どんなに年を重ねても
懺悔は全て赦すというのが決まり。その事に気が付いたクラウスは、一度目を見開いた後、空いている方の手で顔を覆い隠した。
「ハハ、その文言で言われたら、神父としては赦すしかなくなるじゃないか」
やがてその手を外すと、この世で一番愛しい者を見つめる暖かいまなざしが現れた。引き寄せられ今度こそ思いっきり抱きしめられる。
「大好きだ、俺を救い上げてくれたあの日から」
ほろほろと両目から流れ落ちる涙が暖かい。嬉しくて仕方なくて、今なら心臓が張り裂けてしまっても幸せなまま死ぬ事ができそうだった。
ふいに頬に手をあてて顔を上げさせられる。くすっと笑ったネリネはからかうように言った。
「今度は、ちゃんと口にお願いしますね」
「まったく君は……」
苦笑で返す神父がふいに真面目な顔になる。ゆっくりと下りて来るのに合わせ、ネリネはそっと目を閉じる。教会の片隅にある古い一室で二つの影は重なった。一度きりでは到底すまないそれは次第に深く、何度も繰り返される。
いつの間にかネリネは押し倒され、春の雨のように暖かな口づけを不慣れながらも一生懸命に受け止めていた。ふと間が空き、うるむ視界をうっすらと開ける。
「……悪い、もう限界だ」
欲に濡れた熱い瞳で見つめられビクッと肩をすくませる。意識しない内に両手を固く握りしめていた。自分の意思とは関係なくカタカタと震えだす身体が止められない。それを自覚したネリネは青ざめた顔で視線をそらしながら言った。
「す、すみません、平気です……」
どう見ても平気では無さそうな様子にクラウスは手を止める。できるだけ怖がらせないように優しく静かに問いかけた。
「怖いのか?」
キュ、と口を引き結んだネリネは、しばらくして消え入りそうな小さな声で打ち明けた。
「……ごめん、なさ……以前、たわむれに一度だけ王子に手を出されたことがあって……その時に、すごく、痛くて」
覆いかぶさる影がピタリと静止する。固まっていた彼から重たすぎるため息が落ちて来たとき、ネリネは今さらながらに後悔した。
(そういえば、初めてでなければ許せない男性もいると聞いたことがある。言わない方が良かっただろうか?)
またやってしまった。慌てたシスターは必死に先ほどの発言を取り消そうとする。
「あ、あの、大丈夫です。頑張ります、気持ちよくないって言われたけど――」
「あの腐れ外道、やはり殺しておくべきだったか……」
「え」
ボソ、と独り言のように呟かれた言葉に目が点になる。聞き返す前に、これまで以上に強く抱きしめられた。
「!」
「宣言しておくぞ。俺の物になったからには、君を金輪際ほかの男には抱かせないし、俺でしか満足できないような体にする」
「く、クラウス、待っ――」
「待たない」
こんなに意地悪な人だっただろうかと、怯えを孕んだ眼差しで見上げるとまぶたに一つキスを落とされた。
「っ、」
「そんなに煽らないでくれ、痛くはしないから」
ますます顔を赤くするネリネの頭に手を置き、いつものように撫でられる。その仕草は確かに安心できる神父クラウスの物なのに、耳元に寄せられた口からは、熱く滴る声が滑り込んでくる。
「安心して悪魔の手管に落ちるがいい」
「あっ……」
普段、極力さらさないようにしている服の下に触れられ、電流がビリリと走るような感覚が走る。同時に自分の口から飛び出した声は明らかに色を含んでいて……。この波が何なのか分からない内に、また身体の奥底から追い上げられる。
こんな感覚知らない。未知への恐怖で、思わず止めそうになったその時、耳元で声が響いた。
――ネリネ、俺の女神
何よりも愛しいという響きに、魂ごと抱きしめられる気がした。そうしていると、少しずつではあるが恐怖心が溶けていった。そこからもゆっくり、本当に丁寧に触れられて、全身を走っていた奇妙な感覚が、身体を内側から満たす幸せに変わっていく。
(ああ、わたし今、幸せなんだ……)
じわりとにじんだ視界を閉じて、目の前の身体に手を伸ばす。
「嬉しい……」
どんなに時が経とうとも、この夜のことは一生忘れないだろう。
そう、思った。
***
昨夜の嵐はどこへやら。今日のホーセン村は打って変わって穏やかな風が吹き抜ける青空が広がっていた。そんな中、席の向かいに座るテオ・フーバーは相変わらずの好青年だった。
「そうですか……残念ですが仕方ありませんね」
口の端を上げながらも寂しそうに言う彼に、ネリネは何度目になるか分からない謝罪を入れる。
「本当にすみません。今は家庭に入るよりもやりたい事があるんです」
「この前話して下さった、薬草の本の執筆ですか?」
「はい。わたしにしか出来ないことだと思うから」
周囲でこっそり聞き耳を立てている村人たちにも聞こえるようはっきりと言い放つ。紅茶のカップを傾けたテオは割り切ったようにさっぱりとした表情だった。
