判断の正しさを。
そして、僕もいつの日か、父上のように判断を迫られる時が来るのだと。
「ネーデラアルネって、どんな村なんですか」
「村自体はさほど大きくないが、隊商向けの宿泊施設や厩舎が充実している。それが村の主な収入源になっているくらいだ。貴族のもとで働く厩役にも、ネーデラアルネで下積みする者が多いと聞く」
「じゃあ、ネーデラアルネ行きの隊商を見つけるのが先決ですね」
結論づけた僕の隣で、ベンジャミンが「そういえば」と目を細める。
「宿を出たとき、反対側の通りにそれらしい馬車の一団を見ました。もしかすると、あれが隊商かもしれませんよ」
「本当ですか!?」
彼の案内に従い、僕たちは宿とは反対の道へ歩を返すのだった。




