第94話:神様がルールブック
「帰りたいよぉ……」
異世界転移後の織原蒼は散々であった。
食料は見つからない、人を見つけても言葉が通じない。
オマケに、魔獣や盗賊が容赦なく襲ってくる。命からがら逃げるシーンは、思い出すのも恐ろしい。
制服はボロボロ。スカートには無数のスリットが入ってしまい、もはや本来の用途を満たせなくなっていた。
なんとか近未来予知で最悪の事態は防いでいるものの、もうそれすらできそうもない。
「お腹減ったよぉ、もう嫌だよぉ」
12歳……いや転移したその日に13歳になったばかりの少女には、この状況はあまりに酷であった。
綺麗だったのにカサカサになった肌。艶が無くなりボサボサになった髪。
諦めが頭に過る。何せ、ここがどこかも分からない。
今日を生き延びたところで、きっと元の生活には戻れない……。
「うわぁぁぁぁん、わぁぁぁぁ!!」
絶望感に支配され、蒼は泣き出してしまった。
だが悲しいかな、本人は大声で泣いているつもりでも、もはや声量をコントロールするエネルギーすら残っていないらしい。
小さな小さな大泣きだった。
そんな時。
「あ、ワンワンだ……」
蒼は泣き止んだ。大好きな犬っぽい動物が近づいて来るからだ。
織原家で飼っていた大型犬よりも、更に一回り大きい犬であった。
だがナリは犬でも、この地域にいるのは間違いなく魔獣である事を蒼は肌で知っている。自分はこの生物に食われて死ぬのだと思うと、また涙腺が緩んだ。
「うぇぇぇん、嫌だよぉー」
魔獣は蒼の傍に寄って来て、口をあんぐりと開けた。
いよいよ最期かと思われたが、魔獣は自分の食用と思われる獣の肉を、蒼の目の前に落として行った。
「え……くれるの?」
「ワウー」
恵まれた。この世界に来て奪われ、襲われるばかりだった自分が初めて恵まれた。
別の意味で涙腺が緩みかける。
しかし。
「ごめん、でも生じゃ食べれないや」
「フーッ、フーッ」
「いや、要らないって意味じゃなくてね? ごめんごめん。どうしよっか」
蒼はフラツキながらも、言葉が通じなかった近場の街へ、魔獣に寄りかかりながら歩き出した。
自分の為には行動できなかった少女は、魔獣の好意に報いるためだけに肉体言語を駆使し、火種を手に入れた。
この世界で初めての友達と食べる、この世界で初めての肉のお味は。
「マッズ……あ、いや、美味しいよ!? ワンワンさん」
「ワウー」
「ありがとう、ありがとうね。命の恩人さん」
魔獣の優しさに感謝感激した蒼は、その日草のベッドを作り一緒に寝た。
そして次の日から、一人と一匹の生活が始まったのである。
生きていくための、命がけのサバイバルが。
***
「何だぁぁぁ!?」
「犬が攻撃したぞ! ルール違反だろあれ!」
コロシアムの観衆は騒然となった。
織原蒼の、いや彼女の愛犬である魔狩の攻撃がそうさせたのだ。
ルール違反ではないか?との指摘が会場中に飛び交う。
「だーまーれ、愚民共」
その観衆も、戦闘神の前では借りて来た猫である。
彼の神声量から、何が起こっているのか雄弁な説明が成される。
「今大会は、武器を一つ持ち込んで良い事にしておる。して、織原蒼の申告武器は『魔犬』である」
「ええーッ!?」
「それありなの!? 魔獣って武器か!?」
「だーまーれ」
「ううっ」
戦闘神は一刻も早く観戦に戻りたいのだ。これ以上文句を言うと殺される可能性もあると、観客は自重し始める。
「そもそも一回戦からずっとあの犬は闘技場内にいたであろうが。今更何を文句を宣うのだ?」
「えっ、そうだっけ……」
「いや、そういえば確かにアオイちゃんの試合では毎回いたな……しつこいほどに背中撫でてたし」
「もっと言えば予選会からずっと武器として傍におったのだ。あの犬は大会委員の審査を経て認められた、れっきとした『武器』である!」
戦闘神は、これ以上余計な説明をさせるなと言わんばかりに鼻息を荒げる。
正直、既に観衆は批判する気はないのだが、戦闘神のダメ押しを喰らう。
「それを批判するという事は、主催者の余への侮辱ぞ! 誰ぞおるなら出て参れ!」
こうして観衆は沈静化した。結局のところ、戦闘神がルールそのものなのだ。
再びVIP席に腰かけ、膝をクロスさせると、顎で二人の闘技者に指図する。
「さぁ、続けよ法龍院、織原」
「はーい」
「……はっ」
学の左手からは出血している。と言っても元々内出血していた物が外へ出ただけではあるが。
それに加えて、第七式で受けたダメージもある。
もっと言えば、完封勝ち直前でしっぺ返しを食らった精神的ダメージもあるのだ。
――まさか、犬が武器だったとは。
今思えば、蒼は円状に移動して、自分を犬から対極の位置に持って来ていた。
そしてその位置に来ると言う事は、学の背後に魔犬を配置するという事である。
最初から、全て狙っていたのだ。
その思考の瞬間、魔狩が学に突撃してくる。一瞬で間を詰められた事に驚愕する学は、それでも爪の一撃をスウェーバックで回避した。
すぐさま横ばいに距離を取る。すると今度はその位置に……。
「土魔法、第弐式!」
「ぬぅっ」
蒼がいた。弐式は土中から剣を発生させる魔法。
学はその魔法の起こりを見切、バック転でギリギリ回避した。
――何だ、この戦い方は……隙がない!!
体術の達人たる学が、完全に後手に回っている。
形勢は、完全に逆転した。蒼を狩っていたはずの学が、完全に蒼に狩られる側に回っている。
「チッ、厄介な奴らめ!」
「褒め言葉と捉えますよ。さぁ、まだまだ行くよ魔狩!」
「ワウー!」
今の学には、ただただ回避するしか策がない。
「このまま行けますかね、ダヴール様」
「このままなら、な」
ダヴールは学と蒼の一挙手一投足を、優し気な目で見ていた。




