越えられない壁
「おや、首尾よく行かなかったのか? それはおかしい、向こうも見る目がないな」
「どうしてあなたがそれを知っているんですか!!」
やや力をこめてテーブルに叩きつけたコップから水が踊り散る。きょとんとした顔のクラウスは首を傾げた。
「隣街の青年と顔合わせをしてきたんだろう? 村中その話で持ち切りだよ。結婚秒読みだと」
ショックで額に手をやりながら天を仰ぐ。「無難に案内をして別れました」の、どこをどう解釈したらそう飛躍するのか、噂はさらに尾ひれを増して広まっていくことだろう。
「何もありませんでした! 本当に村を案内しただけですっ」
何よりも、この向かいの席に座る神父にだけは勘違いされたくないと力強く言い切る。ところがクラウスはハーブティーをすすりながら平然と言ってのけた。
「どうしてそんなに意地っ張りなんだ。君にだって悪い話じゃないだろうに」
ぴくっと反応したネリネは握っていたスプーンに力を込める。怒りを抑えようとすればするほど、喉から絞り出す声は震えていった。
「それは……どういう意味ですか」
「どういう意味もなにも、よい縁談になりそうじゃないか、良かったな」
ゆるやかな笑みに心臓をガリリと削り取られたようだった。顔を上げることができず膝の上で握りしめた左拳を見つめる。
「わ、たしは、彼と結婚する気なんてありません」
「……。長い目で見るならば、教会から離れて一般家庭に入るのをおすすめするよ」
淡々と言い放つ言葉に胸が引き裂かれるように感じた。そんなことを言うなんて、彼は自分のことなんて何とも思っていないのだろうか。
「……わたしを幸せにするために来たって、言いましたよね?」
もはや恥じらいなど、千切れるような胸の痛みを前にして吹き飛んでいた。こんなもの、ほぼ答えだ。だがそんな必死の思いにもクラウスは平然と返す。
「ああ、そしてあの青年と一緒になればきっと君は幸せになれる」
「わたしはあなたが――!」
限界だった。手を突き乗り出したところで人差し指をそっと唇に当てられる。テーブルの向かいで同じように立ち上がっていた神父は、悲し気に微笑んでいた。目を見開くネリネを見つめ、諭すように言う。
「君がいま何を言いかけたのかは知らない。だけどこれだけは言っておこう」
「……」
「ネリネ、私は悪魔だよ。人のふりをしているけど人じゃない」
告げる事を赦されなかった想いが目の縁にたまり始める。それが一筋流れ落ちた頃、彼はようやく指を外した。ネリネは気持ちを言葉にする能力を失ってしまったかのように意味のない呻きを繰り返す事しかできない。
「でも……でも……」
「この前の一件で自覚してしまった。確かに私は君を愛しく思っている。だけど悪魔の花嫁だなんて、悪い冗談でしかない。きっと不幸せな未来しか待ち受けていない」
「そんな、こと」
「異種族というのはそう簡単に越えられる壁じゃないんだ。子を成せない、共に年を重ねていくこともできない」
二人を隔てているテーブルでさえも自分は乗り越えることができない。何の力も持たないちっぽけな女だと思い知らされる。
この胸の底でのたうち回っている感情のは何なのだろう。制御できない気配を感じて、冷静な部分のネリネは必死に手綱を取ろうと試みる。だが――
「そう、だな。私は君を娘のように思っている。だからこそ君の幸せを願っているんだ」
ぷつんと、あっけなく音を立ててそれは切れた。呆然とした表情を見て諦めたと思ったのだろう。クラウスは一言だけ残していく。
「君が彼と結婚するならば、私は神父として喜んで祝福の言葉をあげるさ」
彼が出ていき、食堂に一人残される。ネリネは彫刻のようにしばらく立ち尽くしていた。
「そうですね、わたし、感情を殺すのは得意でしたっけ……」
ぽつりと落とされた独り言に返す者はいない。
窓の外は生暖かい風が吹き荒れていた。春の嵐がすぐそこまで迫っている。
