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『青の恋歌(マドリガル)』~猫たちの時間11〜  作者: segakiyui
7.村

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「あぎゃ!」

「イレーネ!!」

 仰け反って頭を打ち、泡立った脳味噌の整理にうろたえる俺の耳に、聞き慣れたハスキーヴォイスが届く。

(上尾?)

 どうしてここに、と思うまもなく、上尾は振り返ったイレーネの前に立って叫んでいた。

「やめてくれ、イレーネ! 一体何をしてるんだ?!」

「上尾…」

 寂しげな顔立ちに不似合いな、朱色の唇が柔らかくことばを紡ぐ。それが何かの呪文でもあったかのように、イレーネの頬に哀れむような微笑が浮かんだ。

「そうね……あなたも来ていたわね……」

「イレーネ、説明してくれ、君は……君……暢子さんを殺したのも君なのか?」

「そうよ、上尾……」

「朝倉さんを連れ去ったのも…」

「…そうよ、上尾…」

 イレーネは甘く笑った。

「どうして…何で…」

「それだけじゃないのよ、上尾。アルベーロを殺したのも私……どうして、あなた達がすぐに私の後を追って来れたのか、不思議だったけど…」

「アルベーロが札を握って教えてくれたんだ。だけど、どうして、イレーネ! アルベーロは君を愛して……そればかりか、RETA(ロッホ・エタの仲間だったんじゃないか!」

「そう……アルベーロは教えたの…」

 懇願するような上尾の声に、イレーネは笑みを深めた。それはアランフェスでの暢子の笑みに似て、どこか仄暗い翳りを見せる笑みだった。

「私に暢子さんを殺させまいとしたのね……でも、私の愛はそこにはないのに…」

「イレーネ!」

「そう……始めは『青の光景』を取り戻して、RETA(ロッホ・エタに戻るつもりだったわ……父の汚名を晴らして、朝倉周一郎を出し抜いて……でもね、上尾」

 きらり、と面立ちに背く激しい炎が、瞳の中で光を放った。

「『影』が私を呼んだのよ、周一郎という影が」

 周一郎に半身背中を向けたまま、拳銃を構えた右手で周一郎を指す。

「朝倉さん? …影? ……」

 上尾の呟きは、そのまま俺の問いかけでもあった。

「……10年前…私の父、パブロ・レオニは、周一郎と朝倉大悟に陥れられたわ。たまたま友達の家に居た私だけが助かって……恨んだわ、2人を。いつかこの手で、必ず闇に突き落としてやろうと思い続けて来た……けれどもね、上尾…」

 イレーネは濃い睫毛を一瞬伏せ、緩やかに上げた。

「今でも覚えている……父が死んで数日後、沈んだ私を友人が闘牛場へ連れて行ってくれたの。陽のあたるソルの席……昔は、ちゃんとソンブラの席に座れたのにね。悔しい想いを噛み締めて見上げたソンブラの席に……周一郎が来ていた」

 声が深い震えを帯びた。

「私達を破滅に追いやった男……睨みつけていたのに、もう一方でどうしようもなく魅かれていった……影の中、側に保護者を控えさせて、じっと闘牛を見つめる歳下の男の子……憎い、けれど、何を犠牲にしても手に入れたい………牛が倒された瞬間、そう思っている自分に気づいたの」

「…『真実の瞬間』…」

 上尾が吐くように呻いた。

「そうね…」

 イレーネが微かに頷く。

「それから、父の汚名を晴らすため、とか、バスクの誇りを守るため、とか、いろいろな理由をつけてRETA(ロッホ・エタに近づいたし、アルベーロを利用したし、暢子さんを殺したけど……そのどれも、きっと私には意味がなかったんだわ……。真実は1つだけだったのよ……周一郎が憎い、他の誰よりも憎い……そして、周一郎が欲しい……他の誰よりも」

「イレ…!!」

 ドギュンッ!!

 ことばと同時に持ち上げられていた拳銃が、いつの間にか上尾を狙っていた。上尾が青ざめる間もなく、銃声が響き、腕を撃たれて上尾は吹っ飛び、扉まで転がった。

「ごめんなさい……上尾…」

 相変わらず、寂しげな顔立ちに不似合いな、酔ったような甘い笑みを浮かべて、イレーネは続けた。

「もう…周一郎を誰にも渡す気はないの……RETA(ロッホ・エタにも、神様にも」

 イレーネは振り返った。朱い唇が至上の天使のことばにも似た優しさでことばを紡ぐ。

「愛してるわ、周一郎」

 しなやかな指先が、周一郎の胸元に狙いをつけた拳銃の引き金を引こうとする。その時、俺は指の先を嫌というほどルトに噛まれて悲鳴を上げた。

「ぎゃわ!」

「誰っ?!」

 ええいっ、くそっ!

 身を翻すイレーネの手には拳銃がある。んなこた、わかってる。でも、仕方ねえだろ、俺の足がまた勝手に走り出しちまったんだから。

「滝…!」

「志郎!」

 前後からぎょっとした声が同時に響いた。俺の頭の中はスローモーションからコマ送り、一歩一歩に3~4倍の速度になったような心臓の鼓動の効果音付きだ。

「待てよっ!」

 日本語がわかるなら話が早い。俺は考える間もあらばこそ、半分、壁から崩れ折れかけている周一郎を庇ってイレーネに向き合っていた。

 改めて見れば、本当にとびきりの美人、どうしてこんな『忙しい』ときにしか美人と関わらんのだろーか。俺は平時にこそお付き合いしたいと切に切に願っているんだが。まあ、カッコつけて飛び出してはみたものの、なにせ美人を前にすると言語障害に陥るのが常、まともな啖呵がが切れるわけもない。

「あ、あのさ、ちょ、ちょっと待ってくれません?」

 俺はぽかんとしているイレーネに、へらへら笑いかけた。笑いたかったわけじゃない、断じて、自分の命が危ない時に笑いたかない。ただ、怖さで引きつった顔をなんとかしようとしたら、両頬が引きつって、で、つまりはそれが直らなくなったのだ。

「そりゃ、その、待ってもどーという事はないわけで、何の得があるかと言われたら、これが何にもないわけで、俺としても非常に困るわけなんですが…あ…ははっ」

 だめだ、笑い声までたててしまった。無事に帰しては……くれんだろーな、やっぱり。

「もちろん、俺が困ったところで、あなたがどーというわけではないわけで……その…別に悪気があって笑ってるわけじゃないんですが、ちょっと、なんか止まんなくて……はっはははっ♡」

 ぐわ……♡マークまでついてしまった。イレーネの顔がだんだん険しくなる。うん……やっぱり、普通は怒るよな、こういう場合。

「あなたが…滝…ね?」

「え? はあ…まあ…そーなんですね、これが……あははっ」

「さすがに大物ね、こういう時に笑えるなんて」

 違うっつーのに! 笑いたかないんだ、どっちかっつーと泣きたいんだってば! 今更ながら、毎度毎度己のアホさを、またもや後悔している最中なんだってのに。イレーネを愛していた上尾でさえ、ズドンと一発意識消失、俺ならきっと、ズドンと一発生命消滅、が最低ラインだろうなあ。

「いや、ははっ、大物だなんて……はははっ」

 俺の引きつり笑いは主人の意思を無視して続いた。それでも、人並みに膝だけは大笑いをし始めてくれている。今、走れと言われたら、俺は『絶対』こけてやる。


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