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「…象牙の…歯を……」
「滝様!」
高野の声に本を閉じる。
タホ河河畔、乾いたスペインの中で豊かに水をたたえる沃野、アランフェス。そこには、河の蛇行に沿って緑溢れる庭園と王宮が広がっている。『アランフェス協奏曲』と言う音楽は、ここの自然の美しさを題材にしたものらしい。
そして。
周一郎が姿を消したのも、この地だった。
「詩集、ですか」
午後の3時過ぎ、まだシェスタから醒めきらぬマドリッドを出て、正面玄関の右手で切符を買い、王宮に入る。ガイドを断った高野は、俺の手にしていた本をみやり、訝しげな表情になった。
「なんだ?」
「……失礼いたしました。滝様がそのようなものを好まれるとは思っておりませんでしたので」
「俺は文学部だぞ?」
「他にどのようなものを読まれましたか?」
「…………」
ったく! 人の弱みを、そんな生真面目な顔して突くなって言うんだ!
「…わかったよ。どーせ俺と文学は不似合いだ」
「いえ、そう言う意味では」
「じゃ、どーゆー意味だ? 言ってみろ、え?」
「ガルシア・ロルカでございますね」
絡んだ俺を、高野はさらりと躱した。
「お好きなのですか?」
「そう言うわけじゃなくって………まあ、その、『覚え書』とやらも、こいつの作品なんだろ?」
俺に『こいつ』呼ばわりされては、ガルシア・ロルカもさぞかし腹立たしいだろう。
「これに何か、周一郎が消えた手がかりがないかと思ってさ。……で、あいつが消えたのはここなのか?」
辿り着いた部屋をぐるりと見回す。壁も天井もびっしりと絡みつくように、草花や人物や動物を象った陶器で飾られている。人物はちょっと中国っぽいと言うか、異国情緒溢れると言うか、不思議な造形だ。白い壁に浮き上がる極彩色の装飾に圧倒される。
「いえ、ここは『陶磁器の間』ですから。ぼっちゃまが姿を消されたのは『島の庭園』です」
「『島の庭園』?」
「はい」
高野は先に立って、王宮の部屋部屋を早足で通り抜けながら頷いた。歩いても歩いても果てがないような広さ、とにかくスケールが違う。
「タホ河に囲まれたような形になっている庭園……こちらです」
唐突に目の前に空間が開けた。日本で思うこじんまりとした庭園とは違って、あちこちに木立が茂り、石造りのドームみたいなものや彫刻が点在し、その間を通路が縦横に渡っている。空へと水を吹き上げる噴水が陽射しに煌めきながら散っている。伸び上がっても端が見えない。朝倉家の庭よりもでかそうだ。
「坊っちゃまと私は、ここに呼び出されました。しばらく待っても何者も現れず、坊っちゃまは少し1人で歩いてみたいと仰られて、離れて行かれました。お姿を見失うほどではありません。けれど、スペインに来られてずっと沈んでおられたので、少しの間なら大丈夫だろうと考え、見守っておりました」
高野の声に口惜しさが滲む。
周一郎は『島の庭園』をタホ河の方へ向かって歩いていた。小さくはなっても、その姿ははっきりと見えていたし、他の人影もなかったので、高野もつい気を緩めてしまっていた。ふいに風がざわめき、木立が揺れ、一瞬光が高野の視界を眩ませ………瞬きをした後には周一郎の姿は消えていた。
「10年前のように、私が追えばよかったのです」
「10年前?」
「はい」
重い表情の高野は、その頃の周一郎の跡を追うように、ゆっくり歩き出した。




