第21話 見えない存在
「――ネイサン」
不意にアドルフから呼ばれ、前方へ視線を戻す。
灰色の髪の向こう、薄霧の揺らぎに紛れながらも、剣を構える逞しい背中の輪郭が浮かび上がっていた。
「お前、いつでも動ける準備はできているか」
動ける準備――。
杖を握る右手に、力を込める。
深呼吸をひとつして、霧の冷たさを肺に押し込みながら顔を上げた。
「はい、できてます」
「よし。隊列を維持したまま前へ進むぞ。それから、眼鏡のお前」
ベンジャミンが「は、はい」と弱々しく応える。
「もし隊列が乱れそうになったら、ネイサンから離れるな。必ず二人一組で動け。分かったな」
「わ、分かりました……」
「進行方向は一本道だが、横道に逸れて森に呑まれたら終わりだ。再会できる保証はない。この道をしっかり憶えておけ」
最後の釘刺しは、僕とベンジャミンに向けられたものだった。
「はい」「分かりました」と声が重なる。アドルフは細い息を吐くと、
「行くぞ」
見えない敵へ立ち向かうように、右足を一歩踏み出した。
◇◇◇
泥土を踏む三人分の足音が、深い森の中で鈍く反響する。
霧が次第に濃くなり、足元までもを覆い隠そうとしていた。
――空気が、薄い。
呼吸のたびに肺が軋む。
胸の奥に鉛でも詰められているようだ。
意識して吸わなければ、霧に息を奪われて窒息してしまいそうだった。
「――ヒッ」
前を歩く植物学者が、突然小さい悲鳴を上げた。
背中に鼻先が触れる直前で、慌てて立ち止まる。
「ど、どうしたんですかベンジャミンさん」
「い、今……木の間を何かが横切ったような」
細長い指が、右手の森を示す。
視線で追った先には、鬱蒼と茂る樹々の影――その中で何かが蠢く姿はない。
「きっと、神経が昂っているだけですよ。落ち着いて、一度呼吸を整えてみては」
「いや、いるな」
アドルフが剣を右へ傾けた。
頭上からわずかに差す陽光が剣の刃先に反射して、鋭利な輝きを放つ。
「何だ……カラスか、コウモリか?」
「は、羽のようなものが一瞬見えて……それに、枝葉が擦れる音も」
それがもし、カラスやコウモリのようなただの動物ではなく。
特別な魔力を持つ、魔法生物だったら。
「――アドルフさん」
数歩前に立つ軍人の肩が、ぴくりと動いた。
「もし、本当に森の中に何かが潜んでいるなら……刺激せず進んだほうが良いでしょうか。それとも」
「あの木々を薙ぎ払って、隠れてる奴らを炙り出すか」
剣を構え直し、アドルフは森に向かって挑戦的な視線を投げている。
「俺は、いつでも剣を振るう準備はできてるぜ」
「分かりました……ベンジャミンさん」
「あ、はい?」
「僕から離れないでください。単独行動は絶対にしないように。いいですね?」
目に恐怖の色を湛えたまま、植物学者はこくこくと頷いた。
僕はマントから右手を引き抜き、杖の先端を森へ向ける。
鼻から長く息を吸い、杖に意識を集中させた。
〈――エクスターレ・シル・トルボ!〉
瞬間、杖を向けていた先の木々が一斉に震えた。
地面から噴き上がった旋風に耐えきれず、幹が呻き、枝葉が激しく擦れ合う。
鼓膜を裂くような音の奔流が、森の奥へと一気に駆け抜けた。
同時に、木々の中から黒い影が大量に飛び出した。
大きさは、生まれたばかりの赤ん坊ほどか。
突風に押し上げられ、ひょいと空へ跳ね上がっては、次々と木の影に呑まれて姿を消していく。
やがて風は止み、嵐が去った後の静けさが辺り一帯を覆い尽くした。
「い、今のは一体……」
ベンジャミンが宙を見上げる横で、アドルフは一切視線を動かさず森の方向を睨み据えている。
「油断するな、まだ残党がいるぞ」
「え?」
嵐の爪痕が残る森に、再び目を転じる。
すると――静寂から一変。
森の奥から葉擦れの音とともに、甲高い忍び笑いが漏れ出す。
赤ん坊の笑い声、なんてかわいいものではない。
旅人を森の奥へ誘うような、薄気味悪い囁き声。
もう一度魔法を放とうと杖を構えた、その瞬間――
「後ろへ退け!」
アドルフの叫びが、枝葉を散らす音と重なる。
闇を裂き、コウモリじみた影の大群がこちらへ飛び出してきた!




