第二十五話 確かにそこに存在する
二週間後。
生温かい空気が、美桜の肌をゆっくりと包んでいく。胸いっぱいに吸い込んだ風は、まるで季節そのものの匂いを含んでいるようだった。
時間は流れる。それがどんな形であろうとも。
「青葉師匠、今日も行きますか?」
雪村の声が静かに響く。美桜は目を向けることなく答えた。
「そうね、そのつもりだけど。」
一瞬の間が空く。雪村は何かを言いかけ、それを飲み込んだようだった。
「わたしも――いえ、今日は遠慮しておきます。」
美桜は顔を上げる。その選択を責めるつもりはない。むしろ、その気持ちは痛いほど分かる。
「……そう……雪村さんもツラいでしょ。」
雪村は慌てて首を振った。
「いえいえ、青葉師匠に比べたら、わたしなど全然ですよ。柊さんもですが、二人ともお強いですね……わたしなんて……」
強い? 青葉はかすかに微笑んだ。強さとは、一体何を指すのだろう。耐え続けることなのか、それとも、弱さを受け入れることなのか。
「いいえ、雪村さんは強いわ。」
青葉は優しく言った。
「一人でもちゃんと学校に来てるじゃない。それだけでも彼は褒めてくれるわよ。」
彼――その名前は口には出さなかった。だが、雪村には伝わったはずだ。それを聞くと雪村はそっと目を伏せた。
美桜はそっと手を伸ばし、肩を落とす雪村に触れた。
言葉をかけるべきか迷ったが、雪村の小さな肩を感じながら、美桜はただそこにいることを選んだ。言葉ではどうにもできない痛みがあることを、彼女は知っていた。
それでも、こうして隣にいることで、ほんの少しでも雪村の心が軽くなるのなら――。
美桜はそう願っていた。かつての自分なら、こんなふうに思わなかったかもしれない。けれど、今は違う。
変わったのだ。彼の影響で。
静かに雪村の肩へ視線を落としながら、美桜はそのことを確かに感じていた。
ーーー
放課後になると、美桜は決まってこの場所へ向かう。家へ帰るのと同じ方向なのに、もう一駅だけ先へ足を運ぶ。
ここを訪れるのは今日で三回目。駅を降りるたび、ほんの少しずつではあるが、空気に馴染んでいく気がする。
「こんにちは。」
扉を開けると、すぐに弾む声が迎えてくれた。
「あっ、美桜ちゃんだ。入って入って!」
美桜は微笑みながら、靴を脱いで施設の中へと足を踏み入れる。ここは小規模な児童養護施設で、五人ほどの子供たちが暮らしている。ケアワーカーが交代で面倒を見ており、日常生活を支えている。
慌ただしく動く子どもたちの姿を目にしながら、美桜はふと、ある顔を探した。
「寛太くん、今日は柊さん来てないの?」
尋ねると、寛太がこちらを振り返る。小学校四年生の彼は、いつも元気いっぱいだ。
「今、中にいるよ〜!」
そう言うや否や、美桜の手を引いて、迷うことなく奥へと導いていった。
美桜の視線が、子供たちの中にひときわ大きな影を捉えた。坊主頭の彼は、他の子たちよりもひと回りも二回りも大きく、その存在感に自然と目が引かれる。
ふと、視線が交わる。美桜は微かに微笑み、そっと頭を下げた。彼も同じように少し頭を下げると、気恥ずかしそうに頬をかいている。その仕草が新鮮で、美桜は思わず口元を緩めた。
その時、視線の先に動きがあった。
「青葉さん!」
弾む声が響く。エプロン姿の柊がこちらへ駆け寄ってくる。
「柊さん、早かったのね。いえ……私が遅かったのかしら……」
自分の言葉に少し苦笑する。確かに、あれこれと頼まれ事が多かった。でも、それを理由にするのは違う気がした。
「そうだね。青葉さんは頼まれ事も多いし。」
美桜は柊の口調の柔らかさに気遣いを感じ取った。
彼の様子を尋ねると、柊は迷いなく答える。
「相変わらずだね。すごく穏やかよ。」
その言葉が胸に残る。穏やかであることは、果たして良いことなのだろうか。美桜には、その答えがわからない。
どう接すればいいのか、どうすればいいのかも分からない。ただ、その思いを悟られないようにするしかなかった。
彼に向かって声をかける。
「こんにちは。」
「……どうも。」
返事は静かで、淡々としていた。美桜は涙をこらえ、話し続ける。
「学校のほうには夏休み明けから出れると伝えてるわ。だから、しばらくゆっくりできそうね。ただ、病院のほうは検査に行かないといけないから、その時は私が……」
「青葉さん、全部自分でしようとしなくていいよ。私も交代で付き添うから休める時は休んでね。」
柊が優しく肩に手を置くと、美桜の我慢していたはずの涙がこぼれ落ちる。いけない……と顔を逸らす。
その瞬間、大きな影が近づいた。顔を上げると、目の前には心配そうな彼の顔がある。
「柊さん、ちょっと出て来るんでここを任せていいかな?」
その穏やかな声に、美桜は戸惑う。
「う……うん。今からどこか行くの?」
