第1章 第35話 人の心がわからない子 2
〇梨々花
わたしは何か悪いことをしてしまったのだろうか。そうに決まっている。そうでなければ、絵里先輩がこんなことを言うはずがない。
「嫌い」「気持ち悪い」「消えてほしい」「もう一緒にいたくない」「だからわざとぶつかった」。そんな呪いのような言葉を、泣き叫びながら吐き散らす絵里先輩。こんな絵里先輩の姿、初めて見た。今までわたしに見せてこなかった素顔。わたしを騙し続けてきた本性。それが勝利を目前にして白日の下に晒される。
絵里先輩の言葉をわたしが聞き漏らすわけがない。だからその一言一句がわたしの心を突き刺してくる。絵里先輩のことが大好きだった。中学で初めて見て、綺麗なそのプレーに憧れて、話してみるともっと素敵な人で、この人のことが大好きで大好きで仕方なくなっていた。それが絵里先輩にとっては真逆の意味になっていたのだろう。わたしが好きになればなるほど、わたしは嫌われていた。
どうすればいいのかわからなかった。謝ればいいのか。離れればいいのか。何をすれば絵里先輩の心が救われるのか。答えがどこにも見つからない。見つからないから、素直な言葉を届けることにした。
「どんな絵里先輩でも、わたしは大好きですよ」
しかしそれが、絵里先輩にとって一番聞きたくない言葉だったらしい。
「うぷっ……」
絵里先輩の口から唾液の泡が溢れる。限界を迎えた環奈ちゃんのように、絵里先輩もまた限界を迎えていた。わたしのせいで。
「タイムアウトお願いします!」
徳永先生がタイムアウトを取り、朝陽さんと胡桃さんが絵里先輩を抱えてベンチに戻っていく。わたしは……どうすればいいのだろうか。声をかけてあげたい。大丈夫ですよ、わたしがいるからと励ましてあげたい。でもそれは逆効果なのだろう。そしてその呪いの言葉を、今まで無神経にも吐き続けてしまっていた。全部、わたしが悪かった。
「梨々花先輩は悪くありませんよ」
しかしその自決は、環奈ちゃんが認めてくれなかった。
「人が人を好きになるのは当たり前のことです。嫌いになるのもそう。梨々花先輩は部長さんが好きだった。部長さんは嫌いだった。だったら部長さんは嫌いだって言えばよかったんです。それをしないでずっと逃げてきたのは部長さんでしょ。試合に負けてようやく終われると期待したのに、勝ちが見えて抑えきれなくなった。部長さんの弱さが悪いんですよ」
環奈ちゃんらしい……人の心なんて何も考えていない、自分勝手な言葉だ。今さらそれを咎めるつもりはないけど、でも黙っていられるほど余裕もない。
「絵里先輩の気持ちを勝手に代弁しないでよ……わたしたちのこと、何も知らないくせに」
「わかりますよ、部長さんの気持ちは他の誰よりも。人の心はわからなくても、部長さんの心だけはわかる。だってあたしも部長さんと同じで、梨々花先輩のこと嫌いですもん」
…………。……え。そう……だったんだ……。じゃあやっぱりわたしは本当に人の心がわからないらしい。懐いてくれているものだと思っていた。お互い考えていることは違くても、心はつながっていると勘違いしていた。はは……情けないな。これじゃ先輩失格だ……それに後輩としても失格……。
「まぁ部長さんは大丈夫ですよ。言っちゃった以上はもう仕方ない。隠してた感情を曝け出せばいいだけですから。それより次は梨々花先輩ですよ? 部長さんからつなげられる気持ちにちゃんと応えないと」
「気持ちって……嫌いなんでしょ。絵里先輩も、環奈ちゃんも」
「言葉なんてしょせん口から出たものでしかないし、本当に嫌なら逃げ出してますよ。紗茎から逃げたあたしみたいに。そりゃどうしようもないくらいむかつくこともあるけど、それだけだったらここまで一緒にいるわけがない」
「じゃああれはツンデレでほんとは大好きってこと……!?」
