コルネリア、顔を上げる
庭に向かって逃げていく神父をシスターは追いかける。
ネリネ自身は気づいていなかったが、その表情はとても豊かな物になっていた。こうやって怒りの感情を表現することでさえ、全てを諦めた『コルネリア』には到底できなかったことだろうから。
固く塗りこめた仮面は少しずつ剥がれ落ち、ようやく彼女本来の素直さが顔を出し始めていた。振り返った悪魔は目を細める。それは、彼が一番見たかった物だった。
***
秋晴れの空が高くなり始めたホーセン村では、いつものように日曜の午前に礼拝が行われる。入り口で村人を出迎えていたネリネは、少し離れたところでこちらをチラチラと窺う人物を見つけた。
「どうしました? 中へどうぞ」
パン屋のおかみは呼びかけられ、扉の影からようやく出てきた。いつもの豪快さはどこへやら、小さな手提げカゴを抱き込むように抱えた彼女は縮こまりながらそれを差し出してきた。
「あの、これ、よかったら教会で食べて」
カゴの中には明らかに売り物であろうパンがこれでもかと詰め込まれていた。ふわりと香る小麦の匂いにネリネは少しだけ微笑んで受け取る。
「ありがとうございます、その御心は神も見ておられることでしょう」
用件は済んだはずなのに、おかみは中へ入らずそわそわと立ち尽くしていた。どうやら話の続きがあるらしい。しばらくして彼女は歯切れ悪く言葉を続けた。
「その、罪滅ぼしってわけでもないんだけど、これまで悪かったというか……あのね、アタシらもね……うぅんと」
そこまで言われたら鈍いネリネでもようやくピンと来た。おそらく彼女はこれまでの態度を謝ろうとしているのだろう。
しかし、そこで気の利いた一言でも言えるほどネリネも対人スキルが高いわけではなかった。お互いに沈黙したまま奇妙な時間が流れる。
「……」
「……」
やがて、勇気を振り絞り一歩を踏み出したのはおかみが先だった。指先をいじりながらチラッとこちらを上目づかいで見つめ、おそるおそる切り出す。
「今まで、ごめ、ごめんなさい。アタシね、裏でコソコソ陰口叩くような真似してたの。許して貰えるとは思ってないけど……このままうやむやにしてたらダメだって……思って……本当に……ごめんなさい」
消えていく言葉尻に何かを返す前に、おかみはぐわっと顔を上げた。
「あのっ、今度村の女たちを集めてパン焼き会っていうか、お茶会をやるんだよ。みんなも謝りたいって言ってたし、よかったらその……シスターも来ない?」
予想外のお誘いにネリネは目を見開く。本音を言えば複雑な気持ちがないわけでも無かった。今さら都合よく謝られても、赦せない気持ちもどこかにはある。
あぁでも、折り合いをつけるのが円満に事を収めるためになるのかもしれない。だけど
「それは……懺悔室でもいいんじゃないですか?」
罪の意識を清算したいが為に一方的に謝りたいだけならば、それはもう懺悔室に来て欲しい。
思わずぽつりと漏れた言葉に、おかみは口をぽかんと開けて的外れな答えを返してきた。
「都会の人は、懺悔室でお茶会するの?」
「……」
しばらく彼女の顔を見ていたネリネは、唐突にぷっと吹き出した。そのままケラケラと笑い出してしまう。
「え、なに? アタシへんなこと言った?」
「あはっ、あははっ! す、すみませ、そうじゃないんですけ、ど」
一度、笑い出した発作はなかなか収まらなかった。こんなに笑っては悪いと思うのだが止まらない。にじむ涙を拭いながら、ネリネは目元を和らげる。それはとても人らしい、柔らかい笑みだった。
「ふ、ふふっ、ごめんなさい。それじゃ、お邪魔させて貰ってもいいですか?」
その一言だけで、おかみの表情があっという間に笑顔に変化していく。ほっと息をつくと嬉しそうにこんな事を言った。
「なんだい、あんたやっぱり笑えば美人さんなんだねぇ」
「!」
褒められ慣れていないネリネはビックリして黙り込む。急に元気になったおかみは扉の影から次々とカゴを持ち出してきた。
「あぁ良かった、ついでにこれとこれと、これも食べておくれよ。ちょっと神父サマ! クラウスさーん!! 運ぶの手伝っておくれ!!」
「はいはい、なんですかーっと。うわっ、気持ちは嬉しいけどこんなには食べきれないよ」
「アッハッハ、食べな食べな、もっと貫禄つけないと!」
上機嫌のおかみは笑いながらようやく中へ入っていった。残された二人は大量のパンかごを抱えて顔を見合わせる。
まさかこれを抱えたまま礼拝を始めるわけにもいかず、ひとまず裏の食堂に運ぶことにした。外から回り込んでいく最中、ネリネは先ほどのおかみとのやりとりを話す。そして、どこか憑き物が落ちたような声でしんみりと漏らした。
