第十九話 騎士と狂犬
「おはよう、加賀見くん。アナタ、昨日はどうしたの?」
朝の昇降口で、美桜とばったり出くわす。声のトーンから察するに、どうやら機嫌はあまりよくないらしい。靴箱に靴を収めながら、「おう、おはよう、美桜」と軽く返す。
美桜は所在なさげにモジモジしている。俺が靴を置くのを待ってくれているのか?――つまり、教室まで一緒に行くつもりなのだろう。手には風呂敷を抱えている。包みの形から察するに、中身は重箱だろう。いつものやつだな……。
「それ、持つよ」
そう言って、美桜の手から風呂敷をそっと奪い取る。「あっ」と、小さく漏れる声。指先がわずかに触れた瞬間、美桜はさっと胸元へ手を引いた。
俺は気にせず歩き出すが、美桜はその場で立ち止まっている。俯き気味の横顔が、どこか気まずそうだ。
「悪い、手痛かったか?」と尋ねると、美桜は少し目を逸らしながら、ゆっくり顔を上げる。
「ううん……持ってくれて、ありがとう」
その言葉とともに、美桜は小走りに駆け寄り、俺の横に並ぶ。
――なんだこれは!?凄まじい破壊力だった。めちゃくちゃ可愛いと思った。おそらく、この学校でこんな可愛い表情の青葉美桜を見たのは、俺だけだろう。
「でも、この弁当、俺のだろ?」
「――え?あ……うん。でも、べつに残り物だから」
どうやら、どうしても「残り物」で押し通すつもりらしい。真っ直ぐな性格だけど、素直じゃないんだよなぁ。
「もしかして、昨日も作ってくれてた?」
ふと、雪村が「機嫌が悪かった」と言っていたのを思い出す。きっと、せっかく作った弁当が無駄になったからだろう。
「べつに……柊さんたちが食べてくれたし……東郷くんたちとか男子も……」
「――なん……だと!?クラスのヤツらが俺の弁当を!?」
ぬぬぬぬぬ……怒りが込み上げてくる。
「ア、アナタの弁当って……昨日、休むからいけないんでしょ!」
「クソォ〜!美桜の手料理を俺以外が……しかも東郷みたいなアホまでもが……アイツ、美桜の言うこと聞かねぇくせに調子に乗りやがってぇ!ぶっコロしてやる!」
廊下を歩く生徒たちが、俺の覇気に怯えて道を開ける。だが、こういう時――
「いい加減にしなさい!」
「はい」
美桜の一喝が、俺の怒りを一瞬で鎮める。ヒーローは人に迷惑をかける悪を嫌うものだ。素直に応じた俺は、まるで事切れたロボットのように立ち尽くす。そんな俺を、不思議そうに見つめる美桜――そして、両手で俺の頬に触れ、じっと見つめてくる。
ち、近い……美桜の手の温もりが頬に伝わり、恥ずかしさで頭に血が昇る――
「アナタ……本当に『お兄ちゃん』なの?」
美桜にそう告げたあの日から、美桜はそのことに触れてこなかった。混乱はしていたはずだ。怒ってもいいくらいのことを告げた。だが今日、この日まで確認してこなかったのは、何かしらの違和感を感じていたからだろう。そして今――
「――!ちょ、ちょっと記憶があるってだけだ。斗翔の生まれ変わりとかではない……と確信した。だから、もうこの前言ったことは気にすんな。この記憶も勘違いかもしれんし」
そう言っても、美桜はなかなか頬を挟む両手を離してくれない。それどころか、さらに顔を近付けてくる――俺は呼吸すら忘れるほど、美桜の吐息が脳を刺激する!
