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『青の恋歌(マドリガル)』~猫たちの時間11〜  作者: segakiyui
8.夏の恋歌(マドリガル)

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3

「滝さん!」

 苛立たしげな声に、我に返る。

 バルセローナ、ゴシック地区の一角、大悟の知り合いの家とかを、周一郎は探し当てたらしい。

「何をぼうっとしてるんですか」

 はいはい、これだからなあ。元気な時は、何せ強気なんだ、この意地っ張りは。

「今度眠れないっつっても、子守唄も歌ってやらんぞ」

 ぼやくと、側に居たお由宇がくすくす笑う。

「本気?」

「当たり前だ。まあ…実行できるかどうかわからんが」

「ふふふふっ」

 お由宇の楽しげな含み笑いに眉を寄せる。

 まあたぶん、出来ないだろうな、うん。俺が居ることで周一郎が眠れると言うなら、何やかやと理由をつけて、結局俺はあいつの側に居てやるんだろう。どこまで阿呆なんだろうと悩みながら。

「Mucho gusto,Sr.Taki. Me alegro de conocerte.」

 戸口に立ち、周一郎達を迎え入れた年配の婦人は、黒い目を細め、豊かな体いっぱいに笑みを湛えながら俺に言った。

「は?」

「初めまして、お会いできて嬉しい、と言ってるのよ」

「あ、あ……その、えと……ムーチョ、グスト」

 お由宇の通訳に、ようよう覚えたスペイン語の挨拶を口にした。相手がにっこりと笑い、続ける。

「Por aquí por favor.」

「こちらへどうぞ」

「あ、どうも、じゃない…グラシアス」

 お由宇が訳してくれるのに慌てて返答する。

 周一郎はすでに奥の方へ入って行ったのか姿がない。きょろきょろ見回しながら歩く俺をよそに、お由宇は女主人と話をしている。

「ふうん…」

「どうした?」

「…バルセローナじゃ珍しくないけど、この家にもアントニー・ガウディが造ったと言われる礼拝堂があるんだって……もっとも、今では新しいのが出来て、ほとんど使っていないらしいんだけど」

「この辺りには、結構そういったのがありますからね」

 『ランティエ』がさらりと言う。

「ガウディが手を加えた天井だの、内庭パティオだの柱だの……どうやら、この天井もそのようだが…」

「Sí」

 お由宇が『ランティエ』のことばを伝えると、婦人は誇らしげに頷いた。

(へえ…これがガウディの…)

 天井は不思議な曲線の浮き彫りに覆われている。波打際、或いは水面に広がる波紋のように、緩やかにくねった線に率いられた繊細な曲線が、まるで水中から表面を見上げているように天井に張り付き、広がりうねっている。

「グエル公園、グエル邸、聖家族協会、ラ・ペドレラ、バトリョの家……中でも聖家族教会は未完だけど、この街のシンボルになっている。ガウディの残した計画全部を完成させようとすれば、少なくとも後200年はかかると言われてるけど」

「はあ…」

 200年先の未来へ向けて聳える塔……その時、人間て奴は何を考えているのだろう。

 イレーネ・レオニは周一郎だけを追って10年を過ごしてきた。200年、その塔を追い続けようとしたガウディや、彼の遺志を引き継いでいく人々は、一体何を求めて追い続けていくのか。

「…生は愛、愛は犠牲……神の創造は 継続し、創造主は被造物を利用する」

「?」

「ガウディが生と創造について言ったとされています」

 『ランティエ』は少し肩を竦めた。

 始めの部分は納得できるようなできないような気分だが、後の方はよくわかる。俺なんか、しょっちゅう創造主の気まぐれに利用されている。

 俺達はやがてこじんまりとした居間に通された。

「滝さん」

「ん? …それが『青の光景』か?」

「はい」

 先に入っていた周一郎が、B4程度の大きさの額入りの絵を手渡す。

「でも、これにマイクロフィルムはないみたいです」

「ふうん?」

 受け取って、しみじみとそれを眺めた。と言っても、別にそれほど変わった絵じゃない。ピカソが描いたにしちゃ、極めて地味な愛想もくそもない絵で、どこの部屋だろう、正面に十字架と小さな祭壇を配した質素な小部屋が、ありとあらゆる青で描かれているだけだ。もちろん、その青の種類の豊富さは絶品と言えるんだろうが、幻の名画と言えるほどの作品とは思えない。

「どう思う、お由宇?」

「どうって……それほどの価値とは思えないわね、『ランティエ』?」

「そうですね」

 『ランティエ』は曖昧に笑って見せた。

「贋作家の力量を問われる作品ではありますが……なにせ、この青の色ときたら……ちょっとでもイメージが狂えば別物になり兼ねませんし」

「Señor…」

 周一郎が振り返り、滑らかなスペイン語で女主人に何かを尋ねた。少し頷いて、相手が俺達に移動を促す。

「その部屋へ案内してくれるそうです」

「あ、うん」

 不自由そうに松葉杖を操る周一郎に、高野がさりげなく手を貸した。そのままゆっくりと女主人の後についていく。

 母屋から出、内庭パティオを隔てた庭の隅の小さな建物に、女主人は俺達を導いた。

「ここだそうです」

 鍵を開ける。木製の重そうな扉を、微かに軋ませて静かに開く。

 外見上は母屋よりなお平凡な、立方体の上に四角錐が載っているような建物で、そのイメージは中に入ってもそれほど変わりはしなかった。八畳ほどの大きさ、正面に、アーチのように波打つ曲線で彫り込んだ壁に祭壇と十字架、左右の壁は微かに波打っているようだが見た目にはわからないし、窓は一つも無い。扉を開けたことで入り込む日差しが照らす床は、複雑なモザイク模様……だが、それだけのことだった。ガウディと聞いて想像するような、あの独特の空間の存在感はない。むしろ、最近あまり使っていないという婦人のことばを証明するように、うっすらと積もった埃が舞い上がり、『青の光景』に描かれた、身の縮まるような森閑とした『青』のイメージはなく、ただ干からびた夢の残骸があるだけだ。

「ピカソの作品であることは間違いないけど……どうして、彼はこの部屋を描いて『青の光景』なんてタイトルをつけたのかしら」

 何も発見も納得もできず、とりあえず部屋を出た俺の耳に、お由宇の呟きが妙にはっきりと残った。


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