柊の疑問に、彼は優しく微笑んで答えた。
美桜は、彼の突然の言葉に戸惑いながらも、その手を引かれるままに歩き出した。
何が始まったのか――何がきっかけだったのかは分からない。ただ、彼の急な行動に引きずられるように施設を後にする。玄関を出る間際、祈るような表情で頷く柊の姿が視界の隅に映った。その表情に、美桜は胸の奥が少し疼くのを感じる。
目の前を歩く彼の背は大きく、その手の温もりに戸惑いと微かな恥ずかしさが入り混じる。それでも、ただ黙ってついていくしかなかった。
しばらく歩いた後、彼が突然立ち止まった。
「美桜さん……僕はどこに行くつもりなんだろう。」
その言葉に、美桜は思わず息をのむ。そして、次の瞬間、堪えきれずに吹き出した。
目の前の彼は、恥ずかしそうに頬をかいている。その仕草が以前と違い、どこか幼くて、不思議と愛おしい。握られた手に視線を落としながら、美桜は微笑んだ。
「ゆっくり散歩でもする?」
彼はその言葉に小さくうなずき、再び歩き出した。
時折会話を交わしながら
時折立ち止まりながら
時折ただ微笑み合いながら――
そんな穏やかな時間が、静かに流れていく。
偶然が重なることが運命ならば、これはまさに運命なのだろう。
何も考えず、ただひたすらに歩き続けた先――美桜たちが辿り着いたのは、一駅ほど離れた場所だった。
美桜は、隣を歩く彼の横顔を見つめながら問いかける。
「ここに来たかったの?」
その言葉に、繋いでいた手にわずかに力が込められる。
「……そうかもしれない。」
曖昧な答えだった。それでも、美桜には何となく理解できる気がした。
「そっか……ちょうどこの時間だもんね。まだいると思うけど――あっ!ほら、あそこ――えっ、ちょっと待って!」
指差した先を見た途端、彼の身体が勢いよく動いた。
繋いだ手は離されることなく、その場所へと駆け出していく。
ゲートをくぐると、ちらほらといた人々が振り返り、怪訝そうな視線を向けてきた。しかし、何かに気付いたのか、次々と声をかけてくる――それと同時に、犬たちも集まり始めた。
美桜は周囲の動きに戸惑いながらも、手を引かれるままに歩を進める。
しかし、彼はまるでそれらを振り払うかのように駆け出した。美桜はその勢いに引かれながら、息を整える間もなく走る。
そして、彼は一匹の犬の前でピタリと足を止めた。
美桜も、その場で立ち尽くす。
「ふふっ、アルのこと本当に好きなんだね。」
「アル?……」
美桜は、彼が「アル?」とつぶやいた瞬間、彼の顔に戸惑いと狼狽が走るのを見た。
その表情は、何かを必死に探し求めているようだった。やがて、彼は頭を抱え込んでしまう。
美桜は、その姿に胸を締めつけられるような痛みを覚え、そっと視線を落とした。そのとき、ゆっくりと近づいてくる影があった――
『遅いぞ、聡明。さあ、カウンセリングを始めるか。』
「――犬が喋った?」
思わず息をのむ美桜。
「か……加賀見くん……う、うう……」
その声は震えていた。何もかも失われたと思っていた『加賀見聡明』の中に、まだ残されていたもの――アルとの繋がり。それが、確かにそこに存在していた。
美桜は、抑えきれない感情のままに彼の背を抱きしめる。涙が止めどなく流れ、彼の背中を濡らしていった。
ウォンッ、ウォンッ!
『コラァ〜!何、美桜とイチャイチャしている!このクソ坊主――ブハッ!というかお前、本当に坊主になってるじゃないか。自慢のリーゼントも失くして、すっかり普通の高校生らしくなったな!』
その言葉に、彼は反射的に声を荒げる。
「――なっ!普通の高校生だとぉ!この世界一のヤンキーに向かって――って……あれ?……」
美桜は息をのむ。
「――加賀見くんっ!?」
彼の雰囲気が変わった――それしか分からない。
アルが吠えたこと、二人が会話を交わしていること、何がどうなっているのか美桜には理解しきれない。ただ、一つだけ確信できることがある。
彼が――戻ってきた。
嬉しくて堪らない。
その瞬間、ふっと力が抜け、美桜の膝が崩れ落ちた。
支える腕が、美桜をそっと支えた。
「大丈夫?」
彼の声は、穏やかで、優しかった。
美桜は、涙に濡れた瞳のまま微笑んだ。
「ええ……おかえりなさい、加賀見くん。」
「……ただいま、美桜。」
見つめ合う二人――その穏やかな空気を壊すように、アルがわざと咳払いをする。
了
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。ラブコメとして書き始めましたが、振り返ってみると、いつの間にか現代ドラマのような仕上がりになった気がします。
これからも執筆を続けていきますので、応援よろしくお願いします!
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