第二十四話 青葉アルバート
ワタシが斗翔や美桜と出会えたことは、生涯において何にも代えがたい宝物だ。
二人と出会う前、ワタシは警察犬として訓練を受けていた。
だが、試験を通過できず、何度も再訓練の日々を繰り返した。
「君、向いてないんじゃない?」
「いい加減、諦めたら?」
「訓練もタダじゃないんでしょ。」
「そんなヤツほっとけよ。どうせもう会うこともないだろ。」
同期たちの冷たい言葉が突き刺さる。
悔しかった……。ワタシはただ頑張りたかっただけなのに。
それなのに、何度も試験に落ちるうちに『落ちこぼれ』の烙印を押されてしまった。
それでも、ワタシの傍には訓練士がいた。
「警察犬の訓練は厳しい。すべての犬が適性を持っているわけじゃない。でも、それは能力がないわけじゃないんだ。ただ、向いている仕事が違うだけだよ。」
その言葉に、救われた。
介助犬やセラピー犬になった者もいる。ワタシにも何か出来ることがあるはずだ――そんな時出会ったのが青葉賢三だ。
「お前、家来るか?」
『――!』
警察犬でも介助犬でもセラピー犬でもない。新しい居場所……ワタシは警察関係者である青葉賢三の家庭犬として迎えられた。
ーーー
「斗翔、うちの新しい家族だ!」
「わぁ……カッコいい!名前は?」
「訓練所では呼ばれていた名前があるが……せっかくだし、お前が決めてもいいぞ。」
「ほんと!?えっと……どうしようかなぁ。お前、頭良さそうだもんな……うーん。」
「ふっ、難しいか?一応、訓練所では『アイン』と呼ばれていた。」
そうだ。ワタシは『アイン』という名で呼ばれていた。
「――アイン!?すごくカッコいいね!賢そうな響きだ……じゃあ……お前の名前は『アルバート』!どうかな、お父さん!」
「いいんじゃないか。」
アルバートか……訓練所で落ちこぼれと呼ばれていたワタシには、もったいないほど立派な名だ。
「アルバート!僕がご主人様だからね!」
「ウォン、ウォンッ!」
ワタシにできることは限られている。でも、期待に応えたい。この子の誇らしげな顔を見ていると、ただの名ではなく、託された思いのように感じる。
「よし!アルバート、お前の任務は僕と一緒に美桜を守ることだ!」
――守る!?そんな大役を……このワタシに?警察犬として見限られたワタシが、誰かの守り手になれるのか?
「アルバート……守るって言っても気負わなくていいよ。僕がいないとき、美桜のそばにいてくれたらそれでいいんだから。」
そっとワタシの体を抱きしめる斗翔。彼の小さな手の温もりが、ワタシの胸に染み渡る。何もなかったワタシに、こんなにも温かいものをくれるなんて——。
「アル!アル!」
「美桜、アルじゃなくてアルバートだよ!」
「アル!アル!」
美桜……この子が斗翔の大切な存在——ワタシは、何があってもこの子を守り抜かなければならない。
ーーー
もう、ずいぶん時間が経った。
ワタシよりも先に逝った斗翔――賢く、優しく、誰よりも家族を愛する主人だった。
その背中を、もう何度も思い出した。
斗翔との約束……いつまで守り続けることができるのか。
ワタシは、時折その答えを探してしまう。
「おい、アル。ちょっと聞きたいんだが――少しの間だけ散歩に行かないって、そんなに嫌なもんなのか?」
聡明が、美桜に聞こえないように、慎重に耳打ちする。
最近、やけに毎日のように顔を出す。けれど、その態度に違和感がある。
まるでワタシを『何か』から遠ざけようとしているかのようだ。
『散歩は仕事や学校と一緒だ。心身のケアにも大切だからな。』
「つまり、休む気はない?」
『ハァ……理由を言え、聡明。』
「いやぁ〜……最近、世の中が物騒だろ?美桜も、危ねぇかなぁ〜とか?」
『美桜も』?――この言い方が引っかかる。
まさか、最近誰かが危険な目に遭ったのか?
聡明は嘘が下手だ。こういう時、必ずボロを出す。
彼の思考を慎重に読み取る……『美桜』というワードを出せばワタシが大人しく家にいると考えた?
だとすれば、聡明が本当に守ろうとしているのは――。
『前世の記憶で、何を見た?』
「――!」
聡明の表情が、一瞬、強張る。
やはり……。
もしかすると、そうじゃないかと思っていた。
ワタシは近いうちに死ぬ。
そして転生して――『加賀見聡明』になるのだ。
それをすべて受け入れた上で、聡明はワタシを救おうとしている。
だが――そんなことをすればどうなるか、誰にも分からない。
楽観的に考えれば、世界線が分岐し、ワタシも聡明も存在し続ける……そんな未来もあるかもしれない。
けれど、そんな保証はどこにもない。
もし聡明という存在が消えてしまう可能性があるなら……それは絶対に許されない。
『ワタシは、逃げないよ。』
「ふん……強情なヤツめ。」
聡明は、少しふてくされて先を歩き出す。
リードを持った美桜が、少し足早に追いつこうとする。
「毎日散歩について来るなんて、加賀見くんって、本当にアルが好きなんだね。」
「そんなんじゃねぇよ!『互助戒』のこともあるし、なんかあったら危ねぇだろ。」
美桜は、そんな聡明を見て嬉しそうだ。そして、一瞬顔が曇り――。
「そっか……なんか、ごめんなさい。いろいろ迷惑かけて。」
「――?べ、べつに……ほとぼりが覚めるまではな。俺は暇だし、アルも来いって言うし……」
――おい、ワタシは来いなんて言ってないぞ。
勝手に話を作るんじゃない。
まったく……。
美桜が分からないのをいいことに適当なことを……だが、まあ、美桜が喜んでいることだし、よしとするか。
「じゃあ、今度家に来る?」
「――え?マジで!」
ウォンッ!ウォンッ!
