2.夢でも冗談でもない
タヌキ屋敷での騒動以降、僕の身辺には二つの変化がもたらされた。
一つは先駆けて描写したとおりのこと。
龍ヶ崎タヌキの間で、どうやら僕は一目置かれる存在になったらしい。あの小貝川の文吉と丁々発止渡りあった人間がいる、との噂は瞬く間にタヌキたちの地域社会に広がった。
というか、当の文吉親分が積極的に広めているらしい。
「文吉さん、よっぽどあんたのことが気に入ったみたいだな」と夕声。「こんなのまるっきり日置さんの時と同じか、それ以上だ」
僕がその叔父の甥っ子だということも噂の伝達を加速させたらしい。
文吉親分の惚れ込んだ若者はあの日置先生の甥御で後継者だそうだ、とタヌキたちは噂した。
人として生活する化けダヌキたちは電話やSNSまで駆使して、野生動物として生きる化けないタヌキたちは『溜め糞』という習性を使って(残した糞を利用して仲間同士で情報を伝え合うこの習性は、いわば野生のタヌキたちのSNSのようなものらしい)。
「嘘から出た誠だけど、これであんたは正式に日置さんの後継者に決まりだな」
やれやれ、と僕はため息をつく。後継者と言っても、僕は叔父がどういう立場で何をしていたのか、結局なんにも知らないままなのである。
とにかく、これが変化の一つ目。
そして変化の二つ目。
僕は夕声に求婚されるようになった。
※
『……あんた、あたしを嫁にしろ』
あの夜、僕のワイシャツに額を埋めながら、夕声は確かにそう言った。
あまりのことに僕が頭を真っ白にしていると、夕声はそれ以上なにも言わずに来た道へと走り去った。
彼女がいなくなったあとも僕はしばらくその場に立ち尽くし、それからどこをどう歩いたのか気付くと家に帰り着いていた。
疲れていたはずなのに、その夜は新聞配達のバイクの音が聞こえる頃まで寝付けなかった。
一度眠って目覚めると、すべては夢だったように元通りだった。
もちろん、タヌキ屋敷での一連の事件は確かに起こった(というか僕が起こした)ことだったし、翌日にはその影響も出始めていた。
だけどそんなのは『すべて』の範疇に含まれない。
そのときの僕にとっての『すべて』は彼女に集約されていた。
翌日からも、夕声の態度は少しも変わらなかった。次の日の学校帰りに我が家に立ち寄った時も、彼女は前夜の告白については少しも触れなかった。
まるでそんなことはなかったかのように夕声は振る舞ったし、僕もそのように彼女と接した。
なにも変化がないことに僕は拍子抜けし、そして、正直安心してもいた。
夕声との関係が何も変わっていないことに。変わってしまっていないことに。
やっぱりあれは夢だったのかもしれないと、やがて僕はそう考え始めてすらいた。
それが間違いだと知ったのは、そこからさらに数日後のことだった。
夕方の駐車場で猫たちと戯れ、『猫は人差し指を無視できない』という印象的な言葉とともに猫との挨拶方を僕にレクチャーしてくれたその後で、彼女は言ったのだ。
「なぁハチ。やっぱり、あんたはあたしを嫁にするべきだよ」
いつも通りの会話の流れの中で、まるでゲリラの奇襲攻撃みたいに。
もちろん僕の思考は白紙と化している。
頭が真っ白になりながら僕は夕声を見る。
その瞬間に、これが夢でないことを理解する。
夕声はさっきまでと同じように笑っていて、だけど、その笑顔は限界まで張り詰めていた。
口角はわずかに痙攣し、小さな鼻の穴はかすかな拡大と縮小を反復している。
そんな強ばった笑顔の中で、瞳だけが少しも笑っていなかった。
十七歳の少女は、ありったけの真剣を瞳に込めて僕を見つめていた。
これは夢でも、ましてや冗談でもないのだと、僕にそう気付かせるには十分過ぎるほどの。
「……ダメか?」
「だ、ダメかって……」
自分が何を言ってるのかわかってるのか?
僕はそう言おうとして、やめた。
わかってないわけあるか。そんなこと聞くのは、それ自体が大変な侮辱だ。
それからしばし、僕たちは一言も口を利かないままお互いに見つめあっていた。
視線をそらすことなんて出来なかったし、瞬きすることすら憚られた。
緊張しすぎて、口の中がからからに乾いていた。
ものの数分か、あるいは数十秒のことのはずなのに、数十分にも感じられた。
「にゃぁ」
僕らの膠着状態を破ったのは、足下で発せられた猫の鳴き声だった。
見れば子猫のマサカドが、僕のスニーカーに鼻頭をこすりつけていた。
僕らは弾かれたように同時に目をそらした。
まるで不純異性交遊の現場に踏み込まれたようなばつの悪さを感じていた。
「そ、そういえばさ、猫又ってほんとにいるのかなー」
「ね、猫又なー。二十年生きないとなれないらしいからなーあれ。猫の寿命で二十年って、結構ハードル高いもんなー。あたしの知り合いにはいないなー」
「そ、そうだねー。飼育下でも十数年、野良だと二年くらいしか生きられないらしいもんねー猫って」
白々しく上滑りする僕らの会話を、マサカドが呆れた顔をして聞いていた。




