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第8話:回復――呼べないのに呼ばれている

翌朝、グレイは“今日の分”を言わなかった。

言えば、刺激になるかもしれない。

満月が近い。

治療師の正論が、静かに圧をかける。


でも、言わないのは違う。

言わないと、私は“ここにいる確認”を失う。


その矛盾を、グレイは別の行動で埋めた。


朝のスープは、いつもより少し薄味だった。

心臓が跳ねないように。

でも、器の底にだけ、柔らかく煮た肉が少し入っていた。

私が驚かない量。


火鉢の炭は、音を立てないように並べ替えられていた。

部屋の温度は一定。


そして、机の上の札——“残す”の札の横に、小さな線が一本増えていた。


呼ばれていないのに、線が増えている。

私は首をかしげた。


グレイは言う。


「昨日は……怖がった」


「……うん」


「今日は……生きた」


生きた。

その言葉は、私の胸を静かに満たした。

跳ねない。

でも満ちる。


私は小さく言った。


「……呼ばないの?」


グレイは少し考えた。


「呼ぶと、跳ねるかもしれない」


「……でも、呼ばれないと、さみしい」


言ってしまった。

さみしい。

感情の言葉。

危険かもしれない。


私は木片を押そうとして、手を止めた。

木片を押したら、その音でまた刺激になる。


グレイは、私の迷いを見ていた。

そして、机の引き出しから、別の小さなものを出した。


布の切れ端。

外套の端を切ったもの。


「これを……握れ」


私はそれを前脚で触った。

あたたかい匂い。

彼の匂い。

でも音は出ない。


「合図は、音じゃなくていい」


彼はそう言って、私の前に布を置いた。

私が触れたら、彼は見る。

見るだけで、止まる。


優しい合理主義。


私は布を軽く押した。

グレイがこちらを見る。


「……呼んで」


私の声は小さかった。

でも本当だった。


グレイは深く息をした。

それから、いつもの距離を取り、いつもの声の温度で言った。


「ルナ」


心が揺れた。

でも——跳ねなかった。


私は返事をした。


「……うん」


それだけで、世界が戻った気がした。

喪失は消えない。

でも、回復の道はある。


その夜、グレイは札にもう一本線を引いた。

“残す”の横に。


「これ、何の線?」


「……呼んだ日」


「……呼べた日?」


グレイは少しだけ目を細めた。


「呼べた。……跳ねなかった」


私は、息を深く吐いた。

現実はまだ厳しい。

でも、ここは温かい。


満月の夜が、来る。


(次話へ:第9話「肯定:満月の夜、百回目の“跳ねてもいい”」)

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― 新着の感想 ―
呼ばれないもどかしさと、それでも“生きている”ことを認めてもらう安心感が交錯する回。 グレイの工夫と距離を保った優しさが、ルナの心を少しずつ回復させる描写が丁寧で胸に沁みます。
呼ばれなくても“ここにいる”とわかる関係性に涙。言葉を減らすことで、絆が深まるという逆説がとても美しいです。
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