第十八話 センチメンタル・ドッグブルー
「今日のレオは機嫌がいいぞ、聡明」
「だろうな。雪村が一緒だからだろ?」
『ふむ……多少は、人の気持ちを考えるようになったのか?』
「犬の気持ち……だろ?」
『一緒さ。犬も人間も』
「アルと喋ってると、俺よりよっぽど人間らしいけどな」
アルは、ふっと鼻を鳴らした。
『……ワタシは、お前が羨ましいよ、聡明。人間として生を受け、美桜と同じ時間を生きていける。同じものを見て、同じもので笑い、同じもので悲しみ、同じものを共有できる……。
ワタシは、美桜と喋ることはおろか、同じ時間すら共有できているのかどうかも怪しい……』
アルは、胡座をかいた俺の膝に顎を乗せ、静かに目を閉じた。
いつになく落ち込んだ雰囲気。ブルーってやつだ。
……これはなんだ?何ブルーになる?
マリッジブルーとかあるが……結婚じゃねぇし……。
「それってドッグブルーみたいなもんか?」
『――いや、センチメンタルってやつさ』
「ふ〜ん。アルの話はいつも難しいから、よく分からんが……」
ぼんやりと空を見ながら、俺はふと口を開く。
「時間の共有っつっても、犬も人間も、死ぬのは一緒だろ?」
『ふむ……哲学か? 聡明』
「いや、難しいことは分かんねぇ。ただ、俺はその時までに後悔はしたくねぇってことだ」
『死ぬことを怖がるな……と?』
「そんなんじゃねぇよ。死んだ後、自分がどうなるかとか考えると、そりゃ怖ぇし。
ただ……アルは、美桜にとってすげぇ大切な家族だろ? たくさんの想いがある。
だから、犬とか人間とか、時間の共有とか関係ねぇだろ。
……だって、記憶は繋がってるじゃん。美桜も、アルも……俺も」
アルは、ゆっくりと目を開けた。
『――時間ではなく、『記憶の共有』か……フッ……。
前世の記憶を持つ聡明が言うと、なんだか、少し救われるものだな』
「まあ、アルの前に俺のほうが死ぬかもしれんけどな....」
『おいおい、勘弁してくれ。聡明には、美桜を守ってもらわにゃならんのだ』
「……ふっ、そうだな.....」
俺は、薄く笑う。
「それは、任せとけ!世界一のヤンキーだからな。覚悟だけは一人前だ!」
『フッ、頼もしいな』
「神〜! そのワンちゃんと、ずいぶん仲良しですねぇ〜!」
雪村とレオが走ってくる。
息を弾ませ、頬は紅潮している。
見るからに、ずいぶん遊び倒したようだ。
俺はふっと小さく笑い、立ち上がる。
「おしゃべりもここまでだな。そろそろ行くか?」
『ドッグカウンセラーか? ずいぶん乗り気じゃないか』
アルが軽く鼻を鳴らす。
「まあな。アルや美桜のおかげで……俺も、後悔したくなくなったからな」
アルは、じっと俺を見つめる。
そのまま、静かに目を細め――
『聡明……いい顔だ』
俺は肩をすくめ、茶化すように言ってやる。
「惚れたか? アル」
『言ってろ、相棒』
アルの声は、どこか温かかった。
ーーー
ひとしきりドッグカウンセリングを終えても、最近はすぐには帰れない。すっかり犬たちに懐かれてしまったのだ。アル以外とは直接会話はできないが、通訳さえいれば言っていることは理解できる。
『皐月のこと、どう思う?』とレオが聞いてくる。皐月とは雪村のことだ。つまり、女性としてどう思うかという問いなのだろう。当然、「ないな」と即答する。
『そうか……』と残念そうなレオ。その肩を、アルがそっと励ますように叩く。
マロンが呟く。『聡明くんには美桜ちゃんがいるからねぇ』どうやら美桜と俺の関係は、アルに聞いているようだ。
「マロン、美桜に手を出すとアルに怒られるんだぜ!この前だって、ハグしたって言ったらちょ〜動揺してたんだ!ククッ、目に浮かぶだろ?」
「ふ〜ん……でも今はもう……ねぇ?」と意味深な言葉を残すマロン。
すると次々と犬たちが言い出す。
「聡明〜おはなし、おはなし!」
「おやつ欲しいって伝えてるけど、くれないの〜」
「聡明、オレと勝負しようぜ!」
「聡明!」
「聡明〜!」
「だぁ〜!お前ら舐めるなぁ〜!」
もはやムツゴロウさん状態だ。ドッグランの犬たちが俺を取り囲み、本当の意味で俺を舐めてくる。
「か、神は……本当にワンちゃんたちの言葉が理解できるんですね……す、すごい」
俺の犬の言葉を理解する力を、本気で信じているのは雪村だけだ。いろいろ面倒だから誰にも言っていなかったことだが――まあ……雪村だから、いいか。
「そういえば、今日学校はどうしたんだ?」
雪村はピンと背筋を伸ばし、誇らしげに言った。
「――報告であります!本日、神が不在だったため、やむなく早退させていただきました!」
「は?ズル休みじゃねえか!」
「――うっ……しかし、神もいなかったことですし……それに青葉師匠も機嫌が悪く、近寄りがたく……それに神だってズル休みしてるし……」
雪村の声はしだいに小さくなり、最後はほとんど聞こえないほどだった。
「はぁ!?俺はいろいろ忙しいんだよ!」
「――ひぃ!忙しいって……犬たちと戯れているだけだし……あっ、でもそんなところもカッコいいというか、神々しいというか……」
「なんだって!?もう一回言え!」
雪村はびくっと震え、さらに声を小さくした。
「――ひぃ〜!これからはちゃんと一人でも学校に行きます!」
俺はじっと雪村を見つめる。
「ちぃ……本当にかよ。まあいい、じゃあ帰るぞ」
「――は、はい!」
アルに帰ることを告げると、雪村とレオと並んで歩き出した。
ーーー
今日、ドッグランに来たのは、ある覚悟を決めるためだった。アルと触れ合い、他の犬たちと戯れる時間も、悪くはなかった。
俺はいずれ死ぬ。もちろん、誰もがいつかは死ぬ運命にある。しかし、俺の死は、どうやらそう遠くないらしい。
前世の記憶と決着をつけるため、美桜の家を訪れるつもりだったが、今となっては、それすらどうでもよくなっていた。
“未来視”で見たもの――それは、斗翔には存在しないはずの記憶。つまり、美桜の家を訪れたところで、何も変わらないということだ。『互助戒』という連中に目をつけられた美桜は乱暴され、俺が助ける……そして、俺は死ぬ。
美桜が助かるのは良いことだ。しかし、俺の犠牲の上に成り立つ未来に、美桜が耐えられるとは思えない。
だったら――美桜が知らないうちに終わらせればいい!そもそもの原因である『互助戒』を潰せばいい。顔も名前も分かっている。伊達工の鮫島だ。
詳細な日付は分からない。ただ、薄暗い道を歩いていた美桜は私服だった。日が沈んだあとにもかかわらず、少し薄着だったところを見るに、時期は6月の終わり頃だろうか。
まだ、ほんのわずかばかりの猶予はある。
しかし――悠長に構えている余裕など、どこにもない。
美桜に降りかかる火の粉は、俺がすべて消してやる。




