第3話 言えなかった足音(視点:篠宮 蒼)
体育館の外は、思ったより静かだった。
夕方の校舎は、人が抜けた分だけ音が増える。
誰かの笑い声。階段を降りる足音。窓の向こうを通る車のエンジン。
全部が混ざって、でも体育館の壁を越えては来ない。
俺は、扉の前で立ち止まっていた。
中では、女子バスケ部の練習が続いている。
ボールが床を打つ音が、一定のリズムで響く。
そのリズムの中に、柚葉の足音が混じると、すぐ分かる。
——少し、遅い。
遅い、というより、慎重すぎる。
踏み込みの前に、一拍だけ迷いが入る。
それは怪我をした人間の癖だ。
俺は、その癖を、誰よりも知っている。
「蒼、入らねえの?」
後ろから声をかけられる。
男子バスケ部のやつだ。
俺は首を振った。
「見学」
「相変わらずだな」
相変わらず。
その言葉は、昔から俺について回る。
俺は無口だ。
自分から話さない。
必要なことだけ言う。
でも——本当は、言えなかっただけだ。
扉の隙間から、中を見る。
コートの中央で、柚葉がドリブルをしている。
視線は前。
顔は落ち着いている。
でも、膝のサポーターが、やけに目に入る。
昨日のことが、勝手に思い出される。
——あの瞬間。
柚葉が踏み込んだ。
一瞬、バランスが崩れた。
俺は見ていた。
見ていたのに、声が出なかった。
「止まれ」
それだけ言えばよかった。
言えなかった。
その結果、真帆が滑って、床に擦り傷を作って、
柚葉は謝って、
俺は「帰れ」と言った。
正しかったかどうか、今も分からない。
正しいって、たぶん、後から決まる。
コートの中で、柚葉と黒瀬澪が1on1を始めた。
澪は速い。
無駄がない。
柚葉は——迷っている。
迷いながら、戦っている。
「……危ねえ」
思わず声が漏れた。
自分でも驚くくらい、小さな声。
その瞬間、柚葉が踏み込む。
サポーターの下で、膝が揺れるのが見えた。
俺の胸が、きつく締まる。
——まただ。
昔も、同じだった。
中学の体育館。
放課後。
人が少なくなったコート。
柚葉は、無理をしていた。
俺は見ていた。
「大丈夫?」って聞いて、
「平気」って言われて、
それ以上、何も言えなかった。
その次の日、柚葉は倒れた。
救急車のサイレン。
白い天井。
泣きそうな顔で笑う柚葉。
「ごめんね。心配かけて」
あの時、俺は思った。
——二度と、同じことはさせない。
なのに。
今、俺はまた、扉の外にいる。
コートの中で、真帆が息を乱している。
呼吸が浅い。
俺でも分かる。
「結城!」
誰かの声。
柚葉が水を差し出す。
真帆が、それを拒む。
俺は拳を握った。
爪が、掌に食い込む。
——何やってんだ、俺。
入れ。
今すぐ。
止めろ。
そう思っているのに、足が動かない。
動いたら、全部を壊してしまう気がする。
男子バスケ部の顧問が通りかかる。
俺は反射的に背筋を伸ばした。
「篠宮。見学か」
「はい」
「……気になるなら、声をかけろ」
短い言葉。
榊原先生と似ている。
似ているけど、重さが違う。
俺は、頷けなかった。
練習が終わる。
片付けの音がする。
ボールがカゴに入る音。
モップが床を擦る音。
柚葉が、入口の方へ歩いてくる。
俺は無意識に、視線を落とした。
膝を見る癖は、直らない。
柚葉は俺に気づく。
一瞬だけ、目が合う。
その一瞬で、分かる。
——無理してる。
「柚葉」
呼び止めた。
声が、少しだけ震えた。
柚葉が立ち止まる。
顔は、昨日より落ち着いている。
落ち着いている分だけ、危うい。
「……なに」
「今日」
言葉が詰まる。
何を言う?
帰れ?
休め?
大丈夫か?
どれも違う。
どれも足りない。
ポケットの中に、サポーターがある。
昨日、渡そうとして、拒まれたやつ。
俺は、それを握った。
「……これ」
差し出す。
柚葉は、ちらっと見る。
見るだけで、触れない。
「いらない」
即答。
昨日と同じ。
「捨てろ」
俺は、同じ言葉を返した。
同じ言葉しか、持っていない自分が嫌になる。
柚葉は、少しだけ笑った。
笑ったけど、目が笑っていない。
「蒼さ」
名前を呼ばれる。
それだけで、胸が詰まる。
「心配しすぎ」
心配しすぎ。
その言葉が、刃みたいに刺さる。
心配してるのは、今じゃない。
過去だ。
未来だ。
全部だ。
「……無理すんな」
やっと出た言葉。
短くて、弱い。
柚葉は、少しだけ驚いた顔をした。
そして、すぐに目を逸らす。
「無理してない」
嘘だ。
嘘だって、分かる。
でも、俺はそれ以上言えなかった。
言ったら、柚葉の選択を奪う気がした。
その夜。
俺は公園のコートにいた。
街灯の下。
一人。
ボールをつく。
ドン。
ドン。
音が、夜に溶ける。
シュート。
外れる。
リングに当たる音が、やけに大きい。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
柚葉の顔が浮かぶ。
真帆の傷。
澪の冷たい目。
全部が絡まって、頭が重い。
スマホが震えた。
——結城 真帆。
メッセージ。
『明日、1on1。逃げないで』
俺は画面を見つめたまま、動けなくなった。
逃げないで。
その言葉は、柚葉に向けられている。
でも、同時に——俺にも向けられている。
俺は、逃げている。
言葉から。
選択から。
責任から。
次の日。
朝の校舎。
廊下で、柚葉を見つける。
「柚葉」
呼ぶと、柚葉は足を止めた。
昨日より、少しだけ緊張している。
「なに」
「……昨日のこと」
言葉が、喉に引っかかる。
でも、今度は、引き返さない。
「あの時」
あの時。
中学の体育館。
救急車。
白い天井。
「止められなかった」
柚葉の目が、少しだけ見開かれる。
「止めろって、言えなかった」
言った。
やっと言えた。
「だから」
息を吸う。
胸が痛い。
「怖いって、言え」
柚葉が、何も言わない。
でも、肩が小さく揺れる。
「平気って言うな」
昨日の俺。
今日の俺。
全部、同じことを言っている。
沈黙が落ちる。
廊下の向こうで、誰かが笑っている。
その笑い声が、やけに遠い。
柚葉は、視線を落としたまま、指を握った。
サポーターの位置を、無意識に確かめる仕草。
「……こわい」
小さな声。
でも、確かに聞こえた。
俺の胸の奥で、何かがほどける。
ほどけた分だけ、責任が増える。
「それでいい」
俺は、短く言った。
それしか言えなかった。
柚葉が、ほんの少しだけ、笑った。
笑ったけど、涙は出ていない。
その笑顔を見て、思う。
——俺は、恋をしている。
守りたい。
でも、守るだけじゃ足りない。
一緒に、怖がらないといけない。
1on1。
勝負。
明日。
俺は、初めて、結果よりも怖いものを知った。
それは——
柚葉が、何も言わなくなる未来だ。




