212話 ヤマネコさんの病気
「?」
なんだろうと耳を澄ませる。
「グ……グ……」
確かに聞こえる。こっちの方。音を頼りにわたしは部屋の奥へと進むと――おそらくは積みあがっていたものが崩れてしまったのだろう。
物が無造作に山を作り土砂崩れの現場のようになっている所の前に来た。
「ここから聞こえる……」
グ……グ……。という歯軋りのような音は、このゴミ(ゴミじゃないかもしれないけど)の山の下から聞こえてくるようだった。
「……」
わたしは眉を寄せて「よし」と気合を入れると、そこに山積みになっている物がこれ以上崩れないように一つ一つ化石を掘るように慎重にどかしていく。
しばらく、そうやって掘り進んでいると、
「猫ちぐら?」
藁で編まれた猫ちぐらが姿を現した。
猫ちぐらというのは藁で編まれたかまくらのような猫のお家である。
職人さんの手によって一つ一つ丁寧に作られた猫ちぐらは非常に高価な猫のお家だと、家猫達の間でも非常に人気の代物である。
もちろんわたしの家にはなくてテレビで観た知識だけど、猫ちぐらを目の前に置かれた猫はその魔性の魅力にとり憑かれて、瞬く間に猫ちぐらに吸い込まれ眠りに落ちてしまうという。
目の前の猫ちぐらはそんな最高品質のそれと遜色ないものだった。
これがヤマネコさんの寝床……?
さすが英雄猫を自称しているだけあって立派な寝床で寝てるんだなぁ。
などと感心していたが、すぐにそんな場合ではない事に気がついて耳を澄ます。
グ……グ……。
音は猫ちぐらの中から聞こえてきていた。
「ヤマネコさん?」
わたしは微かに逡巡してから、そろそろと猫ちぐらの中を覗きこむ。
そこには体を丸くして眠っているヤマネコの姿があった。
「なんだ……寝てるだけか」
おかしな音が聞こえてくるから何かと思ったけど、寝ている時の歯軋りだったらしい。
ほっと胸を撫で下ろして、猫ちぐらの中に手を入れてそっと毛並みを梳かすように体に触れた時だった。
「っ?!」
びくっとして思わず手を引っ込める。
「……」
一度呼吸を整えてから、改めてヤマネコの体に触れた。
「熱い……」
手の平を伝わってくる温度にわたしは顔をしかめる。ヤマネコの体は燃えるように熱かったのだ。
よくよく見れば呼吸は荒く眠っている顔はどこか苦しそう。
猫ちぐらの中で見つけたヤマネコは具合が悪そうだった。
「え、もしかして猫風邪?!」
ヘルペス、カリシ、クラミジア。
わたしは猫風邪にかかった事がないから、よくわからないけど。
とにかくヤマネコは苦しそうにしているのは確かだった。
猫風邪はヘルペスウィルス、カリシウィルス、クラミジア等のウィルスによって引き起こされる病で、鼻水や、くしゃみ、発熱等の症状を引き起こすと言われている。
わたしは猫ちぐらに開いた穴を覗き込むと、もっとよくヤマネコの様子を観察した。
「熱がある以外は、特別おかしな所はないみたいだけど……」
パッとみた感じでは発熱以外の症状は見られない。
猫風邪ではないのだろうか。
ただ特に額を中心にして、非常に高い熱を発しているようだった。
「と、とにかく誰かに言わないと――」
そしてお医者さまに――この世界に英雄猫と呼ばれる所謂普通の四足の猫を診てくれる猫がいるのかわからないけど、
とにかくお医者さまの所に連れて行かなければとわたしは事務室から飛び出ると連絡してもらう為にカウンターの中にいたこの酒場のマスターに上擦った声で話しかけた。
「あ、あの。ヤマネコさんがっ」
「やぁ、お壌ちゃん。ミルク飲むかい?」
「あ、いや、違くて……」
「じゃあ、カルピス?」
「それも違くて……」
「じゃあ、甘酒かな?」
「いや、だから……」
「じゃあ、アンバサか」
「だから違うって……、ってもぅ、なんで白いものばっかり飲ませようとするのっ」
「ははは」
はははじゃないよ。わたしはからかうような笑みを浮かべる酒場のマスターに不満の目を向けると、それ所ではなかったと思いなおし改めてマスターに言った。
「ヤマネコさんが大変なのっ」
「ヤマネコさん? ヤマネコさんなら隣の事務所で寝てるぜ」
そう言うとマスターは親指で、事務所の入り口を指差す。いや、知ってるって。
むしろわたしはその事務所から出てきたんだから。
「そうじゃなくてすごい熱なの。焼いたマシュマロみたいに」
「そいつはやべぇな。中身トロトロじゃねぇか」
「でしょ、もう脳みそトロトロよ」
