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「ったく…何だ?」
俺はぼやきながら、受話器を置いた。
「お由宇もどっか行ってんのか?」
どうも周一郎のことが気になって(第一、今までの商用旅行に高野が付いて行ったことなどない)お由宇に相談しようと2、3日前から連絡を取ろうとしているのだが、電話に出ない。
「おまけにルトの奴もいないし」
溜息をついてベッドに寝転がる。学校は休みに入っている。就職を急ぐわけでもない俺にとって、毎日は暇で暇で仕方がない。
「ん…」
こつ、と頭に何か当たって、枕にしかけた本を引っ張り出した。周一郎の部屋で見つけたもので、『ガルシア・ロルカ詩集』のタイトルが紺地の背にくすんだ金文字で押されている。学園祭の時の『覚え書』とかが気になって、ひょっとしたらと思って探したら、やっぱり持っていたから借りてきた。
「…『三つの河の(小譚詩)バラディリア』…」
誰が読んだのか、所々に小さな黒い星印が付いていて、おそらく、これを読んだ人間のお気に入りだったのだろう、ページの端が薄黒く汚れていた。周一郎だろうか。本は結構古そうだ。他の人間も読んでいたかも知れない。
「……去り行きて………戻らなかった愛……か」
ふっ、俺にはいつものことだがな。
ちょっとだけカッコつけて苦笑しながら、次のページを捲ろうとしたら、
「滝様!」
「ん?」
うろたえた声がドアの外から響き、体を起こした。岩淵が青ざめた顔で飛び込んできた。
「何だ?」
「高野さんからお電話です! 周一郎様が…っ」
「周一郎が?」
いつにない岩淵の慌て方に、嫌な予感がした。
「電話回してるんだろ?」
「え、ああ、はい!」
それにようやく気付いたように岩淵が頷く。受話器をとると、どこか遠い高野の声が届いた。
『滝様? 滝様ですね?』
「ああ」
『良かった。すぐにスペインにお越し下さい』
「は?」
とんでもない要望にぎょっとする。
「そりゃ無理だろう。第一、パスポートだってないし」
『そちらは岩淵に手配させました。正規のルートではありませんが、証明は本物です』
どういうことだそりゃ。
きょとんとしつつ続いたことばに血の気が引く。
『お願いします。坊っちゃまが行方不明なんです!』
「何っ…?」
一気に広がった不吉な予感とともに、厄介事が『おいでおいで』をしているのが見えた。
「ぐ、ぐわ…っ」
空港に降りて、寒さに思わず呻く。
「だ…誰がスペインを南国だと言った……っ」
周囲の注視を避けて小さくなりながらぼやく。
とにかく冷え込む。日本の冬ととんとん、バラハス空港じゃなくて、北海道、千歳空港と言っても通るんじゃないか。慌てて搔き合せたコートの中にも、寒気は容赦なく入り込んできて、ぽつぽつと置いてある暖房装置に擦り寄りたくなる。
「火……火をくれ…せめてカイロを……」
ぶつぶつ言いながら見回す視界に、一瞬見たような顔が通り過ぎた。肩までの茶色の髪、背中に負ったギター。
(あれ? あいつ…)
「滝様!」
見定めようと首を伸ばした俺の耳に、珍しく大きい高野の声が通った。
「高野!」
「よくお越し下さいました! とりあえず、こちらへ」
駆け寄らんばかりに足早に近づいいてきた高野の目の下には隈が出来ている。きっと碌に眠っていないのだろう。空港を出たところで止まっていた車に乗り込み、早口に運転手に話しかける。
「Sí, señor」
黒髪の下で鋭い目を光らせた運転手は、軽く頷いて車を走らせ始めた。重い息を吐いて高野がシートに沈み込む。ぐったり疲れているところに悪いとは思ったが、とにかく何があったのか聞かなくては落ち着かない。
「一体、どうしたっていうんだよ、高野」
数日で2、30歳は歳をとってしまったような高野の横顔を見つめた。初老と言え、いつもきびきびしていて若々しい顔が、今は老け込んで疲れ切っている。
