15.そのヘタレでくだらない理由がなによりの
「人間に恋したキツネ娘が去り際に残していく呪いの霊験なんて、そんなの一つしか無いじゃないですか。……ズバリ、『もう会えない呪い』ですよ」
もう会えない呪い。
そう言った水沼さんの言葉が、頭蓋骨の裏側で凶暴に反響する。
本邦に狐嫁の伝承は数あれど、その結末はほとんどが同じである。
ささいなきっかけから正体が露見したり、もしくは露見せぬまでも夫を欺き続ける罪悪感に耐え難くなるなどして、狐嫁は夫と家族の前から自ら姿を消すのである。
姿を消して、もう二度と現れないのだ。
「……それがキツネの本能だとしたら、それは、断固として強靱なものなんでしょうね」
僕が落とした呟きに、水沼さんは言葉を返さなかった。
彼女の雄弁な沈黙が物語るのが肯定か否定か、あえて明言するまでもないだろう。
「これは疑っているわけでも、もしそうだとして責めるつもりもないのですけれど」
そう前置きして、水沼さんは切り出した。
「夕声ちゃんが人じゃないこと、椎葉さんは本当に、少しも気にしてませんでしたか?」
心のどこかで隔たりを感じていたりとかはありませんでしたか? と水沼さん。
即答で応じられる質問を、僕は熟考する。
自分の内面を走査し、己の本心を探る。
そうして、そのままたっぷり一分近く考えてから、答えた。
「ありません。僕にとって大事なのは、やっぱり夕声が夕声であることだけです。この心だけは、僕が椎葉八郎太であること以上に間違いありません」
「ですよねぇ」
相当シリアスな調子で放った僕の台詞を、ごくごくあっさりと水沼さんは認めた。
「最初から疑ってなんていませんよ。普段の椎葉さんを見ていて、疑えるもんですか」
「水沼さん……」
「でも、だとしたらなおのこと不思議です。夕声ちゃんの呪にはハッキリ言ってイモムシみたいにみじめな威力しかないのですけれど、お聞きする限り今回はかなり必死だったみたいですよね。なのにそれが、ほんの少しの影響も及ぼさなかったなんて」
うむむ、と水沼さんがうなる。うなって、サントリーの緑茶を一口飲む。
「ねぇ椎葉さん、もう一つお聞きしてもよろしいです?」
「はい、なんなりと」
「どうして夕声ちゃんの告白を断ったんですか?」
切れ味鋭く核心に切り込んできた水沼さんに、我知らず呻くような声が出た。
僕が夕声を拒んだ理由。
夕声が最後まで気にしていて、なのに彼女を傷つけたくなくて答えられず……結果として最悪の事態を呼び起こした、問題の核心。
夕声に告げることは憚られたけど、しかし水沼さんになら話してもいい気がした。
「それは――」
僕は水沼さんに思い切って打ち明けた。
僕の告白を聞くに及び、水沼さんの表情がみるみる変わっていく。
深刻に。
深刻な呆れに。
「……え? 本当に、そんなくだらないことが理由なんですか?」
「くだらな……なんてこと言うんですか! 重大な問題じゃないですか!」
僕の反論に、水沼さんが大きくため息をつく。
「椎葉さんって、ヘタレですね」
グサッときた。
「ヘタレな上に、見ようによってはもの凄く子供ですね」
グサグサッときた。
「だけど、そのヘタレでくだらない理由がなによりの証拠です。椎葉さんは夕声ちゃんをしっかり受け入れてるし、しっかりあの子を愛してるんですね」
「あ、あ、愛って、そんな……」
「違うんですか? 夕声ちゃんんのこと、愛してないんですか?」
水沼さんが、有無を言わさぬ調子で畳みかけてくる。
「……………………他の誰よりも大切に思ってます」
「牛久大仏級のヘタレっぷりですねぇ」
呆れを隠さずに言ったあとで、水沼さんは誰かのモノマネで言った。やれやれ。
「とにかく、椎葉さんの心はわかりました。だから、あとはそれを夕声ちゃんにも伝えてあげてください。そのためには、なんとしても夕声ちゃんに会わないと」
まだ間に合うでしょうか?
そう言いかけて、慌てて出かかった言葉を噛み殺す。
噛み殺して飲み込んだ言葉の代わりに、僕は言った。
精一杯不敵に。
「こう見えて僕は追い込まれてからが強いタイプです」




