第76話:少年の祈り
既に部屋の机の上には、アルコールのボトルが大量に並んでいた。
リリィはここで酒宴を続けるつもりで、帰るつもりはないのだと学は悟る。
風呂まで先に済ませた様で、頭から湯気が立っている。
「何してんですか、まったくもう」
「らってさぁ、ホー君さぁ」
「正味疲れてるんですよ。明日に備えて休まなきゃ」
「ああん!? あんた昨日あたしの部屋に夜這いに来た分際で! あたしがあんたの部屋に押しかけるのはダメってか!?」
再び酒を呷るリリィ。
学は深く溜め息をつく。
「猿芝居はやめて下さいよ。あなたがアルコールに異様に強いのは知ってますから」
「えっ」
「何か目的があって来たんでしょうが。さっさと済ませて下さいよ。お互い重症なんですから」
「いや、それは……」
学の慧眼であった。リリィはアルコールに酔ったフリをしているだけである。
だが、特に目的があって来たわけではない。
――話すきっかけが欲しかったから、酔っぱらったフリをしていたとは言えない……。恥ずかしすぎて言えない!
食事中は戦闘神に学を取られてしまったため、先回りして魔法で開錠して学の部屋に潜入したのだ。
ただ単にお喋りするために。
「……明日の」
「はい?」
「明日の対策。もう一度聞いておこうと思っただけよ」
「何だ、そういう事ですか」
嘘であった。学からもぎ取れる情報は昨日の内に全て聞き出してある。
しかしそれぐらいしか理由がないのだ。
「あんたが今日勝てたのは私の指導のおかげでもあるんだから。私にも協力するのが筋でしょ」
「はいはい……分かりましたよ。ちょっと待って下さいね」
そう言うと、学は部屋の高所に飾ってある像に手を合わせる。
「……それ何?」
「お祈りです。一日一回はこれをやっとかないと」
「炎神に?」
「いえ、僕の故郷の菩薩様です」
「菩薩? 何それ」
「えっと……」
学は菩薩様の事をリリィに説明しようと思ったが、10歳でこの世界に飛ばされてきた自分も良く理解していない事を思い出した。
要するに説明できない。馬鹿を晒す前に、この話題は打ち切った方が無難である。
「すいませんね、忘れて下さい」
「えー興味あるな。何でそれを毎日?」
「父に教わりました。菩薩様は救世主だから、祈り続ける事でいつか身を救ってくれると。それで何となく、毎日祈り続けて」
「あるのかねーそんなの」
「有るかは分からないけど、有って欲しいです」
リリィは像に近づいて、マジマジと見る。
顔が整っておらず、どういう表情をしているか分からない。笑っている様には見えた。
「これって」
「そう、僕が彫ったんですよ。記憶を頼りにね。そしたらよく分かんなくなっちゃいました。まぁ人の記憶なんてそんなもんですよ」
「縋りたかったのね」
「……ええ。縋りたかったんです」
この世界の神ではないが故に、菩薩様は神通力を与えてくれるわけではない。
それでも学は祈り続けた。菩薩様に縋るというより、日本にいた頃の習慣に縋っていた。
祈り続ける事で、何かが変わって欲しかったのだ。悪夢の様な現実から、元の日常に戻して欲しかった。
「納得できないから、祈り続けているのかな」
「え?」
「何で、父も母も死ななければならなかったのか。何で僕が……って……」
「ホー君?」
ベッドに腰かけていた学は、突然ぶっ倒れた。
無理もない話である。裂傷・擦過傷はともかく、槍の石突によるダメージは長く体に残る。
それがあの竜騎士の技であるならば、猶更疲れているはずだ。
「スゥ……ス……」
「そうだね。頑張ったもんね」
リリィはタオルケットをそっと学の体に被せ、自分も学と添い寝の形で横になる。
起こさない様に、学の頬の傷をそっとなぞり、寝顔を拝見する。
「可愛いなぁ、もう……」
学以上に疲れていたリリィは、そのまま寝落ちした。
***
森林に入った蒼は、辺りに立ち込める匂いを確認すると、歩を止める。
はしゅう、はしゅうと、断続的な呼吸音が近づいて来る。
魔獣である。数は4匹か、5匹……。
「これくらいが、丁度いいかな」
「ワウ~」
愛犬の毛並みを撫でると、蒼は怪我をしている左腕を庇う様にして、構える。
「それじゃ始めますか。早目のウォーミングアップを」
学を完封するための、蒼の特訓が始まった。




