ささやかな復讐
ヒナコはまるで爆発物でも捧げ持つように袋を遠ざける。ネリネは耳元に口を寄せて囁いてやった。
「イラカの猛毒と、ソフィアリリーの特効薬です。お好きな方をどうぞ。……まあ、ラベルの表記を信じるなら、ですけどね」
「!」
逆かもしれない。いや、裏を掻いてその通り? 復讐を考えたらまさか両方とも毒なのでは? いや、しかしコルネリアの性格を考えたら。でも――。
青くなったり白くなったり、疑心暗鬼に陥る様が手に取るようにわかる。すさまじい冷や汗をかき始めたヒナコにネリネは留飲が少しだけ下がる思いがした。
刑を執行するため、喚き続ける王子とヒナコと近衛兵たちは引きずられていく。大半の村人たちは見学のため追って行ったが、ネリネはその場にとどまった。クラウスが隣に来たので、ふんっと鼻息を荒くしながら行列を見送る。
「ちょっとだけスッキリしました」
「こんなものでいいのか」
「これがわたしなりの復讐です、せいぜい死ぬほど悩めばいいんだわ」
どこか子供っぽい物言いに悪魔は笑いそうになる。クックッとかみ殺した彼は楽しそうに尋ねてみた。
「で、本当のところはどうなんだい? まさか、どっちも当たりの薬とか?」
振り向いた彼女の髪を風がふわりと持ち上げる。ニィと笑った元聖女はどこか楽しそうに答えた。
「両方、ただの水ですよ」
***
時は少しだけ流れた。夏の厳しい照り付けは徐々に勢いを潜め、吹き抜ける風に涼しいものが混じり始める。
しかし、ひと夏が過ぎ去ろうともネリネの周囲は騒がしかった。面白おかしく騒ぎ立てる紙面では憶測が憶測を呼んでいる。
とはいえ、世論は概ねコルネリアの追い風に吹いていた。まあ、『卑劣な偽聖女の狂言にめげず、逆境からその嘘を暴いた真の聖女!』そんな新聞の見出しを見た時はため息が漏れたものだが。ホーセン村に毎日のように押しかける記者たちをあしらうのもすっかり上手くなってしまった。
「お引き取り下さい」
そんなある日の朝、教会の入り口に立ったネリネはいつもと同じように断りを入れていた。だが、今日対面している相手はゴシップ記事の記者などではなく特別な客だった。
朝日の中で困った顔をしていたのは、王の使いで来たと言う身なりのいい初老の紳士だ。胸に手をあてた彼はここに来た用件をもう一度繰り返す。
「コルネリア様、お怒りになる気持ちは分かります。ですがそこをなんとか、今一度考えては頂けないでしょうか?」
宰相補佐と名乗るその男が言うには、心身衰弱したジーク王子の代わりに今度は齢十一の弟王子が継ぐことに決まったらしい。ネリネにはその嫁になって欲しいと。
「お願いします、この国には聖女という象徴が必要なのです」
必死の懇願に多少良心が痛んだが、それでもネリネは折れなかった。自分を掻き抱くように腕を掴み、視線を森の方へと逸らす。
「お断りします。もう聖女なんて広告塔は廃止した方がいいんじゃないですか? わたしはそう思いますよ」
その後、再三の断りにも関わらず、使いは頑なにまた来ると言い残し帰っていった。小さくなっていく背中を正面玄関から見送っていると背後からすっかり聞きなれた声が響く。
「王室もイメージ回復に必死な様だな。ジークを公式の記録から抹消するらしい」
「今後は彼の名もタブー扱いになるでしょうね」
もうあの下劣な男に傷つけられる被害者は出てこないはずだ。それだけでも今回抗った意味がある。
今頃はヒナコ共々牢の中で震えているだろうかと考えていると、唐突にクラウスは妙なことを尋ねてきた。
「ところで、今こそコレを携えて教会に駆け込む絶好の機会なんじゃないのかい?」
「え?」