『コラァ〜!まだ付き合ってもないのに男を家に呼ぶとは何事だぁ〜!聡明、貴様!美桜に手を出したら許さんぞぉ〜!』
「あっ!アルも喜んでるの?」
美桜は無邪気に尋ねる。
ウォンッ!ウォンッ!
『違ぁ〜う!逆だ逆!反対してるんだ!ちゃんと伝えてくれ、聡明!』
「アルも大賛成らしいぞ!ククッ」
――なっ!?
ニヤリと、不敵な笑顔で見下ろす聡明。
コイツ……さっきの仕返しか。
ワタシの反応を見て楽しんでいる!?
「ふふっ、そうなんだ。加賀見くん、ずっと家に来たがってたでしょ?だからさ……えっと……あと、お兄ちゃんにも紹介したいし。」
美桜が聡明へ向ける眼差しは、兄に向けるものとは違う。
彼女は『加賀見聡明』という一人の男を、ちゃんと見ている。
美桜の傷がすぐに癒えるとは思えない。
それでも、『斗翔の影』は確実に遠ざかりつつある。
――それはきっと、聡明のおかげだろう。
ワタシの役目も、ここまでだな……。
カチリッ――胸の奥で、何かが静かに刻まれる音が響く。
なるほど……良かった。
運命は、ちゃんとワタシを選んでくれたか。
美桜と斗翔――二人と過ごした日々の記憶。
そして、今この瞬間もまた、永遠のように思えるのは、きっと聡明のせいだ。
――キィッーーーーーーーーーーーーーーーーー!!
「危ないっ!!」
目の前、道路の真ん中に小さな影が飛び出す。
猛スピードの車が蛇行しながら迫りくる。
運転手は子供に気づいた――が、もう間に合わない。
運命とは、無数の偶然が織りなすもの。
ワタシが、自らの死を受け入れたことで、世界がそれに応えたのだ。
「何か」の命のうえに失われた命なら、「何か」の命のうえで失われなければならない。
世界は教えてくれた。
――今、この瞬間こそが、ワタシの命が尽きるときなのだと。
リードが外れている。
見ず知らぬ子供が、道路に飛び出している。
美桜も聡明も――いや、人間では、我々のように先の未来は視えない。
けれど、ワタシだけは、一瞬早く動ける。
だから、ワタシ以外に、この子供を救える者はいない。
偶然が積み重なり、運命を形作る。
地面をぐっと踏みしめ、一歩踏み出す。
これでも訓練を受けてきたんだ。
子供一人を助けるくらい、造作もない――!
一瞬で決めなければならない!
突き飛ばすか? 投げ飛ばすか?
いや――ワタシが盾となるべきだ。
服を掴み、子供を庇うように身を差し出す。
衝撃が来る――!
轟音とともに空気が震える。
ガードレールへ突っ込んだ車が煙を上げる。
親が叫ぶ子供の名前。
美桜の叫びが遠くから響く――。
「うわぁ〜ん……」
胸の中で小さな声が震えた。
子供は無事だ……良かった。
赤く染まる道路を見て、ようやく悟る。
ワタシはもう――無事ではない。
だが、これが運命だ。
抗うことなく、受け入れる……
これでワタシは『加賀見聡明』と、一つになれる。
「いやぁ〜!目を開けてぇ〜!」
美桜の叫び声が胸に突き刺さる。
おかしい……これは、心の痛みだ。
なのに――身体に痛みがない?
ワタシと子供の身体を包み込む温もり。
道路に流れる血は、ワタシとこの子のものではない――。
パシャリッ――!
突如、視界が白く染まり、広がる。
同時に、頭の中へ映像が刻まれる――!
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「名前はつけてもらいました。えぇ……そうです。名前は、聡明くんです。」
「今日からここがあなたの家だからねぇ。」
「みんな〜、この子は新しい家族ですよ〜。」
「聡明くん!また喧嘩してきたの?」
「この子は自分から手を出すような子じゃありません!」
「聡明くん、その格好は何!?」
「どうして施設のみんなに迷惑をかけるようなことをするの?答えなさい!」
「また喧嘩ですか……もう手に負えません。」
「トシアキにぃは悪くないよ!」
「僕たちを守ってくれただけだよ!」
「探したぜぇ、加賀見!」
「私、アナタのような人、嫌いよ。」
「――アナタに『美桜』って呼ばれる筋合いはない!」
「ねぇ、加賀見くん……もしかして、アナタの前世は、私の騎士様だったりするのかな?」
「じゃあ、今度家に来る?」
『アル……お前……俺が反応できないと思ってただろ?お前に見えてるものは俺にも見えてるぜ!なんせ、同じ魂なんだからな!アルが子供を庇うなんてことは「すでに」見てるって!ククッ甘いぜ……世界一のヤンキー、舐めんなよ!』
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霞む視界の向こうに、ゆっくりと世界が開けていく。
ワタシはただ、立ち尽くしていた。
泣きじゃくる子供は、母親の腕の中で震えている。
道路の上――美桜が抱きしめているのは……血に染まった聡明――。
あ……ああ……そんな……。
まさか……この胸に残る記憶が――。
ワタシが聡明の前世だと思っていたのに……。
違う……違う……。
『加賀見聡明』が、ワタシの前世だったんだ――。




