第20話 オルガノ山
……コン、コン……コンコンコン!
硬い木板を叩く音に、はっと目が開く。
「ネイサン? 起きてますか」
扉越しの遠慮がちな声。
布団を蹴って、ベッドから転げ落ちるように起き上がった。
椅子に掛かったマントを慌てて羽織り、朝一番の気の抜けた声を出す。
「あ、はいっ……今、開けます」
乱れた髪を片手で整えながら、もう片方の手で扉を押し開ける。
丸眼鏡に灰色の髪をした青年が、ほっとしたような笑みを浮かべて廊下に立っていた。
「おはようございます。よく眠れましたか」
「ええ、おかげ様で……すみません、寝坊しちゃったみたいで」
「いえいえ。アドルフさんが早めに起こしてくれたおかげで、今からでもゆっくり朝食がいただけますよ」
寝ぐせの残る髪を直しながら、ベンジャミン・マルコムは「行きましょうか」と歩き出した。
木の床から隙間風が吹き込み、ぼんやりとした意識が少しだけ引き締まる。
食堂では、昨日と同じ席でアドルフが黙々とパンを口に運んでいた。
規則正しい咀嚼音が、静かな空間に響いている。
「相変わらず早いですね、アドルフさん」
「お前たちが遅いだけだ。軍じゃ夜明け前の起床が基本だ」
「軍人の訓練と同じにされても……」
ぼやきながら、卓につく。
朝食は、薄切りにした動物肉とパン、そして淡い緑色のスープ。
スープの器からは、仄かにクリーミーな香りが立っている。
「これは、グリ草のスープですね。温めたミルクとバターにグリ草を混ぜるんです。胃腸を整える効果があるので、朝飲むにはぴったりです」
植物や薬草の話になると、ベンジャミンは饒舌だ。
温かなスープを喉に流し込むと、体内に染みわたり不思議な活力が湧いてくる。
宿の外では、空がかすかに白み始めていた。
朝露と土の湿った匂いが漂い、鼻孔をくすぐる。
山道へ視線を向けていた老人が振り返り、こちらに向かって手招きをした。
「旅の者たちよ。わしから一つ、餞別をやろう」
彼の手には、二本の小さな石刀が握られていた。
受け取ると、ひんやりと冴えた感触が肌に伝わる。
「鉄職人が作った小刀じゃ。大した殺傷力はないが、お守り代わりに持つといい」
「何か特別な力が宿っているのですか」
尋ねると、老人はどこか遠くを見つめるように目を細める。
「大した小刀ではない……だが、いずれ何かのときに役立つじゃろう。かさばる物でもない。持っていきなさい」
なぜか、僕とベンジャミンにだけ手渡し、アドルフの分はなかった。
「お前さんにはこんな物、必要ないわい」
老人の不可解な言葉に、軍人は眉ひとつ動かさず荷を背負い直した。
「さっさと行くぞ。日が落ちる前に山を越えたい」
「達者でな、旅の者よ。幸運を祈る」
胸の前で十字架を切った老人に、僕とベンジャミンは小さく手を振り返す。
アドルフは彼のほうを振り返りもせず、暗い山道へと歩を進め始めた。
古宿の彼方に横たわる地平線が、臙脂色に染まる。
夜と朝の境目が滲み、山一帯に夜明けが訪れた。
◇◇◇
朝日が昇ってもなお、オルガノ山の中は薄闇に包まれていた。
森に纏う霧が、木々の影ばかりを濃く映す。
靴底が泥に沈む「じゅくり」という音が、不気味さを一層引き立てた。
仲間を見失えば最後、二度と会えなくなるのではないか――
得も言われぬ恐怖が、ふと胸を竦ませる。
「この森は、樹木が高くて光が遮られてるんですね……」
ベンジャミンが不安げに頭上を仰ぐ。
密集した枝葉が空を覆い、針ほどの細さの光がわずかに差し込むばかり。
風の音さえどこか遠く、その静けさが逆に耳を圧迫するようだ。
魔物の臓物――と畏怖される山は、人はおろか野生動物一匹すら見かけない。
「噂以上に……奇妙ですね。木はあるのに、草花がまったく生息していない」
言われて足元を見る。
ほとんど泥土と砂利で覆われ、花や薬草はおろか雑草さえ生えていない。
まるで、この道に生命力が宿るのを拒んでいるかのようだ。
「何か、いるな」
アドルフの低い声に、僕たちは足を止めた。
先頭に立つ軍人から、糸をピンと張りつめたような鋭利な気配が漂ってくる。
「な、何かって」
声を震わせるベンジャミンの背後で、僕はマントからこっそり杖を取り出した。
杖の先端を顔の前に持ち上げ、風に消えるほどの声で呟く。
〈ア・ウーラ・センティーレ――〉
その瞬間、全身を強烈な寒気が駆け巡った。
空気が重く、目に見えない何かが喉を締め付けるような感覚。
慌てて周囲を見回すが、そこには人影も動物の姿もない。
けれど、たしかにいる。
魔力を有した人外の生命体が。
それも、一匹どころじゃない。
アドルフが剣を抜いた。
氷のように澄んだ金属音が森の沈黙を裂き、空気の温度が一瞬で下がる。
ベンジャミンが歯を鳴らす音さえ耳障りなほどに、静寂が一帯を支配していた。
――確実に、何かが待ち構えている。
暗闇の奥で舌なめずりしながら。
獲物が自ら、罠に踏み入る瞬間を。




