第30話 屍肉喰い
二人と、逸れた。
そんな馬鹿な――喉が、鉄の味を帯びる。
地面に両足を掴まれたように、身動きができない。
後ろを振り向く直前まで、荷物を背負うベンジャミンの背中がたしかに目の前にあった。
後方に目を向けたのは、瞬きほどの時間だった。
見失ったんじゃない。
霧に呑まれたのだ。
山の魔力か? あるいは――
「……あの、旅のお方?」
鈴の鳴るような声。
背筋が跳ね、そろりと振り返る。
身体の向こう側が見通せるほどに透き通った女が、数歩離れた先に立っていた。
「やっぱり、先ほどのお方ですわね。会えて嬉しいわ。ひとりは、心細いでしょう?」
女は可憐な笑みを見せる。
少女のようにあどけなく、それでいてどこか妖艶で……危険な、笑顔。
頭の奥で警鐘が鳴る。
この女は、人族じゃない。
魔力を有した異形の存在――人の形に化け、その屍を喰らう。
屍肉喰いだ。
◇◇◇
屍肉喰い。
その正体は、人族の死体。
人の屍を何よりの美食とする魔物。
グールには男と女が存在し、女はグーラーと呼ぶ。
グーラーは絶世の美女へと姿を変え、その美貌で獲物を誘い込み、油断した隙に肉を喰らう。
『俺たちを、森へ引き込むつもりだったのかもしれん』
『あの女からは、死人の臭いがした』
アドルフの声が蘇る。
勘の鋭い彼は、出会った瞬間に感じ取っていた。
相手がその身に纏う、異様な空気を。
「ねえ……私と一緒に、麓まで下りていただけないかしら?」
微笑む唇の奥から、鋭い牙がのぞく。
頷けば最後――身もだえするような光景が、瞼の奥でフラッシュした。
「あ、あの……僕、急いでいるので」
「歩調は合わせます。ですから、どうか」
布靴が一歩、僕へと近づく。
反射的に、マントから杖を取り出していた。
「近づくな!!」
蠱惑的な笑みが、女の顔からすっと消えた。
代わりに浮かべたのは、一切の感情を削ぎ取った、仮面のような無表情。
「あなた、魔力の使い手なの?」
鈴鳴りの声から一変。
男のように低く、凄みのある声。
杖先を相手に向けたまま、右足を一歩後ろへ引く。
「仲間を……あの二人をどこへやった!」
「仲間? ああ、いたわね。勇ましい軍人の方と、ひ弱そうな灰色の髪の坊や」
女はふっと鼻で笑い、獲物への興味を失ったように身体を回転させる。
「ま、待って……二人は無事なんだよな」
「さあ。あなた次第じゃないかしら」
震える杖先に背中を向けたまま、相手は一歩、また一歩と遠ざかる。
やがて、その白い影は霧の中へ完全に溶けこんだ。
◇◇◇
足元も見ず、坂道を転がるように駆け下りた。
『二人は無事なんだよな』
『さあ。あなた次第じゃないかしら』
耳の奥で、女の艶めかしい声が絡みつく。
まさか、別のグールがすでに――?
悪夢めいた想像を、無理やり頭の中から追い払う。
アドルフもベンジャミンも、オルガノ山の中で魔物の気配を察知できた。
あの二人なら、きっとグーラーの罠からも逃げ切っている。
だから、どうか無事でいてくれ。
足がもつれ、顔から地面に勢いよく突っ込んだ。
口内で砂と血が混じり、頬の擦り傷が疼き始める。
目尻からこぼれる雫も、拭うことさえ忘れていた。
足首の痛みに耐え、地べたに膝をつきながら立ち上がる。
二人を……必ず見つけなきゃ。
マントから再び杖を取り出す。
フレアシダーに触れた右手のひらが、ドクリ――と大きく脈打った。
杖先を頭上に向け、最大限まで息を吸い込む。
〈イ・メーテル・ルークス!〉
光の束が霧を弾き、辺り一面を照らし出した。




