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春花秋月  作者: きさらぎ
25/26

恋の種Ⅴ

「やっぱり、血ではないかしら?」


 赤い染みを確かめるように見ていた橘部長の声。

 そうかもしれない。しかし怪我をしてるわけでもないのに、どこで付いたんだろう?

 まさか。ふと握り込んでいた手を広げて、ピアスに目を落した。

 よく見てみると、金色の細い針の部分に赤い跡がある。これはもしかして血? ぶつかった拍子にピアスが取れて、血まで流してしまったということか。急いでいたようだったから焦っていた気持ちもわかるが、広い通路で何も私にぶつかることはないだろう。そそっかしい人間だ。


「よかったら、染み抜きしますよ」


 橘部長の声が聞こえた。


「染み抜きですか?」


「はい。時間が経つと血は落しにくくなりますから。それに、染み抜き剤も持っていますから」


 さすが。気配りが行き届いている。


「ありがとうございます。クリーニングに出しますから、お気遣いなく」


 いくらなんでもそこまで世話をかけるわけにはいかない。


「そうですか」


 橘部長はそれ以上無理強いすることはなく、あっさりと引いてくれた。助かった。ごり押しされても困るだけだ。私は彼女の去ったところをもう一度見つめた。人騒がせな女。

 

「どうかしましたか?」


「いえ。ただ、不躾な女性だったなと思って」


 私の言葉に橘部長も同じ方に目を向けた。


「そう思われるのでしたら、白河課長、あなたのそばで躾け直されたらどうです?」


 今、何を言われたんだろう?


「えっ、それはどういう・・・・・・」


 言葉が続かなかった。躾け直す? はあ? 私は目をこれでもかってくらい、目を見開いて彼女を見た。それはどういう意味なんだろう? 


「ですから、不躾だと思われたのでしょう? だったらあなたが教育してあげたらいいと思いますよ。役職は違いますが同じ新人同士ですし、教えられるばかりより教える立場にも立てば、また気持ちも違うでしょう」


 どういう発想をすればそんな言葉が出てくるのか。訳が分からない。言葉の意味をどうとればいいのか。どんな真意で言ったのか、彼女の表情を探るように見てみたが、何も見いだせない。穏やかそうな顏にも目にも不思議なくらい感情がなかった。見習いたいぐらいの完璧さだった。


 断る理由を探した。


「部署が違いますから」


 たぶん、これが一番もっともだろう。

 教育と言っても私は営業課、彼女は経理課、業務内容が全然違う。それに、一度配属が決まったものを変えるというのも難しいだろう。人事異動は終わっている。


「それでしたら、彼女を営業に回せば済むことですから。すぐにでもできますよ。あなたが望みさえすれば、わたしの権限でどうとでもなります」


 平然と、まるで私利私欲で権力を使うことなど、当たり前のような言葉に

目を剥いた。そこまでして彼女が欲しいわけではない。

 何がこの人を焚き付けたんだろうか。言っていることがめちゃくちゃだ。


「それはどうかと思いますが、人事異動は慎重にしなくては、周りが混乱するだけでしょう」


 人事部を統括しているからこそ、一番言ってはいけない言葉だろう。


「そうですね。それもありますね。けれど相手は新入社員ですから、どこの部署が合ってるかなんて、すぐすぐにわかるわけではありませんので、あの子も経理課にいますが、案外、営業が合うかもしれませんよ」

 

「・・・・・・」


 一理ある。悔しいくらい反論できない。というより、無理だ。太刀打ちできない。

 私の些細な一言が、人事異動にまで発展するとは思いもしなかった。私は一体何をしたんだろう? どこがいけなかったのだろうか? 恐ろしい。彼女の前ではもっと慎重に言葉を選ばなくては。


 彼女の真意はわからないが、今の立場では色々抱え込むだけの余裕はない。仕事を覚えるだけで精いっぱいだ。教えられることばかりだが、今はそれでいいと思っている。だから、教わりながら人にも教えるという芸当は出来そうにない。ましてや、相手が女性なら、なおさらだ。

 厄介なものだとわかっているものを引き受けることは出来ない。


「お言葉はわかりますが、お断りさせていただきます。私にはまだそのような器はありませんので。申し訳ありません」


 頭を下げると、


「そう、残念ですね。いいアイディアだと思ったのですけど」


 大袈裟なくらい肩を落とされてしまった。

 そこまでがっかりすることだろうか。こういう時はちゃんと表情が出る。状況を見ながら変えているのだろうか、それとも私が試されているのか、或は両方か。


 これも無理強いされることはなかったのでホッとしたのだが、結局ピアスは持ったまま部署へと戻った。



 しかし、捨てるにも捨てられず、迷った末に机の引き出しの中にしまった。

 





 

 

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