「わかりました、人の心に無理強いはできません。僕も一市民として応援していますよ」
最後に握手をして店を後にする。馬車が停めてある街道まで送ると、彼は別れ際、思い出したようにこう言った。
「あぁそうだ、僕の仲間内に印刷所に勤めている者が居ます、ネリネさんの執筆内容に興味があると思うので声をかけておきますよ。向こうから連絡してくるかもしれませんのでその時は相手にしてやってください」
「いいんですか?」
振ったのはこちらなのに何から何まで優しすぎる。するとテオは今までとは違う、ビジネス然とした表情でニッと笑った。
「これも出会えた縁でしょう? 僕は自分にとって有益な人かどうかを嗅ぎ取る嗅覚には自信があるんです、これからもよき友人としてお付き合いさせて下さい」
自信ありげな面構えは、彼がいずれとんでもない大物になりそうな気配を感じさせた。国を裏から動かしている教皇に対抗しうるのは、案外こういった若者なのかもしれない。
(だとしたら、少し楽しみだ)
今度こそ別れを告げてテオが横をすり抜ける。すれ違いざま、彼はネリネにだけ聞こえるように囁いた
「あなたの心を射止めたその方にどうぞよろしく、お幸せに」
ハッとして振り返るが、テオは振り向かなった。その背中を見送ったネリネは少しだけ頬を赤らめたのだった。
「やっぱり、わたし演技力ないのかしら……」
村での用は済んだので教会に戻る。鉄門扉を押してはいると、いつもの定位置に悪魔は居た。すなわち薔薇の茂みの前だ。
「あぁ、おかえり。お見合い話の決着はついたのかい?」
汗をぬぐいながら振り返る彼は、また子供のように顔面を泥だらけにしていた。それを見たネリネはフーっと軽いため息をついて苦笑を浮かべる。
「滞りなく。もしかしたら、わたしはとんでもない玉の輿を逃してしまったのかもしれません。惜しいことをしました」
「おや、二日目にして穏やかではない発言をしてくれる。神父をやめて実業家にでもなろうか?」
「あなたなら本当になってしまいそうですね」
軽いやりとりを交わしながら隣にしゃがむ。早咲きのピンクの薔薇をつつきながらシスターは微笑みを浮かべた。
「神父で十分ですよ、ドレスも宝石も要らない。わたしにはこのくらいがちょうどいいんです」
なんとなく綺麗な雰囲気になったというのに、隣の神父は茶化すように剪定ばさみを宙で振った。
「愛があればというやつかな? それは実に聖職者らしい回答だ。まぁ昨夜の乱れっぷりを考えるにその点は及第点と考えても――」
「気を抜くと変な歩き方になりそうなんですけど」
とげとげしい声を出しながら腰をさする。恨みがましい目で睨みつけると、バツが悪そうに視線をそらしたクラウスは少しだけ身を引きながら言い訳をした。
「いやまぁ、確かに昨日はがっつきすぎたと私も反省してる……でも仕方なくないか? 何年も想いを募らせていたところに媚薬だぞ、しかも当の君から!」
「薬を勝手に盛ったのはすみませんでした。でも禁欲主義ですよ神父、週一に控えましょうね」
「なんだって!? 私は毎日でも行けるぞ、まさか良くなかったのか!?」
「月一にしましょうか、性欲魔人さん」
「ネリネ~~」
情けなく声を漏らす悪魔にくすっと笑う。そうするとおかしくておかしくて、しばらく二人は笑い合っていた。この柔らかく吹き抜ける風と温かな空気がいつまでも続けばいい、そんなことを思った。
ふと、一本の薔薇を切ったクラウスは丹念にトゲを落としてからそれをこちらに差し出してくる。初めて何の猜疑心もなしに受け取ると彼はこんな事を言った。
「薔薇は贈る本数によって意味が変化するのを知っているかい? 記念に残るような事があるたびに少しずつ本数を増やしていこう。まずは一本『あなたしかいない』」
心を和ませる香りを堪能する。ずっと一人だった記憶はもう過去のものだ。隣に居てくれるのが破滅の悪魔様なら、そうそう簡単に居なくなることはないだろう。そんな安心感を胸に問いかける。
「ちなみに、プロポーズは何本なんですか?」
「百八本……だったかな?」
「……急いでください、あんまりのんびりしてると、おばあちゃんになっちゃいますよ」
半分本気で言ったのに、立ち上がったクラウスは当たり前のように微笑んで手を差し伸べて来た。
「きっと君はどんなに年を重ねたとしても美しいよ」
(あぁ……)
自分はもう、この悪魔から二度と離れられないのだろう。契約や肉体でなく、心が捕らわれてしまった。春の風に吹かれながらネリネは手を伸ばす。
「クラウス、近いうちに三日ほど教会を閉めて付き合ってくれませんか?」
「構わないが、どこへ?」
手を掴んで引き上げられたシスターは、心からの笑顔で答えた。
「母に伝えに行きたいんです。ありがとう、もう大丈夫だよって!」
失格聖女の下克上 おわり
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