第4話:正論――治療師の冷たい正しさ
森へ出るのは、慎重な儀式みたいだった。
グレイは外套を広げて、私が自分から入るのを待つ。
私は入る。
彼は歩幅を小さくする。
私の心は跳ねない。
森は、春に向かう匂いをしていた。
土が湿っている。
木の皮が温まっている。
遠くで水が走っている。
途中、治療師の小屋へ寄ると、彼はすぐに私の状態を見た。
「目が澄んだ。食べているな」
グレイは頷く。
治療師は次に、淡々と続けた。
「だが、危険だ。
この呪いは“回数”だ。
小さな幸福の積み重ねは、やがて大きな幸福になる。
大きな幸福は、心拍を跳ねさせる」
正しい。
理屈が通っている。
私は外套の中で小さく身を縮めた。
怖いからではない。
“正しさ”が、私の選択を否定するから。
治療師は私を見て言う。
「お前は賢い。なら、理解できるはずだ。
感情は、燃える。
燃えれば、消える」
グレイが口を開いた。
「……燃えない火もある」
治療師は眉を上げる。
「火は燃える。燃えないなら火ではない」
グレイは短く返す。
「炭は、静かに燃える」
治療師は少し黙った。
その沈黙が、妙に冷たかった。
「……詭弁だ。
いいか、魔狼。
情を与えるな。
慣れさせるな。
慣れたものを失うとき、心臓は跳ねる。
それが最も危険だ」
私は、その言葉に胸が揺れた。
“失うとき”。
グレイは答えない。
ただ、外套の口を少しだけ狭めて、私に冷たい空気が入らないようにした。
治療師の言葉が、私を刺さないように。
治療師は最後に言った。
「契約は理解する。
だが、満月の前後は絶対に刺激を与えるな。
——特に、“名前”だ。
名は心を揺らす。
名は絆になる。
絆は喪失になる」
私は外套の中で、札の文字を思い出した。
“呼ぶ”。
呼ばれるたびに、私はここにいると確認できる。
でも同時に、ここにいたいと思ってしまう。
グレイは淡々と言った。
「……だから、準備する」
「何の準備だ」
「失う準備じゃない。……守る準備」
治療師は吐息をついた。
「若いな。
守りたいものほど、壊れやすい」
私の心は跳ねなかった。
でも、決めたことが増えた。
——私は、守られているだけじゃない。
私も、この狼の決意を守りたい。
森を出る帰り道、私は外套の中で木片をそっと押した。
ころん。
グレイが止まる。
「どうした」
私は小さく言った。
「……ありがとう、って言うと、跳ねる?」
グレイは一瞬だけ黙り、そして言う。
「……言わなくていい。
代わりに、ここにいろ」
その言葉は命令みたいで、でも願いだった。
私は小さく頷く。
“ここにいる”。
それが、私の選べる感謝。
(次話へ:第5話「積み上げ:名前を“毎日一回だけ”呼ぶ」)




