歯抜けの女神様
毛玉は差し出された指を反射的に噛んでいた。ぶつりと牙が入り、ぴっと小さな悲鳴が降ってくる。ガジガジと喰い千切る勢いで噛みつくのだが、牙はそれ以上入って行かなかった。
それでも諦めず顎に力を込めようとした瞬間、いきなり身体の側面に小さな手を沿わされる。そしてそのまま抵抗する間もなく持ち上げられ、ペタンと座り込んだ幼女の膝に乗せられてしまった。驚いて噛んだまま見上げると、女の子は青ざめながら引きつった笑顔を浮かべていた。
「だ、だいじょうぶ、だよ、だいじょうぶ、痛くない、いたくないから」
痛みを必死にこらえているのだろう、涙をポロポロとこぼしながら沿わせた手をぎこちなく動かしている。しかし『撫でられる』という行為を知らない毛玉はその動きすら攻撃の一種だと捉え縮みあがった。
だが悲しいかな。それ以上抵抗する体力はもうどこにも残されていなかった。毛玉は急激に力が抜けていき視界が暗転していく。そしてそのまま果てない絶望感を味わいながら、小さな手に抱えられ運ばれていくのを意識の外側で感じていた。
***
次に目が覚めた毛玉は、起きて数秒で口の中に突っ込まれた液体を盛大に噴き出していた。ゲロゲロと吐いていると頭上から声が降ってくる。
「おや、目が覚めたのかい? 嚥下しな嚥下。魔女さんのありがたいクスリを吐き出すんじゃないよ」
ビクつきながら顔を上げると、灰色の髪を一つ結びにした女性がこちらを見下ろしていた。理知的な緑のまなざしも相まって嫌に見覚えのある色だ。
「なんだいその目は、助けて貰ったってのにずいぶんと反抗的じゃないか」
言葉は、分かる。人間の言語などどれだけ朦朧とした頭でも理解できる。だが、分からないのはその内容だった。助けた? 自分を?
そこで毛玉はようやく己の状態を確認した。切り傷だらけだった短い手足には包帯が巻かれ、焼け焦げた皮膚にはベタベタする薬らしきものが塗りこまれている。
辺りを見回せば、そこはどうやら小さな小屋の中らしかった。自分はパチパチと爆ぜる暖炉の脇に置かれたカゴに入れられているようだ。体の下に敷かれた可愛らしい黄色の布を見てようやく毛玉は気づく。もしかしたら自分は、無害な小動物――黒い子猫あたりにでも誤認されているのでは?
「ネリネに見つけて貰わなかったら鳥のエサにでもなっていただろうね、あの子に感謝しな」
「おかあさん、ヨモギ、ヨモギあった」
タイミングよく扉が開き、カゴを抱えた幼女が嬉しそうな顔で駆けこんでくる。立ち上がって出迎えた母親は荷の中身を点検しながらうんうんと頷いた。
「よしよし合ってるね、この素材の使用法は?」
「えっと、よく揉んで、やけどした患部に貼りつけます。体を温める効能があり、リラックス効果にもきたいできます」
「せいかーい! さっすがわたしの娘!」
「きゃー」
満面の笑みで抱き合う親子を見て毛玉は何とも言えない気持ちになった。何を見せつけられているのだろう。
「ほら、あんたの患者が目を覚ましたよ」
「あぁっ」
輝く視線を向けられて毛玉はビクリと反応する。駆け寄ってきた幼女はキラキラとした瞳で語り掛けてきた。
「大丈夫? 気分は悪くない? 痛いところは?」
答えることもできたが、返事を期待して問いかけたわけではないだろう。毛玉は黙り込んだまま状況に身を任せることにした。母親が腕を組みながら娘に言う。
「拾ってきたからには、あんたが責任もって診るんだよ」
「うんっ」
どうやら敵意はないらしい。それを判断した毛玉はなんだか拍子抜けして、肩の力を久方ぶりに――それこそ十数年単位で抜いた。もぞりと丸くなり再び睡魔に襲われる。
***
その日から、ネリネと言うらしいその娘は実に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。己の十分の一も生きていないであろう子供から下の面倒まで見て貰うというのは、なんともむずがゆい気分ではあったが、どうせこの世界に知り合いは居ないのだと思うと吹っ切る事ができた。
食事を手ずから食べさせ、日に一度彼女の母親が作った薬を丁寧に塗りこんで包帯を巻いてくれる。正直、魔界の生き物である自分に人間の薬が効いたとは思えなかったが、襲われる心配もなくゆっくり休めるのはありがたかった。なにせ今の弱った身体では野生動物にすら太刀打ちできなかっただろうから。
毛玉は持ち前の生命力もあり、半月も経つ頃にはゆっくりとではあるが歩けるまでに回復していた。そんなある日の午後、森の中を共に散歩しているとネリネがひょいとこちらを持ち上げる。
「知ってる? 手当てってね、こうして治したいところに手を当てるだけでも効果があるんだって、おかあさん言ってたよ」
小さな手が頭を撫でるのを堪能しながら目を細める。今ではそれが愛情からくる行為だということを毛玉もきちんと理解していた。こちらからも彼女を撫でられないのを彼は少しだけ残念に思った。本来の姿で撫でようものなら、間違いなく彼女をぺしゃんこにしてしまうだろうから。
せめて子猫のふりをして小さな手にスリと額を押し付ける。するとネリネは木洩れ日を背に、歯の抜けた顔で嬉しそうに微笑んだ。
「元気になってよかったねぇ」
微笑ましい間抜け面だというのに、毛玉にはそれがとても眩しく女神のように見えた。歯抜けの小さな女神様がそこには居た。
***
「知ってるよ、あんたただの猫じゃないんだろう?」
