夜の語らい
──病棟の消灯時間が過ぎた頃。
理玖はまだ起きていた。窓から差し込む月明かりに照らされた病室は昼間と打って変わって耳が痛くなるほど静まり返っていた。
「──久しぶりじゃな理玖坊」
理玖以外誰もいなかった静寂満ちたその病室に1人の女性の声が聞こえてきた。
「………俺をそう呼ぶって事は、今は澪姉さんですか?」
理玖が暗闇に向かってそう聞くとクスクスという笑い声が聞こえ、その暗闇から昼間と同じ姿の神崎が現れた。
「そうじゃよ。しかしまぁ、とんだ災難じゃったのぉ?まさかあの『極氷姫』のハウンドになり、しかも、可愛らしい女子になってしまうとは」
「その昼間から気になっていたんですが、『極氷姫』ってなんです?」
「愛莉珠のあだ名じゃ。いつもなにをしていてもムスッとしておっての。氷の様に冷たい反応しか返ってこんし、彼女自身氷属性の使い手じゃからそんなあだ名になったのじゃ」
神崎は昼間とは打って変わって親しげに理玖にそう言った。
「なるほど………。それで要件は?」
「んん〜……もう少し戯れに付き合っても良いじゃろが。ほんと、彼奴に似てきたのぉ。……ま、こんな夜更けに密会となれば大体察しは着くじゃろ?」
「…………まぁ、そうですけど」
「ならば行くとしよう。歩けるかの?」
「大丈夫です。昼間呑まされてから身体の調子がいいんで」
そう言って理玖はベッドから降りて神崎の後をついて行った。
***
薄暗く、非常口の緑色のランプと窓から差し込む月明かりのみの病棟は不気味である。加えて足音が反響する為、後ろから誰かがついて来ている様な錯覚まで陥る。
そして古い非常階段を上がり、屋上への扉の前で神崎は立ち止まった。
「ではわっちはこれで。2人で水入らずの会話を楽しむと良い」
「わかりました澪姉さん。……ありがとう」
「ええよええよ。ほら行った行った」
そうして神崎に促され、屋上へと向かうとそこには先客がいた。
腰まで生やした夜烏色の髪に透き通る様に白い肌、淡い空色のした瞳を嵌め込んだ顔貌はどことなく理玖に似ていた。
「──久しぶりですね理玖。3ヶ月ぶりといったところでしょうか」
「久しぶり夜奈姉。大体そのくらいだよ」
理玖はそう言って彼女に向かって笑った。
彼女の名は柳龍夜奈。神崎の相棒であり、テルゼウス・ユグドラシル局長を務める大御所。『崩炎帝』『炎獄の魔王』といった様々な二つ名を持つ炎系最強の特級戦乙女である。
そして…………理玖の叔母にあたる人物だ。
「さぁ、理玖。いつまでもそこにいないでこちらに来てください」
「わかった」
夜奈は理玖を手招きで自身の隣へと来させると無言で理玖の顔をまるで形を確かめるかの様に揉みほぐしながら触り始めた。
「よ、よにゃねへ?」
「………………」
「…ちょっと一体なんのつもッ──ひっ!?」
理玖の問いに夜奈は答えず、そのまま夜奈の手は理玖の生えたばかりの狼耳へと伸びて弄り始めた。
元々寝気味だったそれを無理やり立たされて、縁の辺りを指でしつこく…それでいてゆっくりとなぞられるたび、電流じみた衝撃が理玖の背筋を駆け巡った。
ビーストにとって耳は極めて重要な器官である。故に刺激にとても敏感で、その感度は人間の耳のそれとはまるで次元が違う。
「ま、待ってッ……ほんとにそれ、や、やめ─ヒィッ?!」
夜奈の服の襟を掴んで止めようとした理玖に今度は片手を腰の方まで持って行き、耳の刺激で膨れ上がった生えたばかりの理玖の2つある尻尾の内の片側を片手で捕まえて扱き上げていく。
狼耳のそれとは全く異なる、完全に未知の衝撃。尻尾を触られるという、本来人間が知り得る筈のない感覚だった。本来、出生から本格化を経て自然と慣れていくその刺激は、いきなり本格化を終え成熟した肉体を与えられた理玖にとって耐え難いものである。
慣れない耳と尾の同時刺激により理玖は足腰が立たなくなってきてしまい、夜奈に凭れ掛る形になっている。
「こういった反応は幸子とそっくりですね」
しばらくそうしていると夜奈は満足したのかそう言って理玖の耳と尾を弄るのをやめた。ちなみに幸子というのは理玖の母親の名だ。
