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きっ、と軽い音とともに車が止まる。ドアを開けて足を下ろすと、靴の裏で乾いた土が音を立てた。
「志郎」
「ああ…」
助手席から先に降りたお由宇の白く細い指がさす先、いじけたような草が地を覆い、小さな村が蹲る背後に、同じく小さな丘があり、そこに十字架がぽつりと立っていた。
「十字架の立つ丘…」
高野が重い足取りで車を回ってきて見つめ、呟いた。
「変わっていない……10年前のままです。あの十字架の後ろの方に、小さな教会があるのです」
「ここが、ローラ・レオニの生まれ故郷…」
頭の中に、昨日のことがゆっくりと戻ってくる。
「!」
安ホテルの女将に嗅がせた鼻薬の効き目を待つ間ももどかしく、俺と『ランティエ』は、古ぼけ煤けた階段を駆け上がり、イレーネが泊まっていたらしい3階の一室のドアを開け放ち、瞬間凍りついた。
「……」
無言で部屋の中に踏み込む。一目で、ここに暮らしていた何者かがうろたえて出て行ったことがわかる荒れ方、古風な木の椅子が、安っぽいプラスチック製のドレッサーには不似合いに転がっていた。机の上に汚れたコーヒーカップ、机の下にもう一個が砕けている。白い陶器の肌が妙につやつやと、小さな窓から差し込む陽を跳ね、薄汚れたベージュの壁紙に淡い光の影を揺らせている。
だが、俺がショックを受けたのは、イレーネが既に消えていると言うことだけではない。
「滝さん」
「あ…あ」
『ランティエ』の声に、俺はようよう声を絞り出した。渇ききった喉を騙すように唾を飲み込む。だが、そのわずかな水分さえも、脇の下や背中や掌に滲む冷たい汗となって流れ出して行ってしまうように、ほんの少しも喉を潤してはくれなかった。
「どうやら、朝倉さんの傷は、掠り傷ではなさそうですね」
「……」
『ランティエ』の声に、殴りつけてやりたいような凶暴な気持ちが溢れる。だが、俺の眼は振り返ろうにも、部屋の奥にある粗末なベッドに惹きつけられたまま、どうにも動かせない。
血の汚染。
べっとりと粘りつくような、表現し難い粘稠性を持って、それはベッドの中央と枕のあたりに染み付いていた。どす黒く変色しているのは周囲だけ、中央の方は、まだその源を語ろうとするように、生々しい温かさと紅を保っていた。ベッドの端、丸めてくしゃくしゃになっている茶色の背広をそっと手に取る。それで止血しかけたのか、所々に黒々とした血がこびりついている。
コト。
「っ」
小さな音が背後で響き、俺は慌てて振り返った。
「お由宇…」
「遅かったようね。『ランティエ』、伝言ありがとう」
「どういたしまして」
『ランティエ』の側をすり抜けたお由宇の後ろから、高野と上尾が姿を現わす。上尾がひっ、と息を呑み、棒立ちになった。高野がゆっくりと部屋の中を見回し、俺の手の物に目を止める。掠れた叫びが高野の口を衝いた。
「それは坊っちゃまのものです!」
「まだ死んではいないはずよ」
お由宇は厳しい声で言いながら、ベッドのあたりに屈み込んだ。
「死んだなら、イレーネが連れて行くはずが……うん?」
「何かあったのか?」
「これ……周一郎君の字?」
硬い声でお由宇が尋ねた。差し出した小さな紙切れに、乱れたたどたどしい字が読み取れた。
「ああ」
「カルヴァリオ……わかる?」
「知らん」
素っ気なく答える声が一体誰のものかと思えば、自分の声だった。はっとしたように高野が応じる。
「カルヴァリオ………ひょっとして、十字架の立つ丘、のことではないでしょうか。ロルカの詩にあります。それに、確かローラ様の生まれ故郷は、ここよりもう少し南西の小村、十字架の立つ場所の近くと伺ったことがございます」
「ロルカの『村』ね」
きらっと目を光らせたお由宇が、くるりと身を翻らせた。
「あの女主人、まだこの部屋を見てはいないわね」
「たぶん。1時間ほど前にイレーネと2人の男、それに抱えられるように1人の少年が出て行った、と言っていましたからね」
心得たように『ランティエ』が答える。
「じゃあ、さっさと出ましょう。ここで女主人に見つかったら、周一郎君を追うどころじゃなくなるわ」
「同感ですな」
「お由宇」
部屋を出て行きながら尋ねた。
「『村』って、どんなのだ?」
「……見捨てられた村を詩ったものよ。十字架の立つ丘、オリーブの木々と澄んだ水、顔を覆った人々、塔の上に回る風見……不吉で侘しい光景のね」
伏せた睫毛の下の瞳が、珍しく頼りなく揺れた気がした………。