「……でも……何か……どちらかというと……」
「――ん?どちらか?」
「か、加賀見くんと青葉さん!こ、こんなところで何をしているのかな!?」
わなわなと震える声が、俺と美桜の思考を一瞬で停止させた。声のほうを見ると、柊が今にも爆発しそうな勢いで立っている。俺と柊は友達だ。やましいことなんて何もないはずなのに、なぜか言い訳をしなければならないような雰囲気だ。
「柊……落ち着け!たしかにこの状況はおかしい。俺もおかしいとは思っていた。だが、よく考えてみろ……相手はど天然の美桜だぞ!俺たちがこんなところでキスなんてすると思うか!?」
「はい?キスって……どうしてそうなる――⚪︎△◻︎×⚪︎△◻︎×!!!」
声にならない声とはまさにこのことだ。ようやく状況を理解した美桜が、慌てて距離を取る。真っ赤になった顔を両手で隠し、その場に崩れ落ちてしまった。
美桜は、教室でもしばらく俺と目を合わせようとしなかった。いつもの鋭さもなく、ヒーローらしさを欠いている。日直の仕事すら疎かになり、移動教室の際の鍵閉めを忘れてしまうほどだ。
ーーー
「あれ?青葉さん、今日、日直だよね?教室の鍵は?」
「――え!?私、日直なの?いけない、忘れてた!ごめんなさい……鍵かけてくるね……え?でも、もう4限目だよね。2限目の移動教室のときは……大丈夫だったのかなぁ」
「そういえば、大丈夫だったよね。男子が閉めてくれたのかなぁ……あっ、でも芦屋くんって今日休みじゃなかった?」
「じゃあ、誰が?……とにかく確認してくる!」
クラスメイトに指摘された美桜は、慌てて教室へと駆け戻る。教室の鍵閉めは、盗難や不審者の侵入防止のために重要な役割を持つ。そして何より、美桜にとってこういったミスは、決して許せるものではないのだ。
ーーー
予鈴が鳴り、まもなく4限の授業が始まる。まあ、俺はヤンキーだから余裕の社長出勤が許される。そんな俺が鍵を閉めていると、廊下を走る足音が近づいてくる。
ふと顔を上げると、美桜が息を切らしながら駆けてきた。額には薄く汗が滲み、焦りの色が浮かんでいる。
「ハァ……ハァ……加賀見くん……」
「美桜、廊下は走っちゃダメなんじゃなかったか。ほら、これだろ?」
俺はそっと美桜の手を取り、鍵を手のひらにのせる。
「……あ、ありがとう。2限目の時も加賀見くんが閉めてくれてたの?」
「まあ……初めてやったから勝手が分からなかったが、一番遅くと一番早く、鍵の開け閉めをすればいいんだろ?」
「……私のために?」
「お礼とお詫びだ。いつも美味い弁当、ありがとな。ほら、急がないと美桜の嫌いな遅刻になるぞ」
美桜の表情は、直視できないほど穏やかだった。そんな顔を見ると、なんとも照れ臭い。だから、俺は言葉もなく前を向き、歩き出す。俺の歩幅に合わせて、小走りでついてくる美桜。
「ねぇ、加賀見くん……もしかして、アナタの前世は、私の騎士様だったりするのかな?」
そんな恥ずかしいセリフを、とんでもなく眩しい笑顔で言ってくる――
きっかけは前世の記憶だった。なぜか、青葉美桜を守れと心が叫んだ。前世の俺がそう言ってるんだと……。
だが今は、はっきりと言える。
加賀見聡明は、この笑顔を死んでも守りたい――そう、思っている。
ーーー
帰りのホームルーム前、雄介が勢いよく教室へ飛び込んできた。雄介は一年下の後輩だ。ヤンキーではないが、俺を慕ってくれている。
「加賀見さん!例の件、情報が集まりました!」
「わかった……ちょっとこっちに来い」
ようやく間に合ったか。雄介に集めさせたのは、『互助戒』という謎の組織の情報だった。
俺は雄介を人気のない場所へと連れて行く。あまりにも堂々と飛び込んできたせいか、美桜が怪訝そうな顔をしていたのが気にかかる。だが、そんなことに構っている時間はない。急がなければならない。
「ついにヤルんすね。伊達工との戦争!加賀見さん……人、集めますか?」
「雄介……これは戦争じゃない。ただ『互助戒』を潰すだけだ。特に鮫島――あの男を」
「それが全面戦争なんすよ!なんせ鮫島は伊達工のトップっす!潰せば伊達工のパワーバランスは崩れる。普段から加賀見さんに絡んでくる連中なんて、下部の下部……ただの下っ端っすよ!」
「……そうなのか」
「どうします?この星花高校には俺たちみたいに血の気の多いヤツはいません。別の学校に知り合いがいるんで、応援を呼びますか?」
「……いや、雄介。お前はここで手を引け。あとは俺一人で片付ける」
「――な、何言ってんすか!?一人なんて絶対無理っす!『互助戒』は組織ですよ!」
「だからこそ、単独で動くほうがいい。溜まり場さえ分かれば、鮫島が一人になったところを狙って潰せばいい」
「か、加賀見さん……さすがっす!悪魔っす!『狂犬』は伊達じゃないっす!伊達工だけに!」
「ふっ、おもんないぞ、雄介。でも、ありがとな。お前はこれから始まる伝説の立役者だ」
「――ウ、ウッス!」




