黒い翼の守護天使
室内に問答無用で踏み込んだネリネは、サイドボードに水の入ったたらいを置く。看病するのかと思いきやそれは無視してベッドに腰かけた。
「ね、ネリネ?」
「……」
じっと、ほとんどにらみつける勢いで男を見上げていた彼女は、意を決したかのように目の前の体に抱き着いた。息を呑んだクラウスは彼女を引き剥がそうと肩に手をかける。
「いったい何を……」
「夜這いです」
大真面目な声で言い切るシスターに、神父はぎょっとしたように目を見開いた。間髪入れずに叫ぶ。
「何を考えているんだ君は!」
「そうですね、意外と自分に演技の才能があったことに驚いています」
「そういうことを聞いてるんじゃない!」
引き剥がそうとする気配を感じて、ネリネはますます抱き着く腕に力を込めた。彼の胸に耳を押し当てると普通の人間と変わらない心音が伝わってくる。
お互いにそのままの体勢で静止する。春の嵐が窓を叩いていた。腰に回った手にわずかに引き寄せられる気配を感じたネリネはそっけなく問いかけてみた。
「わたしを娘のように思っているんですよね? 娘に手を出すんですか?」
びくっと止まった手に構わず、顔を上げたネリネは彼の首筋に唇を寄せた。たどたどしい動きでリップ音が響くと、切羽詰まった声が降ってくる。
「っ、それは、君が煽るから……!」
感情の高ぶりがそうさせるのか、赤く光る灰がじゅっと燃え上がるのが視界の端に映る。それを見たネリネは冷静な声で言った。
「よかった、悪魔にもちゃんと効くんですね」
「は?」
そのまま視線を合わせることなく、ぴたりと身を寄せたまま説明を始めた。
「ごめんなさい、さっきの夕飯。ちょっとだけ薬を混ぜました」
「薬って、何の――」
「血管を収縮させて鼓動を早める薬草に、理性を鈍らせるハーブ、後はいわゆる精力増強剤と呼ばれる類のものでしょうか。成分濃度は人間の六十倍にしてみました」
「ろくっ……」
絶句する空気が伝わってくるが、無視してだんまりを決め込む。
娘のように思っていると言われて、ネリネはそれまで抱えていた葛藤がぷつんと切れる音を聞いた。自棄を起こして捨て鉢になった彼女は、先日作ってしまった惚れ薬とレシピを引っ張り出し、倫理観はどこへやらな強化をしてしまったのである。
「どうしてそんなことを……」
そうしてこの状況が出来上がった。汗ばむクラウスの匂いに包まれ、こちらも軽く酩酊しているようにくらりとしてくる。彼が摂取した薬が気化してこちらにまで影響を及ぼしているのだろうか?
「わたしは怒っています」
そんな中でも必死に理性を保ちながらハッキリと言う。そうすると淫靡な気持ちは少し収まっていった。代わりに怒りで無理やり抑えつけていた悲しさがこみ上げてくる。
「種族とか、わたしの為を想ってとか、そんなの全部建前じゃないですか」
このまま一つに溶けてしまえばいいのに、なんて荒唐無稽な事を考えながら彼の背中に手を回す。
「はぐらかされたくない、嫌なら拒否して下さい。この気持ちを見ないふりされるのだけはいや……」
「ネリ――」
「あなたが、好き」
ちぎれそうな心をふり絞って出てきたのは、厭きれてしまうくらいに情けない涙声だった。目の前の身体がぴくっと反応する。
「お願いだから……振るならちゃんと諦めさせて……」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら泣きつく。窓の外は相変わらず風が吹きつけていて、明かりもつけないこの部屋では聴覚だけがやけに鋭くなっていた。頬を伝った涙は彼のはだけたシャツに落ちて吸収されていく。
泣いていたネリネの背中にそっと手が当てられる。ハッと目を開いた彼女は身を固くして次に来るであろう言葉を恐れた。
「これは、距離感を間違えた私の責任……なんだろうな。すまない、こんな風に泣かせるつもりじゃなかったんだ。本当に……」
