身をもって償え
すぐ上から降ってきた声に顔を上げる。自分を抱きかかえていたクラウスはいつもと少しも変わりない優しい笑みでこちらを見下ろしていた。その姿にネリネは仰天して目を剥く。
少しも変わらないのは表情だけだった。見慣れた神父服の背後には大きな黒い翼がはためき、頭の両脇には禍々しい角が生えている。つまり、クラウスは本来の悪魔の姿でこの場に降臨したのである。慌てたネリネは無意味に両手を振り回して事態を理解しようとする。
「えっ、なっ!? その姿っ」
「この期に及んでまだ私の心配をしてくれるのか。本当に優しいな君は」
抱えられた腕にギュッと力を込められ赤面する。降りしきる赤い灰に照らされた悪魔はいっそ空恐ろしくなるほど平坦な声で奴らの事を見下ろした。
「それに引き換え、彼らの方がよっぽど悪魔的だと思わないか?」
その言葉にもう一度地上を見ると、ようやく状況を把握したらしい男たちはこちらに向かって剣を構えていた。ただしその切っ先はよく見なくても分かるほどに震えている。
「あ、悪魔だ!」
「悪魔が出た!!」
「落ち着け! 誰か! 弓を持ってないか!!」
接近戦を得意とする近衛兵にとって、宙を飛んでいる悪魔相手では分が悪い。慌てる彼らを見下ろしていたクラウスはクスリと笑った。間近で見ていたネリネはその横顔を目にして凍り付く。
「私のネリネに手をかけた罪、その身を以って償って貰おう」
一見そうとは見えないが、悪魔は激昂していた。彼がふっと軽く息を吹いた瞬間、深々と降っていた赤い灰が一気に燃え上がり、王子たちの手や足などの肌にジュッと音を立てて落ちる。その途端、彼らは剣を捨てのたうち回り始めた。
「ギッ、ギャアアアアアア!?」
「あぎっ、いぎゃあ!?」
「アアぁぁアアア! あああああああ!!」
夢でうなされそうな叫び声にネリネは息を呑む。見たところ外傷はないのに、大の男たちがなりふり構わず転げまわっている。
「おやおや、人間はこの程度で壊れてしまうのか」
クスクスと笑う悪魔に恐怖がこみ上げつつも、そっと尋ねてみる。
「殺してしまったんですか?」
「いや、彼らのうす汚い魂を少しだけ炙ってやっただけさ。死んではいないんじゃないかな? 多分」
そうは言うが、ようやく沈静化した彼らは廃人のようにピクピクと痙攣し、穴と言う穴から体液を漏らしまくっていた。いったいどんな地獄の責め苦を味わったというのだろう。
「死んだらそこでおしまいだろう? 彼らはこれから一生私の影におびえて生きる事になるだろうねぇ、あはは」
「あなたのそういうところは、本当に悪魔的ですね……」
ほがらかに笑いながら言うセリフじゃないと一言入れる。何にせよ助かった。胸を撫でおろしたネリネは、一瞬ためらったが彼の胸に頭を預けた。
「ありがとうございます」
「おや? 本当に素直だ、明日は槍でも降るのかな?」
茶化した返しにムッとするも、ネリネは顔の見えない体勢のまま続けた。
「わたしはあなたの事を誤解していました、親切にするのもきっと何か裏があっての事だろうと」
悪魔の熱風が少し収まり、涼しい夜風が髪を揺らす。彼の胸に顔を埋めたまま、ネリネは正直に今の気持ちを打ち明けた。
「でももう疑うのは止めにします。上手く言えないけれど……あなたを信じてみたいと思ったから」
彼の心が知りたいと思った。なら素直になるべきなのだと、ネリネが生来持つ純粋な部分がそう告げていた。
「そうだな、君は本来とても素直な性格だったな……」
ふわりと後頭部に手を添えられる。じわりと胸に暖かさが広がり――かけるのだが、今のセリフが引っかかったネリネは顔を引き剥がした。
「本来? わたしの何を知ってるんですか?」
「あ、いやそれは、その――。ん?」
「あっ」
なぜか急に焦り始める悪魔だったが、視界の端に動く何かを見つけて二人して意識がそちらに向かう。こっそり逃げ出そうとしていたヒナコがそれに気づきヒッと声を上げた。
場に沈黙が訪れる。ネリネが声をかけようとしたその時、ヒナコはその場に跪いてみっともなく懇願を始めた。
「ごっ、ごめんなさい!! 許してぇ、ヒナ悪くないんです! 王子がやれって言ったから仕方なく……本当なの、やらなきゃあたしが殺されてたの!!」
二人は顔を見合わせ下降を始める。騎士たちが転がる地に足を着けると、その途端、ヒナコはネリネの足元にすり寄ってきた。
「コルネリアちゃん、コルネリアちゃん、そんなひどいことしないよね? ねっねっ? 助けてくれてありがとうっ、本当はこんな男ずっと嫌だったの!」
