第8話 隣に立つ距離(視点:結城 真帆)
夜の体育館は、昼より正直だ。
ライトを落とすと、床はすぐに影をつくる。
強い人の影は、輪郭がはっきりしていて、
迷っている人の影は、少し滲む。
私は、柚葉の影を見ていた。
昼間の1on1のあと、
柚葉は「続ける?」って聞いてきて、
「時間、短く」って、自分で線を引いた。
ああ、変わったな、と思った。
変わったけど、強くなったわけじゃない。
ちゃんと、弱くなった。
それが、嬉しい。
「真帆、帰る?」
部室の前で、柚葉が声をかけてくる。
声の高さが、いつもと同じ。
でも、目が少しだけ違う。
「うん」
私はすぐに返事をした。
即答した自分に、少し驚く。
前なら、
「もう少し残る?」とか、
「大丈夫?」とか、
余計な言葉を足していた。
今日は、足さない。
並んで靴を履く。
靴紐を結ぶ音が、二つ重なる。
沈黙。
でも、気まずくない。
「……明日だね」
柚葉が言う。
「うん」
それだけ。
それ以上、言わない。
言わないって、
こんなに勇気がいるんだって、初めて知った。
帰り道、コンビニの前を通る。
明るい光。
いつもの場所。
「アイス、買う?」
私が言うと、柚葉が一瞬迷ってから、頷いた。
「……うん」
冷凍庫の前。
私は、柚葉の横顔を見る。
前より、呼吸が深い。
膝を気にしてはいるけど、
それを“隠そう”としていない。
「ねえ」
私は、アイスを手に取りながら言う。
「明日さ」
柚葉が、私を見る。
「助けないよ」
一瞬、空気が止まる。
「……え」
「支えるけど、助けない」
私は、はっきり言った。
言い切った。
「柚葉が倒れそうになったら、隣にいる。でも——決めるのは、柚葉」
自分で言っておいて、胸が苦しくなる。
守りたい。
でも、守るだけじゃ、追いつけない。
柚葉は、しばらく黙っていた。
アイスの箱を握りしめている。
「……怖いね」
柚葉が、ぽつりと言う。
「うん」
私は、否定しない。
「でも」
柚葉が、少しだけ笑う。
「真帆が、隣にいるなら」
胸の奥が、ぎゅっとなる。
「……倒れても、いい気がする」
「だめだよ」
即答した。
即答できた。
「倒れるのは、私が見てない時にして」
柚葉が、吹き出す。
その笑い方が、久しぶりで、
私は胸の奥が熱くなった。
家に帰って、風呂に入る。
湯気の中で、今日のことを思い出す。
1on1。
柚葉が「怖い」と言った瞬間。
私が、触らなかった瞬間。
あの時、私は一歩引いた。
引いたのに、離れていなかった。
それが、答えだった気がする。
夜。
スマホが光る。
——朝霧 柚葉。
『ありがとう』
短い。
でも、重い。
私は、少し考えてから返す。
『明日、同じコートに立つだけ』
送信。
送信したあと、手が少し震えた。
寝る前、天井を見る。
暗い。
静か。
でも、心の中は、騒がしい。
勝ちたい。
負けたくない。
でも、それ以上に——
柚葉が、柚葉のままで、明日を終えてほしい。
それだけだ。
翌朝。
体育館に入ると、空気が違う。
試合の日の空気。
軽くて、重い。
黒瀬澪が、黙ってストレッチをしている。
目が鋭い。
でも、昨日より、少しだけ周りを見ている。
蒼が、入口の方にいる。
視線が、柚葉に落ちる。
前みたいに、膝だけじゃない。
陽菜先輩が、みんなを集める。
声は出さない。
背中で、行けって言ってる。
私は、柚葉の隣に立つ。
肩と肩が、触れない距離。
でも、離れてもいない距離。
「行こ」
私が言う。
「うん」
柚葉が答える。
コートに出る。
ライトが、眩しい。
私は深呼吸をして、思う。
——助けない。
——離れない。
それが、私の選んだ距離。
試合が始まる。
ボールが跳ねる音が、
昨日より、はっきり聞こえた。