「それはあたしに聞かなくてもすぐにわかりますよ。あたしたちはバレーボールプレイヤー。感情はプレーになって現れる。もっとバレーに溺れましょう。その方がきっと、あたしたちらしいですよ」
「……環奈ちゃんらしいね」
あっという間に三十秒のタイムアウトが終わり、絵里先輩がコートに戻ってくる。瞳に涙を浮かべながら、わたしと目も合わせずに。
「梨々花先輩ナイッサー!」
暗く沈んだ花美のコートに、環奈ちゃんの声だけが響く。何度目かもわからない、わたしの連続サーブ。絵里先輩はこういうところが嫌いだと言っていた。わたしはバレーボールの天才だと。でもわたしから言わせてもらえば、環奈ちゃんや絵里先輩の方が天才に思える。
環奈ちゃんのリベロの技術。中学の頃から真似しようともがいてきたが、あんな先読みもずっと走り続ける体力も、決して真似することはできなかった。絵里先輩のもそうだ。出会った時に見せられ魅せられたトス。あれから四年間バレーを続けてきたが、あれを超える感動には出会えたことがない。わたしにできるのは、付け焼刃のやりたくもないこのサーブだけ……。
「……あ」
そんな気持ちの中打ったサーブは、ネットに当たって急速に勢いを落とした。辛うじて阻まれることはなかったが、失敗してもおかしくないサーブだった。環奈ちゃんの言う通りだ。言葉よりもはっきりと、感情がプレーに現れてしまう。
「くっそ……!」
ネットに触れたせいで逆に取りづらくなったサーブは双蜂さんの体勢を崩し、こちらにボールが戻ってくる。しかしさすがと言うべきか、返球という形になったが上手く人がいない位置にボールを返してくる。だがこれもまたさすが。さっきまで誰もいなかった位置に、環奈ちゃんはいた。
「チャンスボール……ですよ。絵里さん!」
普段とは違う呼び方をして環奈ちゃんがつないだボール。それは大きな弧を描いて絵里先輩につながれる。絵里先輩ならきっと朝陽さんにボールをつなげるだろう。わたしはそのブロックフォローに……。
「梨々花ぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
その声を聞いた瞬間、わたしの身体は駆け出していた。考えるより早く、身体がバレーで動いていた。
「146cmが、バックアタック……!?」
上げられたのは、速攻の時のような早いトス。しかし教科書のように綺麗なフォームから繰り出されたトスは他の誰に上げるよりも、高い。
「なんでこんなに高いの……!?」
双蜂さんが驚愕の台詞を漏らす中、紗茎のブロックよりも遥かに高いボールを、わたしは打ち切ってみせた。双蜂さんですら触れることもできない、絵里先輩の最高のトスからのスパイク。思えば初めてかもしれない。絵里先輩からトスを……ボールをつなげられたのは。
「ほんとむかつくでしょ、双蜂さん。この子、誰よりも小さいくせに最高到達点は胡桃に次ぐチーム三位なんだよ。今までスパイクの練習なんて全くしてないのに、本当に腹立たしいよね。私たちみたいな凡人を馬鹿にしてるんだよ。ほんっと、嫌になる」
変わらない呪いのような言葉がわたしの心臓を締め付ける。でもあのトスは、双蜂さんでも飛龍さんでも、環奈ちゃんでも上げられない。絵里先輩が、わたしのために上げてくれた、わたしにとって一番気持ちよく打てる、絵里先輩だけの最高のトスだった。
「もういいや、吹っ切れた。梨々花、私はあんたが嫌い。心の底からだいっきらい。これ以上一緒にいたら頭がおかしくなる。……でも双蜂天音や蝶野風美みたいな凡人なんかに負けるなんて、それ以上に絶対に嫌。あんたは誰よりもバレーボールの天才で、そのすごさを一番知ってるのも、引き出せるのも私。だからあんたの天才っぷりを見せつけて、そんなあんたに魅せられた私は悪くないって証明して、あんたを全力で振ってやる」
あぁ……もう……本当に……。
「絵里先輩……大好き……」
「うぷっ……ほんとに……大嫌い……」