そう言って、足元に転がって気を失っているジークの背中に蹴りを入れる。ゴロンと転がった王子は不明瞭なうめき声を一つ上げた。
「信じてくれるよね? さっきまでのあたしの態度、もちろん演技だってわかるよね? 隙を見て出し抜いてやろうって思ってたのよ」
見え透いた嘘と必死さに少し嫌悪を感じる。一歩退いても追いすがろうとしてきたので、クラウスが間に割って入ってくれた。さすがに止まったヒナコだったが、今度はこぼれそうな瞳めいっぱいに涙を浮かべた。
「う、うぇぇぇん、ひどい、悪魔様ぁ、こんなに謝ってるのにコルネリアちゃんが赦してくれないんですぅ……ひ、ヒナが死ねばいいって、思ってるんだわっ。ひぐっ」
民衆や男たちには効果的だった泣き落としも、その本性を知っているネリネにとってはただ見苦しいだけだった。
もちろん死ねばいいとは――思ってないこともほんの少しだけ無い事も無いが――思っていない。とはいえ、このままタダで逃がすわけにもいかない。どうしたものかと思案していると、隣でフムと考え込んでいたクラウスが耳を疑うような発言をした。
「許さない……と、言いたいところですが、女性は手にかけない主義なんです。反省しているようですし、今回は特別に見逃してあげましょう」
「!?」
バッとそちらを振り向くが、口を挟む前にパァァッと顔を明るくしたヒナコが両手を握りしめ叫んだ。
「は、はわわわわ!! 悪魔様、ありがとうございます。ヒナ感激ですぅ!!」
「もう二度とこんなことをしてはいけませんよ?」
悪魔はニッコリと微笑みかける。ヒナコは途端に媚びを売るように上目遣いになり、やたらとパチパチ瞬きを始めた。長いまつげについた涙がキラキラと飛び散る。
「はうぅ、悪魔様ってカッコいい上にすっごくお優しいんですね、どうしよう、なんだかドキドキしちゃう……ヒナもしかしたら」
ここでハッとしたヒナコは、慌てて両手を振りながら下がり始めた。
「あっあっ、あたし今何か言いました? えへっ。えっとぉ、ヒナは一度ミュゼルに戻って今までの王子の悪行ぜーんぶ教会にバラしたいと思います! それじゃこれでっ、あ! コルネリアちゃん、今度首都に戻ってきたらお茶しようね、愛してる、大好きだよーっ!」
とてもスカートとは思えないスピードでヒナコは村の中心へ逃げていく。それを見送ったクラウスは呆れたように腕を組んだ。
「何が『愛してる』だ。いったい今まで何人にあの薄っぺらい愛を振りまいてきたんだろうな」
そこで横からのジトついた視線に気づいたのだろう。フッと笑い楽しそうに腰を屈めて覗き込んできた。
「不服そうだね」
「……当たり前です、こんな簡単に逃がしてしまっていいんですか?」
「誰も見てないこんなところではなくて、決着は然るべき場所で付けようじゃないか。君もやられっぱなしでは腹の虫が収まらないだろう?」
「……」
違う。と即答できなくなっている自分に驚く。
我慢しなくてもいい、気持ちを呑み込まなくてもいいのだと気づかせてくれた人はカラっと笑ってこう続ける。
「まぁ見ていなさい、断罪は派手にやった方が楽しいだろう?」
それに、と続けたクラウスは、こちらの腰あたりを指さしてこんな事を言った。
「君には私以外にも心強い味方がいるみたいじゃないか」
ぴくっと反応したネリネは、しばらくしてポケットから黄色い封筒を取り出した。悪魔をにらみ付けると疑わしそうに言う。
「どうして知っているんですか」
「私は悪魔だからね」
「やっぱり信用できないかも……」
「ひどいなぁ、盗み見なんかしてないよ。日頃の挙動から推理しただけさ」
さて、と。話題を切り替えたクラウスはスッと手を差し伸べた。
「聖女様が助けを引き連れて戻って来る前に、さっさとこんなところからは逃げてしまおう」
辺りを見回したネリネは改めて青ざめた。死屍累々と転がっている王子とその側近たち。そしてその前に立っている角と翼を生やした悪魔。とどめにそれを従えているようにしか見えないであろう自分。この場にいる限り何を言われるか分かったものではない。
「なぁに、しらばっくれればなんてことはない。今夜、神父は慣れない酒で酔い潰れ、シスターは一晩中教会の後片付けをしていた。とても人間業には見えない事件の犯人が誰かなんてわからないさ」
はぁとため息をついたネリネは素直にその手を取った。軽くめまいがした次の瞬間、二人はもう教会の前に立っていた。




