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第18話 汚れた世界


「アドルフさん……アドルフさんってば!」



 先を行く軍人の背中は、振り返りもしない。

 仕方なく駆け足で横につき、息を切らしなが会話を続ける。



「いいんですか? 一ガロン金貨、あの眼鏡の人に渡したままで……」



 アドルフは相変わらず――というより、むしろ徐々に歩幅を広げながら淡々とした声で返した。



「お前だってウーラ村の酒場で同じことをしただろ」


「あれは……美味しい料理を、食べさせてもらったから……等価交換ですよ……でも、あの金貨は」


「俺の交渉も、平等な物々交換だ」


「ど、どこが平等なんですか」


「最初に、俺はあの眼鏡の研究者から金貨によって書物を買い取り、俺の所有物にした」


「それは……分かりますけど」


「そして、俺は自身の所有物に対する所有権を放棄した」


「所有権の……放棄?」


「俺は俺の意思のもと、あの書物の所有権を自ら手放した。だから書物の権利は、自動的にあの研究者へ戻る。だが、一ガロン金貨は書物と交換した時点でその所有権は研究者に渡った」


「だ、だからあの人は、金貨を返そうと」


「“返す”と“放棄”はまるで意味が違う。あいつが金貨を返すのなら、俺は書物をあいつに返す必要がある。だが、俺は書物の所有権を放棄した。なら、あいつも金貨の所有権を放棄すべきだ」



 それは「言葉のあや」というやつでは……。

 言い返す前に、アドルフは結論を叩きつける。



「俺があいつから一ガロン金貨を受け取る権利はない。以上だ」



 有無を言わせぬ口調に、僕は黙ってその背中を追うしかなかった。




 ◇◇◇




「――あの! そこの旅のお二人!」



 聞き覚えのある声に、立ち止まって振り返る。

 先ほどの丸眼鏡の青年が、息を切らしながらこちらへ駆け寄ってきた。



「あれ……先ほどの帝国軍のお方は」


「あ――ちょっとアドルフさん! アドルフさーん!」



 人混みの中から飛び出た頭が、ピタリと止まる。

 手招きを繰り返していると、渋い表情を浮かべながらも人波をかき分けてこちらへ戻ってきた。



「何だ。先を急ぐと言ったはずだ」


「あ……ええと、先ほどのお礼をしたくて、ですね」


「礼だと?」



 青年は眼鏡を落としそうな勢いで首を上下に振る。

 それから、胸に抱えた書物を小さく持ち上げた。



「この書物を、助けてくれたお礼です……これは、私にとってある意味では命よりも大事なものなんです。父が所有していた学術書や研究論文は、すべて焚書の対象となって今は跡形もありません」


「研究書や論文まで? それって、先ほどの教会の人たちが」



 青年は、悲しげな瞳を僕に向けて「はい」と呟く。



「ミヴエルでは、教会がとても大きな権力を持っています。一度でも教会の意向に逆らえば、『教会送り』で処罰されます」


「処罰って……まさか」



 眼鏡の青年は言葉を詰まらせた。

「書物と一緒に焼かれたいか」という中年男の言葉が頭に蘇る。



「でも、ミヴエルは学問が盛んな街ですよね? そんな街で、どうして」


「――思想の弾圧、か」



 アドルフの低い呟きに、青年が頷き返す。



「教会にとって不都合な研究は、ミヴエルでは認めらていないのでしょう」


「でも、植物の研究がなぜ教会にとって不都合になるんですか」


「さあ。私たち研究者には、その理由すら知らされないんです」



 理不尽、という言葉すら生ぬるい。

 帝国領内でそんな横暴がまかり通っているなんて、父上は教えてくれなかった。


 いや。

 知っていたうえで、僕に聞かせなかったのだ。

 

 帝国の中の綺麗な部分だけを僕に教え込んで。

 汚れた部分には蓋をして。



『エルディアは、すべての領民が平等で幸せに暮らす国だ』



 父上が語っていたのは、砂上の城――触れたらすぐに消え去る幻だったのではないか。


 立ちすくむ僕の横で、アドルフが吐き捨てる。



「所詮、見せかけの街ってことだ」



 ……今の話を、帝国軍の一員として国に仕える彼はどう感じているのだろう。

 


 気まずい沈黙を破ったのは、僕らを追いかけてきた眼鏡の青年だった。



「貴方たちは、私の窮地を救ってくれた恩人です。ですから、改めてお礼をさせてください」



 深々と頭を下げる青年に、アドルフは視線すら向けない。



「あんたの礼に付き合うほど、俺たちは暇じゃない。先を急ぐんだ。どうしても礼をしたいなら、ここで俺たちときれいさっぱり別れてくれ」


「では、せめてこの金貨を」



 ズボンのポケットから金貨が取り出されるより先に、アドルフは「いらん」と切り捨てた。


 青年はしょげた顔で、片手をポケットへ戻す。

 その様子を見ながら――ふっと、妙案を閃いた。



「アドルフさん……彼に、オラカロンまでの道案内をお願いするのはどうでしょう?」


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