「どうして周一郎が行方不明になったんだ? 朝倉家は動いてないのか? 一体、今回の旅行はなんだったんだ?」
ふと訳もなく、学園祭の時のカードを思い出し、口走った。
「まさか、ローラ・レオニが関係してるんじゃないだろうな」
「っ!」
明らかにぎっくんと体を強張らせ、狼狽した顔で高野は俺をまじまじと見た。
「どうしてそれを……佐野様からお聞きになったのですか?」
「お由宇?」
またもや予想外の人間が引っ掛かって、俺は混乱した。
「どうしてお由宇が関係してる?」
そういやあいつも家にいなかった。まさか、こっちへ来てるとかじゃないだろうな。そんなことがあった日には、俺はただひたすらに厄介事目指して突っ走っていることになっちまう。
だがもちろん、俺の願いも虚しく、高野は上品に首を振りながら応じた。
「関係しているどころか……今回坊っちゃまの命が狙われていると教えて下さったのは、あの方なのです。坊っちゃまが傷つかれると、あなたが悲しまれるからと仰って…………まこと、昨日の敵は今日の友とはよく言ったものだ……」
最後の方は独り言になって、俺の頭は混乱の度合いを増すばかりだ。
わかっていることといえば、どうやら周一郎は命を狙われていて、行方不明というのも連れ去られたか殺されたかという意味らしく、加えてこのまま訳のわからない問答を続けていたら、完全に俺の頭はショートしてしまうだろうということだけだった。
「あ、あのな、高野」
「はい」
「俺は頭が回転しにくいタチで」
「存じております」
あ、あのなあ……。
「それなら、もっと筋道立てて話してくれ。何が何だか、俺にはさっぱりわからん。一体どうして、周一郎は急にスペインなんかに来たんだ? ローラ・レオニってのは何者なんだ? どうしてお由宇が周一郎が危ないって知っている……いや、どうしてあいつが周一郎に関わってるんだ?」
立て続けの俺の質問に、高野は宇宙人が関西弁をしゃべっているのを聞くような妙な表情で、俺を見た。
「本当にご存知ではないのですか?」
深く、深ーく溜息を吐く。
「うん」
「坊っちゃまはお話しにならなかったのですか」
「ああ」
「佐野様も?」
「しつこいな、あんた」
「なのに、何も訊かれなかったのですか、あなたは」
おいおいおい。どういう突っ込みだ、それは。
「何を訊けっていうんだよ」
反論する。
「何か事情がありそうだとはお気づきでしょう」
「いや、事情はあるだろうけど、俺に話したいとは限らないし」
「興味はないと」
「いや、だからさ、興味はあるけど」
誰かの秘密に興味は持つ。けれどもそれを暴くのは別問題だし、話せない秘密なら突っ込まれても困るだろう、相手が。
「話したくなかったなら訊かないほうがいいだろうし、知らなくても周一郎やお由宇の何が変わるわけでもないし」
むしろ、知っていて欲しいなら話してくれるだろうし、そうでないなら、知って欲しくないのだろうし。
「なるほど」
高野はもう一つ溜息を重ねた。
「ありのままを受け入れて拘らないと。……だから、坊っちゃまはあなたにはお心を許された……」
「いや…そんな立派なもんじゃないような…」
もぞもぞして窓の外へ視線を反らせた。
そうとも。現に見ろ、そんな危ない橋を渡ることが、あいつにわかっていなかったはずがない。部屋を片付けたのも、ポートレートを返して来たのも、読みかけの本さえ戻したのも、今思えば帰れないかも知れないと考えていたからだろう。
だが、そんな時でさえ、やっぱり周一郎は俺に一言の相談もなく、さっさと旅立ってしまっている。
心を許している人間に対する振る舞いか、それ?
「…恐らくは……あなたに知られることを怖れていらっしゃったと思うのですが」
高野はシートに再び身をもたせかけた。振り返る俺の目を、今度は高野が避けるように目を伏せる。
「始めからお話しします、滝様」