「………ちょっと、いきなり酷いよ、夜奈姉。ほんとそれ、やめてよね」
「ごめんなさい。ですが、やはり現物を見て触れないと信じられなかったので」
夜奈はそう言って今度は力が抜けてその場に座り込んだ理玖の頭を優しく撫でた。その目には慈愛が浮かんでいた。
「仕事の方はどう?」
「ここ最近は穏やかなものです。ただ、貴方のおかげで少しは賑やかに」
「えっと………ごめんなさい」
「謝ることではありません。……謝罪するのは私の方です。今回の件で貴方のこれからの人生を狂わせてしまいました。本来に………申し訳ありません」
「気にしてないよ。いろんな偶然が重なった結果だし。夜奈姉が謝ることじゃないよ」
「そうですか。……………」
理玖の答えに夜奈はそう呟き、黙って理玖を抱きしめた。
夜奈は理玖の母親である幸子の姉である。
理玖の両祖父母は天災により既に亡くなっており、理玖の父親である大泉 翔太には兄弟がいない。
本来なら両親を失った理玖の保護者は日暮と縁流ではなく、血縁者である夜奈になる。実際、夜奈は理玖の保護者になろうとしたが理玖はそれを拒否した。
なにも理玖が夜奈を嫌っているわけではない。むしろ尊敬している。だからこそ、自分が彼女の枷にならない為に拒否した。
人類を守護するテルゼウスも一枚岩ではない。平和になるにつれて組織が大きくなるにつれて、人というのは欲が強くなり自らを誇示しようとする。
例え他人を蹴落とそうとも。
戦乙女である翔太とそのハウンドである幸子はともかく、一般人である理玖はユグドラシル局長である夜奈をその地位から蹴落とすには有効な人質になるのだ。
理玖の両親も理玖自身もそれがわかっており、血の繋がりがある事を隠した。この事実を知るのを知るのは本人達と夜奈のハウンドである澪のみである。
だがしかし、血縁関係を隠してはいたが定期的な交流はあった。数ヶ月に一度のペースで秘密裏ではあったが。
「わかっているとは思いますが、貴方はもう元の姿には戻れません。そして、今は礼華 愛莉珠と仮契約している為、彼女からは離れることは得策ではない。しばらくは礼華 愛莉珠と暮らしなさい」
「わかった。仮契約ってことはまだ俺は完全にハウンドじゃないってこと?」
「契約は本来は儀式的要素により成立するもの。簡易的なその場で行ったものでは不安定です。このまま放置すれば貴方の身が危険になります。それに私の魔力でも補給は出来ますが相性の良いパートナーの方がいいでしょう」
「やっぱり昼間、澪姉さんが持ってきたアレって夜奈姉の?」
「そうです。溜め込み過ぎるのも毒ですし、澪は少食ですから。それと……外出は本契約が済むまで極力控える様に。先の貴方の活躍を見て自身のハウンドにしたいという戦乙女がいます。最悪の場合、誘拐される可能性があります」
「そこまでするの……」
「しますよ?自身の力を強める為ならなんだってやる者も一定数いますから。そういった者にとって貴方は最優良物件です。覚醒したハウンドというものはそういうものです。澪の時も大変でしたよ」
「わかったよ………。あ、そうだ。えっと夜奈姉。隆二……友達に無事だって知らせたりしてもいい?」
「構いません。会って説明する必要もありますし、双方時間ができた際には連絡します。ただ、場所はユグドラシル内になりますが」
「ありがとう。何から何まで」
「いえ、これくらいはさせてください。幸子と翔太が死んだ時、私はあの時、何も出来ませんでしたから。………………さて、話は終わりです。あまり長居は不信がられますから」
「そうだね。………それじゃあ──」
「最後に1ついいですか?」
と話がいち段落し解散というところで夜奈は理玖に聞いた。
「……なに夜奈姉?」
「最近、夢の方はどうなりましたか?まだ飢えを満たすために暗闇を群れで駆けているので?」
「………………いつもと変わらない感じだよ。だけど、今日見た夢には銀髪の人が出てきて俺を撫でてきた。そしたら少し楽になったかな」
「…………そうですか。それはよかったです。それでは理玖、また今度近いうちに」
夜奈はそう言って屋上を去っていった。