「そいつは大変だねぇ」
そう言うと酒場のマスターはワイングラスを磨き始めた。ちょ、この猫真面目に聞いてくれてない。
わたしはとにかくこっちに来てと無理やりマスターを事務所に連れて来ると、「見て」と猫ちぐらの中のヤマネコを指し示す。
相変わらずヤマネコはぐったりとしており、見るからに具合が悪そうだった。
「? ただ寝てるだけじゃないか」
「なっ……」
見てもらえさえすればすぐにわかって貰えると思っていたわたしは、そのマスターの意外な反応に面食らってしまう。
「何言ってるの。こんなに具合悪そうなのに」
じゃあ、触ってみてと額を触らせてみるが反応は芳しいものではなかった。
「特になんともないようだが」
「熱があるでしょ」
わたしがヤマネコを指差して言うと、酒場のマスターは「ははは」とちょっと小馬鹿にしたように笑うと、
「ああ、壌ちゃんは知らないんだな。英雄猫の平熱は三十八度なんだ。俺達よりも少し高めなんだよ」
「それは知ってるよ」
猫の平熱は一般的には三十七度から三十九度と言われており、子猫ほど体温が高く老猫ほど体温は低くなる傾向がある。
ヤマネコさんは見た目普通に成猫くらいといった所なので平熱が三十八度でも猫としては至って普通である。
人間の姿に猫耳がついているニャルハラの猫達は人間の平熱である三十六度くらいなのだろうから、それでも高く感じられるだろうが
ヤマネコと同じように四足の普通の猫として生きてきたわたしにとって平熱三十八度は特別驚くような体温ではない。
わたしが言いたいのはそういう事ではなくて。
「そうじゃなくて、平熱が三十八度とかそういうレベルじゃなく明らかに高いでしょ? もう一回触ってみてよ」
わたしが促すと、彼はもう一度ヤマネコの額に触れた。そして、渋い顔をすると、
「いや、やっぱり平熱だよ」
「そんな……」
酒場のマスターが言うのに、わたしは呆然とする。
こんなに燃えるように熱を出しているのにこれを平熱だって言うの。
そうでなくてもこんなに苦しそうな顔をしているのに……。
「壌ちゃん、あんまり大人をからかっちゃいけないぜ。安らかなもんじゃないか。きっといい夢観てるに違いないだろうよ。熟睡してる猫をあんまりペタペタ触ると体がビクゥッてなるからな」
そんなわたしの深刻な態度を笑い飛ばすように言うと「そろそろ、仕事に戻らせてもらうぜ」と背中を向けて事務所を出て行ってしまった。
「……」
一人残された部屋にグ……グ……という歯軋りのような喉を鳴らすような音が木霊する。
微かなデジャブ。微かな心の突き当たり。
袋小路に迷い込んでしまったかのような不安の中で、ふと一つの出来事が泡のように生まれて弾けた。
これは、眠り猫の変調をみんなに訴えた時に似ていたのだ。
「どうしよう……」
ゴミに埋もれた猫ちぐらを前に途方に暮れてしまう。
あの時も眠り猫の子が苦しそうにしているのだと、みんなに訴えても誰にもわかってもらえなかった。
みんなにはそれが深刻だとは見えなかったのだろう。
もし、あの時と同じだとしたら、誰に話しても意味がないのかもしれない。
「ううん」
結論を出すのは早い。
一つわかっているのは、ヤマネコさんを助けられるのはきっとわたしだけだという事。
とりあえずミケ達にも相談してみよう。
「よし、そうと決まったら――」
わたしは猫ちぐらの前にしゃがみ込むと、そのまま猫ちぐらごとヤマネコを抱え持った。
猫ちぐらがなくなった事で、それに堰き止められていた物がガラガラと音を立てて土砂崩れを起こすが気にしない。
物の散らかった事務室を後にして、わたしは猫ちぐらを持って外に出た。
「あ、おい」
カウンターの前を通ると、マスターに呼び止められる。
「しばらく、ヤマネコさんはわたしが預かるわ」
「なんだと」
「あんな部屋にいたら、治るものも治らないよ」
少なくとも、埃っぽい空気が充満している事務室に一人で置いておくよりは別の場所に移した方がいいだろう。
別の場所というのはわたしの部屋の事だけど。
「壌ちゃん、それは誘拐って言うんだぜ?」
「嫌なら、身代金払って」
「身代金……だと」
「そ、身代金」
マスターは少し考えるように顎に手を当てると、
「好きにしな」
「うんっ」
頷くと、行きと同じようにガヤガヤと様々な音が混じり合う店内を縫うように腰を低くすると、そのまま海底を這う深海魚のように進むと外に出た。




