35話 幕間1 白煙の消えたあと
◇◇◇◇
逃げ出せた。
宰相からサリュ王子が助けてくれた。
抱きしめられ、ほっとした。
彼の……サリュの広い胸。
がっしりとした腕。
その中に囲われて、ようやくシトエンは息ができた。
『俺の腕の中にいれば大丈夫』
サリュがいつも言う台詞。
ずっと聞き続けてきた言葉。
いつの間にかシトエンもそう思っていた。
彼のそばにいれば大丈夫。
だからだろう。
もう大丈夫だ。
安堵の息を漏らしたというのに。
「え……⁉」
それはつかの間だった。
当初、なにが起こったのかわからなかった。
サリュに背中の服をつかまれたかと思うと、床に放り出されたのだ。
ごん、と激しく額を床にぶつける。
いたるところで窓ガラスが割られる幾何学的な音が響いた。床に手をつき、シトエンは顔を上げる。
窓が割られ、出入り口が全開になったのだろう。
吸い込まれるように白煙が消えていく。
そのとき。
見知らぬ男を確かにシトエンは見た。
「だ……誰」
ぎゅっと身を縮めて呟く。男は嬉し気に笑って近づいてきた。
どうしよう、と床に尻をつけたままいざる。
ふわり、と自分にまとわりついていた白煙が消え、急速に視界がクリアになった。あわただしく走り回る団服の騎士たちが視界に入った。
「あー……時間切れかな。せっかく冬熊くんがいないのに」
男は残念そうに呟く。その男の目も、騎士たちの動きをとらえていた。
シトエンは素早く周囲に視線を走らせた。
自分がいる場所はすでに白煙がない。
逆に男は白煙のただなかにいて、子どものように手を振っていた。「バイバイ」と。
そして。
しゅるりと。
まだ濃く白煙の残る方に身体を滑らせ……。
そして消えた。
入れ替わるように。
濃い血の匂いがした。
「だ……団長!」
いつも冷静沈着なラウル。
そんな彼のあんな声をシトエンは初めて聞いた。
ラウルは前のめりになりながら走り、シトエンのすぐ後ろで転ぶようにして膝をつく。
びちゃり、と。
妙な水音のようなものを聞き、シトエンははじかれたように振り返る。
そこには。
サリュが倒れていた。
「団長、団長!」
ラウルが蒼白の顔で呼びかける。だがサリュの目は閉じられたまま。
一見。
ただ眠っているように見えた。
だが。
びちゃり、と。
ラウルが身じろぎすると水音がする。
「足……」
サリュの左太ももからはとめどなく血があふれて床を濡らしている。ラウルが目を覚まさせようと身体を揺さぶる。その動きに合わせて血が漏れていた。
「動かさないで!」
シトエンは叫んだ。
びくりとラウルが動きを止める。彼を押しのけるようにしてシトエンはサリュのわきに膝立ちになり、左足の傷口あたりを圧迫した。
「サリュ王子! サリュ王子!」
何度も名を呼ぶが瞼が震えることもなければ、開くこともない。
白煙はすっかり引いたというのに彼の顔は白い。
いつも溌溂としている顔にはなんの表情もなく、薄く開いた唇は照れたようにシトエンと名を呼んでくれることもない。
逞しい腕も足も。いまはだらりと、糸が切れた操り人形のように床に延びたまま。
傷を抑えるシトエンの手はどんどん濡れ、深紅に染まる。
(傷が圧迫できてない……)
シトエンは目を凝らすがそもそもが夜だ。
前世でいたような照明もライトもここにはない。
「団長! 団長……っ」
気づけば向かい側ではラウルがサリュの手を握って必死に呼びかけていた。
その隣ではレオニアス王太子が言葉をなくして座り込み、心配げにユリアがその背を撫でている。
「宰相を探せ! 賊を追え!」
アリオス王太子の怒鳴る声がする。モネとロゼから知らせを受けたのか、彼の護衛騎士たちが室内に入り、指示を受けて数人が走り出していた。
顔を巡らせると、荒れた室内には宰相がいない。それどころか拘束していた男もいない。
そしてあの謎の男も。
(逃げたの……?)
突如ぶわりと割れた窓から風が吹き、シトエンは目をすがめる。窓際にいたメイルの顔をカーテンがなぶった。
そのメイルと、目が合った。
純粋にほっとした。
メイルは無事だ。
よかったと胸をなでおろしたのだが。
シトエンはメイルの瞳を見て身体を硬直させた。
かわいそうに。
メイルは憐憫の瞳をシトエンに向けていた。
愛する人は、もうすぐ死ぬ。かわいそうなシトエン。
なんてかわいそうなひとなのかしら。
「アリオス王太子……っ」
メイルはてててて、と走り出し、アリオス王太子に抱きついた。
「大丈夫だ、メイル。すぐに賊は捕まえる」
「うん」
アリオス王太子に抱きしめられ、メイルは少しだけ顔の位置をずらした。
「アリオス王太子が無事でよかった」
にっこりと微笑むメイルを見て、シトエンは視線を彼女からもぎとった。
もうどうでもいい、あの娘のことなど。
そう自分自身の中で区切りをつける。
「大丈夫ですよ、サリュ王子」
シトエンは目を閉じたままのサリュにそっと話しかけた。
「わたしがあなたの命の火を守り通して見せますから」
しっかりと。
自分自身にも言い聞かせて決然とシトエンは顔を上げる。
「ラウル殿。……ラウル殿!」
「は……⁉ え……」
がつん、と殴られたようにラウルは身体を揺らし、呆けたようにシトエンを見つめる。
「そんな顔をしないで! サリュ王子はぜったいぜったいぜったいぜったいぜったいに大丈夫です!」
シトエンはさらにあと、5回「ぜったい」を繰り返した。
繰り返すたびに、ラウルの顔に生気が戻る。
「そりゃそうです! ティドロスの冬熊がこれぐらいで死ぬはずがない」
力強く断言するラウルにシトエンは微笑んで頷いた。




