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影武者殺しⅠ―魔法使いと「影」の討伐―  作者: 真柴 石蕗
第2章 出会い
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第26話 不思議な出来事


 森は、いつの間にか霧の海と化していた。

 木々の輪郭も白に呑まれ、世界そのものがぼかしをかけられたようだ。



「ベンジャミンさん! ついてきてますか?」



 腰に結んだロープがぐいと引かれ、「ついてきてますよ!」と後ろで叫ぶ声。

 互いの存在を確認できる、唯一の命綱。

 (はぐ)れたら終わりと理解しているからこそ、一筋の縄が心強い。



 白一色で覆われた前方に、改めて目を向ける。

 仲間の痕跡を辿るのに、魔道具は役に立たない。

 霧に覆われた足元じゃ、いつ足跡を見失うとも限らない。


 ならば……自分の力で、気配を探るしかない。


 両目を閉じ、呼吸を細く刻む。

 視覚以外のすべての感覚を最大限に研ぎ澄ませ、森の気配を全身で受け止める。

 葉の掠れる音、風の音、生き物のかすかな息遣い。

 すべてを、身体で感じ取る。



 ――――!



 全身を、静かな震えが走った。

 感じ取ったのは――アドルフの、短い声。



「前です! アドルフさんがもう少し先にいるはずです!」



 我慢できず駆け出した。

 後ろでベンジャミンが「ぐえっ」と情けなく呻く。

 けれど構っている暇はない。



 すぐそこだ。

 彼は、アドルフは――まだ生きている。




 ◇◇◇




 霧の帳の中で、二つの影がぼんやりと浮かぶ。

 指を伸ばし、ベンジャミンが震える声を上げた。



「あ、あれ……アドルフさんじゃないですか」



 指が示す先には、何かを見上げるように頭を少し傾けた人影。

 間違いない、アドルフだ。


 ならば、向かいに佇む巨躯の影が、オーガ。



 不思議なことに、二つの影は互いに一定の距離を取った状態で微動だにしない。

 戦うことも逃げることもせず、ただ静かに向き合っている。



「ど、どうしましょう。このままじゃ、アドルフさんがオーガの餌食に」



 慌てて片足を踏み出したベンジャミンに、制止の手を伸ばす。



「待ってください……もう少し、様子を見ましょう」


「でも、アドルフさんは武器もないんですよ。あそこでオーガに襲われたら」



 ベンジャミンが言い終わらぬうちに、人影が巨大な影に向かって手を差し出す。

 何かを渡しているのか、あるいは手招こうとしているのか?



 まるで影絵を見ているかのような、不思議な光景。

 二つの影の間で、語らぬ会話が成立しているような気さえする。



 そして――僕もベンジャミンも、思わず息を呑む出来事が起きた。



 巨大な影は、人影から離れるように一歩ずつ後ろへ下がっていく。

 それはやがて濃霧の奥に飲まれ、僕たちの視界から完全に姿を消した。


 残された人影は、虚空に伸ばしていた手を静かに下ろす。

 何が起きたか分からないまま、僕とベンジャミンは前方へ駆け出した。



「アドルフさん! 無事でしたか!」



 至近でその顔を見た瞬間、張り詰めていた緊張が一気に解ける。

 縄を切り、霧の中に立つ軍人へ駆け寄った。

 アドルフは魂の抜けたような瞳で微笑むと、



「ネイサン、ベンジャミン。無事だったんだな」


「こっちは肝が冷えましたよ。バラバラの方向に別れたときはどうなるかと思いました」


「僕とネイサンは、同じ方向に逃げたのですが……アドルフさんの姿がないと気づいたときは、正直諦めかけていました」


「勝手に人を殺すな」



 安堵の笑い、弱音、皮肉。

 緊張の糸が切れた途端、次々と言葉が溢れ出る。



「ところで――さっきは、一体何が起きたんですか」



 (くだん)の奇妙な光景について、僕とベンジャミンはアドルフを質問攻めにした。



「アドルフさんがオーガに手を伸ばしたら、後ずさって森へ帰っていきましたよね。もしかして、剣以外に何か武器を持っていたとか」


「オーガが苦手な匂いの薬草を見つけて、それを持っていたのではないですか」


「実は、オーガを撃退する呪文を知っていたとか」



 雪崩のように押し寄せる質問に対して、アドルフは困惑げに眉を寄せ、一言。



「俺にも、よく分からん」



「「……ええっ!?」」



 あまりの拍子抜けに、霧の中から笑いがこぼれる。

 だが、当人は「本当なんだ」と困ったような表情。



「俺はただ、オーガに向かって『あんたは人喰いなんだろ。俺を喰いたきゃ喰えばいい』と啖呵を切っただけだ」


「ですが、オーガは凶暴で残忍な性格だと、ネイサンも言っていましたよね」



 ベンジャミンに「そうです」と返すものの、今となっては自信がない。



「まあ、モンスターも個体差がありますから。もしかすると、アドルフさんの余裕めいた姿勢が逆に相手を委縮させたのかもしれませんね」


「軍人の(オーラ)、ですか」



 珍しく冗談めかす植物学者に、帝国軍の青年は「ふん」と鼻を鳴らす。

 僕はもう一度、肩で大きく息を吐いてアドルフを見上げた。



「でも、本当によかったです……アドルフさんが、無事で」



 緊張が散り、ようやく胸の奥が温かさを取り戻していく――そう、思った矢先。



 視界が、ぐらりと揺れる。足元が遠のく。

 仲間の顔と声が、霧の中に溶けていく。



 あれ、何だか視界が……遠く……


 

 身体が後ろへ傾きはじめた瞬間、僕の意識はそこで途絶えた。

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