第91話:楽勝?
「ちょー! 何で起こしてくれないのー! お母さんの馬鹿!」
「中学生にもなってなーに言ってるの蒼ちゃん。ほら、お味噌汁飲んで早く学校行きなさい」
「くっ、このギリギリの状況で誰がお味噌汁なんか……美味しい!」
「お父さんもそろそろ出勤ね。頑張って」
「お父さんが車通勤なら乗せて行ってもらえるのにー! 何で電車なのー!」
「おっちょこちょいだなぁ。今日は蒼の誕生日なんだから、寄り道せずに帰って来いよ」
その日の朝。織原蒼は寝坊していた。
「くっそぉぉ! 絶対間に合わす!」
スカートのガードも気にせず、立ち漕ぎで坂を上り、前傾姿勢で下る。
出欠の点呼開始一分前。
信号がタイミング良く切り替わった事も幸いし、彼女は校舎内へ辿り着いた。
「やった、間に合った!」
夏の気候も相まって、息は切れ切れ、汗はダラダラ。
それでも絶望的状況から奇跡を起こした蒼は、勢いよく教室の扉を開ける。
「皆、おはよー!」
そこにあったのは机と黒板ではなく……果てしなく広がる草原の緑。
「……おはよー」
何度挨拶をしても返事はない。急いで振り返ったが、開けた筈のドアもない。
何も、ない。
別のベクトルの奇跡が起こってしまったのだ。
***
蒼は、コーナーへ向かう通路を歩いていた。学が来ていない事は承知の上。
係員が闘技場で待機する様に指示して来たのだ。あと一時間遅れれば、その場で蒼の不戦勝が宣言されるらしい。
「何があったんだろうねぇ、マーガリン?」
「クゥン」
愛犬と並列して歩く彼女の眼に、巨体の影が映った。
腹部と腕部を著しく損傷している。戦いを終えたばかりのダヴール・アウエルシュテットであった。
「げ、魔人さん……じゃなくて、神様?」
「神性が半分あるだけだ。身構えなくていい」
「じ、じゃあ半神様。私めが何か粗相を?」
「身構えるなと言うに」
ダヴールは身をかがめて、蒼の目線に合わせる。
その強面に、蒼は思わず仰け反ってしまう。
「な、何でございまするかぁ!?」
「貴様に託す。決勝に上って来い」
「は?」
「奴は、目に見えているものに関しては強い。見えていれば、な」
「……」
「貴様なら、楽勝のはずだ」
ダヴールはそう言うと、控室に行ってしまう。
「楽勝、ね」
蒼は、再び闘技場へ歩き出す。その目つきは鋭く変わっていた。
***
観客はざわついていた。
第一試合が終わってしばらく経つ。しかし出場選手の片方が一向に現れない。
「いつまで待たせるんだよー」
「ホウリュウインは逃げちまったのかー?」
ヤジが飛び交う会場で、蒼は一人。犬を撫でている。
暇な観客は彼女に構う事で少しでも気分を晴らそうとする。
「アオイちゃーん、今日も可愛いよー」
「アオイちゃん、今日こそ期待してるよー」
期待が何を意味するのかはお察しである。
蒼はそれらの声を一切無視し、愛犬に話しかけ続けている。
暖簾に腕押しとみて、構って貰いたかった観客もヤジを止めた。
「今日のアオイちゃん愛想がないね」
「まあ準決勝まで来ちゃったら硬くなるってもんよ」
「んー、でもあの服は残念だなぁ」
蒼の服装は昨日までのジャンパースカート状のものではなく、上も下もジャージ状の動き易い格好であった。髪も邪魔にならない様にポニーテール。運動性重視だ。
これが(この期に及んで)未だにいる一部の下衆層には面白くない。
「あれじゃあ、今日はパンチラは無理だなぁ」
「畜生、まぁ二回戦まで見れただけでも良しとするか」
その時、蒼は逆のコーナーに人の気配を感じ、立ち上がる。
――来ちゃったんだ。
「じゃあ、マーガリン。いつも通りここで待っていてね」
「ワウー」
「心配ないって。だって私は、必ず還るんだもん」
愛犬の背中を一撫で。
そして中央へ一歩歩いたが、振り向いてもう一撫で。
――私、落ち着いてるよね?
気を取り直して、彼女は戦場へ向かうのだった。
***
「痛ぅ……」
西コーナーに繋がる通路を歩いて来るのは、場外戦を何とか勝ち残った法龍院学である。
二回戦で骨折した左薬指が、クライドに放った刻突きで更に痛めてしまったのか。紫色を伴ってブヨブヨに腫れている。
――参ったな。弾丸によるダメージもあるし、恐らく大丈夫だがこっちもヒビ入ってるかもしれん。こんな状態でこの先……。
その時、通路の出口近くに人影を見た。
レイムル・シーシェルズ。学にとって、さっきまで忌むべきだった人物である。
「やってくれましたねぇ、露出狂の魔剣士さん」
「……来ちゃったのね。来れちゃったのね」
「通りますよ」
「クライドはどうなったの?」
学は足を止めて、レイムルを睨みつける。
「殺しましたよ」
「そう……」
「殺さずに勝てる相手だと思います?」
「……」
「そんな事より」
学が話題を逸らす。クライドと自分は曲りなりにも男として戦い、片方が散った。その事をこれ以上どうこう言いたくもないし、外野から言われたくも無いのだ。
「リリィさんはどうなったんですか」
「……」
「どうなったのかと聞いてるんですよ。外から紫の爆発を見ました。どうせありゃ、弐拾式の衝突でしょ? どうなったんですか」
「……負けたわ。ダヴール様には敵わなかった」
「そんな事を聞いてるんじゃない! 死んだんですか!?」
「え? いや、生きてるけど」
「……そっか。ならいいや」
今朝は、自分が集中するためとはいえ酷い扱いをしてしまったから、学は少しモヤモヤしていたのだ。
生きていると知り、少しは胸の閊えが取れた。
「し、心配してたの?」
「ええ、まぁほんの少し」
「嫌いになったんじゃないの?」
「はぁ? ……僕もう行きますよ。邪魔だからどいてください」
学はレイムルをどかして、光の方向へ歩いて行く。
残されたレイムルは、その光に向かって祈る。
――脈は、残っていた! 頼んだわよアオイ!