「彼女たちの言い分を聞いても良いかもしれないって思えたんです。人って、知らないから恐れるんですよね。怖いから攻撃して疎外する……わたしにとっての悪魔がそうだったように、村人たちにとってはわたしが悪魔だった」
裏手の木戸を開けて台所に入る。食材の匂いに混じり薬草の香りがするのはもう慣れた風景だ。
「でも、そんな態度を取られてもあなたはめげなかった。わたしが何度拒否しても優しく寄り添ってくれた。だから、わたしもあの人たちに歩み寄ってみようかと思ったんです。ここでつながりを断ち切ってしまっては、未来がなくなってしまうから」
食堂に抜けてテーブルの上にパンを置く。その上からふきんをかけたネリネは改めて隣の悪魔を見上げた。
「ありがとうクラウス、あなたはわたしにもう一度、誰かを信じる心をくれた」
自然に笑うその顔は、目の前の悪魔が微笑む様とよく似ていた。それを分かっているのか居ないのか、彼女は心からの一言を伝える。
「あなたが居てくれてよかった」
しばらく目を見開いていたクラウスだったが、ふっと微笑み返すとネリネの頭に手を置いた。愛おしそうに撫でながらおかしなことを言う。
「逆だよ、その心は元々君が持っていた物だ」
「え……」
「君が、私に心をくれたんだ」
どういう事かと思案している内に手はそっと離れた。食堂の扉を開けた神父は礼拝堂へと続く廊下に消えていく。
「いつか話そう、その時まで私は君の傍にいるよ」
残されたネリネは腑に落ちない顔をしながら、先ほどまで触れられていた頭に手をやる。頬を赤らめたあと、相手に聞こえない大きさでそっと呟いた。
「……心を持って行かれたっていうのは、間違いじゃないですけど……」
しばらく逡巡していたが、そろそろ時間だと我に返る。部屋から出ようとしたところで、台所の様子を振り返った。あれからだいぶ掃除したとはいえ、まだ薬草の染みがあちこちに飛び散っている。
――人の欲望が引き起こした災厄も、それを治す救世主が現れるのも、全ては神のご意思。少し俗的な言い方をすれば『運命』というやつです。
ふいに教皇の言葉がよみがえる。彼の世間を操るようなやりかたも、理解できなくはないが好かない。今回の事件を通してネリネの意識は少し変わった。今まで盲目的に信じていたのは教会側の思想であり、神は一人ひとりの中にある正しい心が真実なのだと。
(そうだ、わたしが持っている薬草の知識を一冊の本にまとめてみたらどうだろう)
もし、自分が持っている知識を広く共有化できたら、今後どこかで同じような事件が起きても、誰かが対応できるのではないだろうか。
運命に流されるだけではない、聖女などという象徴などにすがらなくても、一般市民が自分たちで抗う術を少しでも持てたら……。
(教皇からは睨まれるかもしれない。でもこれが、わたしが考える聖女としてのやりかただ。誰かの為になりたい)
聖女という役割からは降りたが、一人でも多くの人を救いたいという気持ちは今も変わって居ない。きっと医者も教会もない地域に住む人々の役に立つはずだ。
後に大ベストセラーを産み出すことになる著者は、今度こそクラウスの後を追う。ここを開ければ村人たちが待っているという扉の前で彼は待っていた。
「おいで、ネリネ」
漏れ出す光を背負う彼は本当に神の使いだったのかもしれない。この声が始まりだった。深く響く声で行なわれる説法は予想通り心地いいのだ。
彼が傍に居てくれるのならば何も怖くない。それが何故なのかを考える前に、仮面を捨てたシスターは生まれたての笑顔で駆け出していた。
「はいっ」
二人で扉を押し開ける。まばゆいほどの光が射しこんできた……。
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今は昔、明け方の暗い森の中で、その生物はまるで打ち捨てられたゴミのように転がっていた。
手まりほどの大きさのそいつは全身が黒い毛で覆われていて、落ちているところを中心としてじわりじわりと血だまりが広がっていく。
耳を澄ませば、空気が漏れるような息遣いが聞こえてくるのがわかるだろう。それはもちろん毛玉自身のか細い呼吸音で、冬の隙間風にも似たその音は今にも消えてしまいそうに小さなものだった。
自分はこんなところ息絶えるのかと彼が思った瞬間、カサリと枯れ葉を踏みしめる音が響く。瀕死の毛玉は自分のどこにこんな力が残っているのかと思うほど素早い動きで身構えた。
「あ……」
音の主は小さな女の子だった。灰色の波打つ髪を腰まで伸ばし、こぼれ落ちそうなほど見開いたコバルトグリーンの瞳が朝日を反射して輝いている。幼女はおそるおそるこちらに手を伸ばし近付いてくる。
「だいじょう――」