からかうような声に振り返ったネリネは、神父が手にしていた物を見て仰天した。見覚えのあるそれは、この教会に就任した当初に書いていた密告ノートだった。悪魔クラウスの特徴をまとめた一冊である。ネリネは信じられない思いで口をパクパクさせながらそれを指した。
「なっ、なっ、それっ……」
「ああ、よく観察してあるね。だけどこの似顔絵はひどくないか? 植物のデッサンは得意なのに人物は苦手なのか」
「あぁぁぁああぁあっ!!」
楽しそうにパラパラとめくっていた悪魔から密告ノートを取り返す。隠すようにそれを抱え込んだネリネは背を向け縮こまった。しばらくしてチラリと振り返るのだが、その顔は耳まで赤く染まっていた。
「み、見ました?」
「いやぁ、おどろいたな。自分でも腰骨の上にホクロが二つ並んでるなんて知らなかったから。一体いつ覗いて――」
「調査です!! 調査の一環ですから!!」
恥ずかしさで爆発しそうになりながら叫ぶ。庭掃除の焚き火に必ずこれを叩き込むことを誓いながら、ネリネは何とか冷静さを保とうと口を開いた。
「ど、どの道バレてるんです。これはもう必要ありません」
「うん?」
そこでようやく教皇だけには全て打ち明けていたことを告白する。結果的にうまく行ったのでそこは咎められなかったが、あの日、聖堂の奥で見てしまった物についてはさすがに彼も驚いたようだ。
「教皇自身が悪魔? もしくは悪魔飼いの可能性があるのか」
「教会のトップがまさかとは思ったのですが……でも、どうしてそれをわたしに見せたのでしょうか?」
教皇の真意が読めなくて不安になる。うーんと考え込んでいたクラウスは意見を述べた。
「たぶんだけど……彼は自分の手の内を明かした事で、我々に仲間意識を植え付けたいんじゃないかな」
こちらが大人しく暮らしている限りは向こうも手を出さない。その逆も然り。いわば秘密同盟を結ぼうとしているのではないかと神父は言う。
「まぁ、着地点としては悪くない。しばらくは安心していいんじゃないかな。何か起きたら駆り出されるかもしれないけど……対等な立場なのは間違いない。こちらも向こうの最大の急所を掴んでいるんだからね。その時はその時さ」
ゆるい笑顔でのほほんと言う神父に、呆れると同時にどこか心が軽くなる。
だが、それを素直に表に出すほどネリネは甘え上手ではなかった。ため息をついてそっけなく返してしまう。
「だと良いんですけど。まったく、わたしはただ平穏に暮らしたいだけなのに、どうしてこんなことになるんでしょう……」
「ハハハ、刺激的で良いじゃないか。人の一生は短い、楽しまなければ損だよ」
その一言で、この奇妙な関係の根本的な疑問が再浮上する。キュッと眉を上げたネリネは問いただすように言った。
「そうです、あなた本当に何が目的でわたしに構うんですか?」
「え、そこ蒸し返すのかい?」
ぎくっと跳ねた悪魔に向けて、今日こそ聞き出してやると切り込んでいく。
「わたしに、そうされるだけの理由が思い当らないんです。気まぐれですか? 同情なんですか?」
「普通の人がためらうような事に関してはグイグイ来るね、君……」
「ハッキリしないのが嫌いなだけです!」
真剣な顔をして迫ると、クラウスはのけぞりながら視線を泳がした。沈黙の後、彼はごまかすようにへらっと笑う。
「だから私は君を幸せにするため、その身にかかる火の粉を振り払うためにやってきただけだよ」
ついに爆発したネリネは足元をダンッと踏みつけた。
「またそうやってはぐらかす! わたしはその理由を聞いているんですっ」
「おっと、そろそろ庭の手入れの時間だ」
「クラウス!」