やはり、あのやんわりとした口調で諭されるのかと絶望する。ところが次に来たのは予想していた言葉とは少し違うものだった。
「君に話さなければいけないことがある。子供の頃に、黒い子猫を助けた事があっただろう?」
「……? あ、はい。毛足が長くて赤い目をした」
いきなり何を言い出すのかと思ったが、幼少期のおぼろげな記憶をたどると確かにその子猫は居た。今の今まで忘れていたというのに、撫でた時のふわふわとした毛の質感が鮮明によみがえる。
「あれは、私だ」
苦し気な呼吸の合間で打ち明けられ、ネリネは一瞬反応が遅れた。ややあって大げさな声が出てしまう。
「え、えぇ!? あの子がクラウス?」
「あぁ、魔界でヘマをして人間界に逃げてきたところを君に助けられた。……本当に効くなこの媚薬は。人間なら死んでるぞ」
はぁ、と熱い吐息が耳元にかかる。同時に軽く引き寄せられ心臓が飛び出してしまいそうなほど跳ねた。
「その時、君の母親と契約した。自分の代わりに君を守ってやってくれと」
「あ……、だからわたしを幸せにするために来たって――」
「それだけじゃない」
すり、と愛しい物に触れるかのように頬ずりをされる感覚が落ちて来る。普段の落ち着き払った声とはまるで違う、切羽詰まった声は何よりも耳に甘かった。
「君は、俺の女神だ」
「え……」
「崇拝する女神に手を出すなんて、冒涜的にもほどがある……」
不相応すぎる自分への呼称に混乱する。それでも懺悔めいたクラウスの告白は続いた。
「君の母親が言った『守る』という意味の中に、こういった未来は含まれていないだろう。それに、その時の契約で彼女は寿命を削った。もし俺がいなければもう少し長く生きられたかもしれない」
「……」
初めて聞かされる話に、ネリネは彼のシャツをギュッと握りしめる。知らなかった……自分が見ていない所でそんなことが起こっていたなんて。
「なぁネリネ、赦せるか? それらを全て理解した上で、君を手に入れようとしている悪魔の事を……」
その声はどうか逃げてくれと言っているように聞こえた。いま彼の中では二つの気持ちがせめぎ合っているのだろう。二律背反。ジレンマは悪魔を苦しめている。
(あ……)
ふと、拘束する手が少し緩んだ。逃げる選択肢を示してくれたクラウスに、ネリネは心がしめつけられるように感じた。
彼はどちらに転んでも後悔すると恐れている。このどこまでも優しい悪魔を救うには――
(ああ、なんだ。こんなに簡単な話だったんだ)
すっと身を起こしたネリネは、彼と視線が合うように座りなおした。泣きそうな悪魔の手を取り、しっかりと二人の間に押さえる。
「聞いて下さい。母とあなたの契約がどうであれ、わたしはわたしです」
思ったよりもしっかりとした声が出た。相手の心までまっすぐに届くよう言葉を選ぶ。
「母はわたしの事を想い、覚悟してあなたとの契約を結んだのでしょう。そこにわたしがとやかく言う権利も、あなたを責める意味もありません」
むしろ……と、軽く微笑んだネリネは、驚いたように見開かれた赤い目を見ながらこう続けた。
「あなたがここに居てくれることが、母からの何よりの愛に感じるんです」
自分は愛されていた。母もこの悪魔に託した事で少しは安らかに逝けたのだろう。それを知る事が出来ただけでもう、ネリネは満たされていた。
「クラウス、わたしは女神なんかじゃない。一人では悪意に簡単に押し流されてしまうような、ちっぽけな女です」
彼の左手ごと持ち上げたシスターは、まるで祈りのようにそれを胸元へと掲げた。
「暗闇の中で溺れそうなわたしを掴んで引き上げてくれたのはこの手でした」
目を開けると、黒い翼の守護天使は泣きそうな顔をしていた。ネリネは微笑みながら首を傾げる。
「不幸かどうかなんて自分で決めます。それでもわたしはあなたの隣で生きたい。悪魔を好きになったこと、赦してくださいますか? 神父様」