スッと目を見開いたシスターは、脱ぎ捨てたはずの仮面を今一度被る決意をした。
***
テオが再びやってくるという日の前日、教会の夕飯は普段と何ら変わりなく穏やかな時が流れていた。
ネリネはあの晩以降、激昂したのがウソのようにおとなしくいつもの様子でいた。話しかけられれば和やかに会話をし、あまつさえ冗談を言ったりもする。
質素な食事に祈りを捧げ、二人は食べ始めた。今日も窓の外は荒れ狂う春の風が吹き付けていて、新しくはない教会の壁をガタガタと揺らしていた。
パリンと、外から何かが割れる音が聞こえる。きっと外に出していた壺の一つが落ちたのだろう。そちらに少し注意を向けた神父は、気にするほどでもないと食事に向き直った。
「明日、もう一度あの青年に会うんだろう? 返事は決まったかい?」
「えぇ、心を決めました」
迷いのない声で即答され、クラウスはどこか寂しそうに笑う。スプーンを手に取りながら穏やかに続けた。
「なら、こうやって二人で食事をするのも終わりにしようか、あちらさんがよく思わないだろう」
「そうですか? テオさんはそんなこと気にするような人ではないと思いますけどね」
スープにパンを浸しながらネリネは答える。少し首を傾げ、どこかよそよそしさを感じさせるような言い方をした。
「あくまでも職場の上司の世話をしているだけですもの、とやかく言われることもないでしょう」
「はは、そういうわけにもいかないさ。私だって掃除に比べればまだ料理はできる方なんだ、一人でもなんとかするよ」
カチャカチャと食器の触れ合う音がする。他愛のない話をしながらネリネは伏し目がちに彼の手元を見ていた。食べるスピードを合わせてくれているのか、二人の皿はほぼ同時に空になる。食後の一杯を飲み終えたクラウスは、いつものように礼を言った。
「ごちそうさま、美味しかったよ」
「ありがとうございます、お嫁にもいけるでしょうか?」
茶化すように付け足された一言に、悪魔は一瞬だけ驚いたような顔をする。だがすぐに口の端を吊り上げると心の底から同意した。
「……ああ、充分さ」
そこから二、三、仕事に関する話をする。そろそろ切り上げようかと言う頃、クラウスはふと怪訝そうな顔をして襟元を握りしめた。
「……?」
「どうかされました?」
「ん、いや」
晴れない顔つきの彼は視線を上げる。食器を持って立ち上がると洗い場に漬け、手から水気を払いながら引き返してきた。
「すまない、後で洗う」
「気分が悪いのでしたら薬を……」
「いやいい、部屋で少し横になってくる」
心配そうな顔をしたネリネを残し、クラウスは足早に食堂を出ていく。ちらりと見えた横顔はどこか熱に浮かされたようにぼんやりとしたもので、こめかみから首筋にかけてうっすらと汗ばんでいた。
***
数分後、ネリネは彼の部屋の前まで訪れていた。しばらく立ち尽くしていたが、顔を上げるとコンコンとノックしてそっと話しかける。
「薬と身体を拭くものを持ってきました。入ってもいいですか?」
「……ありがとう、悪いが入ってこないでくれ。廊下に置いといてくれないか」
「……」
ガチャと、ネリネは相手の意向を無視して扉を開けた。遠慮なく奥に踏み込むと、クラウスはぎょっとしたようにベッドから上体をおこした。
「聞こえなかったのか、入ってこないでくれと――」
「すみません、聞こえませんでした。そのままだと風邪をひきますよ」
ざっと室内を見回す。初めて入ったが、ネリネの部屋と同じくシンプルな作りの部屋は綺麗に整頓されていた。と、言うよりほとんど物がない。
向かって右側に置かれているベッドの上から、こちらを見やる彼の様子は明らかに異常だった。肩で浅く苦しそうな呼吸をしていて、熱がこもるのか襟元は緩められている。擬態が溶けかかっているのか、薄暗い中で見える瞳は本来の赤色に戻っていた。