この温かくて小さい庵に逗留してひと月が経とうかと言う頃、彼女の母親は何の前触れもなくそう切り出した。
その日は虫の音が響く涼しい夜で、夕食を食べてお腹が満たされたネリネは母親の膝にもたれかかり先ほどから小さな寝息を立てていた。毛玉はすっかり定位置となったカゴの中から顔を持ち上げそちらを見やる。ケホケホと空咳をした母親は、哀し気な目でこちらを見ながら言った。
「悪魔さん、わたしと取引してくれないかね」
正体を看破されていたことに驚きはなかった。思い起こせばこの母親は常にこちらとは一定の距離を置いているように見えた。子供にも『別れが辛くなるから名前を付けるな』と警告していたのは、無意識とはいえ悪魔を名前で縛りつけることを……そしてその弊害を恐れていたからだろう。
そんな聡明な彼女がなぜ。返事はせずじっと見つめていると、母は膝の上ですぅすぅと眠る愛娘を撫でながら言った。
「五年……とか、十年後、もしかしたら、この子は望まない運命に巻き込まれるかもしれない。その時、わたしに代わってこの子を守ってやって欲しいのさ」
その運命がどういった物なのかは分からない。だが彼女の口ぶりからするに、避けられない運命のようだった。
「せめて、あと一日早く産んでやれれば良かったんだけど……。お願いだよ、この子が一番つらい時、わたしはたぶん傍にいてやれない。ネリネを一人ぼっちにしたくないんだ」
優秀な薬師である彼女は、自分の生い先が長くないことを自覚していたようだ。しかし、寄りによって悪魔に頼ろうとは……。
――元気になってよかったねぇ
ふと、自分を抱きしめ、心底嬉しそうに笑うネリネの顔がよみがえる。そして母親にもたれる寝顔を見た瞬間、悪魔は心に決めた。最も縁遠いはずの神に誓った。己の神に誓って彼女を一生涯守り抜こうと。
立ち上がった悪魔はカゴから出てソファへと飛び移った。ネリネの母の指に軽く噛みつくと契約の血を舐めとる。舌先に触れた魂はとても甘美な味がした。
「……ありがとう、頼んだよ」
健やかに眠るネリネの上で、密約は交わされた。ぱちりと、暖炉の火が爆ぜる。そちらを見つめる母親の横顔は、とても憂えた物だった。
「できれば、そんな日が来ないことが一番なんだけどね……」
***
やがて完治した悪魔は野生に還された。見送りの場面はよく覚えている。泣きじゃくるネリネの肩を母親が優しく叩いていた。
「ほら、笑顔で見送っておやり。あの子はこうするのが一番なんだ」
「うっ、うぇぇん、わがっだぁぁ」
涙でぐちゃぐちゃのネリネは無理に笑う。最後に一度大きく手を振った光景が目に焼き付いている。
「ばいばい、元気でね!」
……。
それからの歳月は、悪魔基準でもあっという間だった。魔界に戻り様々な『ケジメ』を付け、契約を理由に人間界に舞い戻った時にはすでに十年が経過していた。
あの森の中の家にも行ってみたが既に朽ち果てており、契約を交わした母親も村の墓地で眠りについた後のようだった。
そしてネリネ。調べたところ、どうやら彼女は聖女の後釜として貴族家に引き取られたらしい。なんともはや、悪魔とはだいぶ縁遠い存在になりつつあるようだ。
(ならば自分もそこに近付けばいい)
大胆不敵にも悪魔は聖職者の道を志すことにした。どこかの道端で行き倒れていた男性の姿と名前を借り、彼の遺体は証拠が残らないよう煉獄の炎で灰にする。魂には手を付けなかったので勝手に天国にでも行くだろう。そして何食わぬ顔で教会本部の門を叩き――
「やぁ、おはよう」
ついに再会を果たした時、ネリネはあの時の天真爛漫さが嘘のように打ちひしがれた表情をしていた。他人の視線を避けて縮こまり、自分の腕を不安げにさすっている。無理もない、ありもしない罪を着せられ追い出された直後だと聞く。
「どうしてわたしを引き受けて下さったんですか?」
彼女に尋ねられても、まだ契約の事を明かす気はなかった。母親の寿命を削ったことで嫌われたくは無かったし、傷ついた今の状態で打ち明ける話でもないと判断したからだ。打算的と言うなかれ、タイミングの問題である。
(さて、どう答えたものか……)
逡巡する悪魔は、ふと思い立ち『神父クラウス』として正直な振る舞いをすることにした。
(信頼を勝ち得るには自分の正体も包み隠さず明かした方がいいだろう。嘘はよくないからな、うん)
どうしたら彼女を元気づけられるだろう? 悪魔の心にはそれしかなかった。きっと憎い相手がたくさんいるはずだ。自分は破滅の悪魔、報復をするというのなら喜んで手を貸すつもりだった。ならば正体を明かした方が手っ取り早い。
それが結果的に、彼女にとんでもない心労を与えるとも知らず、悪魔は心の中でほくそ笑んだ。擬態をほんの少しだけ解き、本来の姿を表面化させる。赤い塵が教会の中に舞い上がり始めた。
「ネリネ、私は君を幸せにするために来たんだよ」
人の身ならば、ずっと触れたいと思っていたその柔らかな灰色の髪を撫でることも許されるだろうか。悪魔は大きく見開かれた目を見つめ返し、そんなことを考えていた。
おわり
最後までお読み頂きありがとうございました。
至らぬ点が多かったと思います。改善点・感想・ご意見等ありましたらお気軽にお聞かせ下さい。
字数がちょっと足りないので、後日談を追記したいと思います。
二人の関係性にもう少しだけ踏み込む予定です。よろしければお付き合い下さい。




