2日目 居心地の良い沈黙
部屋に戻ると、セシルは真っ先に窓を開け放った。
大広間に充満していたざわめきや視線の重さを、少しでも追い払いたかった。
冷たい風が頬を撫で、ドレスの裾を揺らす。
「そこに座って」
セシルは椅子を指し示し、ウルガルドを座らせた。
「いえ、傷は浅いので大したことは――」
「浅いかどうかは私が判断するから」
多少語気を強めると、彼は素直に口を閉ざした。
手のひらに灯った淡い光が、ウルガルドの肩口を包み込んだ。滲んでいた血が収まり、熱が静まっていく。
「……治癒魔法、ですか」
「簡易的なもの。骨まで損傷していたら無理だけど、この程度なら問題ないよ」
ウルガルドは目を伏せ、静かに頷いた。
やがて光が消え、傷口は塞がっていた。
「お見事です」
「大げさだなぁ。本を読んで、試してみただけなのに」
「いえ……私には絶対にできないことです。グランの血統は魔法を扱えません。だからこそ、こうして誰かを癒せる力は、本当に尊いものです」
セシルは驚いたように彼を見つめ、それから小さく肩をすくめる。
「そんなこと、初めて言われたよ」
「そうなのですか?」
「だって、公務にも顔を出さない引きこもりだよ? 誰が褒めてくれるっていうんだ」
はああ、と嘆息してセシルは窮屈なドレスを脱いだ。
突然の行動にウルガルドは焦って壁を向く。彼女の姿を視界に入れないようにして、しばらくの沈黙の後。
「そうだ!」
いきなりの叫び声に、ウルガルドはそっと背後を見遣った。
そこにはすでに着替えを済ませたセシルが、鼻歌交じりに茶器を弄っている。
「さっきのお礼に面白いもの、見せてあげる」
「……面白いもの、ですか?」
「まあ、見ててよ」
そう言って、セシルは熱い茶を淹れてウルガルドの前へと置いた。白い湯気を立てているそれを、穴が開くほど見つめて……それからセシルの顔を見る。
「ええと、……普通のお茶ですか」
「淹れたてのおいしいお茶。このままでも美味しいんだけどね」
セシルはそれに片手をかざしてみせた。
空気がひやりと冷え、茶器の表面に白い霜が浮かぶ。
次の瞬間、湯気はすっと消え、茶の色はそのままに、器がじんわりと曇った。
「こうするともっと美味しいんだ。氷出しのお茶みたいで甘みがあって最高だよ」
セシルは何でもない顔で茶器を差し出す。
ウルガルドは半信半疑で受け取り、ひと口含んだ。瞬間、驚きで目を瞬かせる。
「今までで飲んだもので一番です」
「うん。茶葉が良いからね」
おどけて言ったセシルの態度にウルガルドは苦笑する。
ふと視線を逸らすと、ソファの上にセシルが読みかけにしていた本が置いてあった。
――『よくわかる魔法入門』
……もしかして、たった今目の前で見せてくれたあれこれは、すべて独学なのだろうか?
魔法に明るくないウルガルドでも、習得は容易ではないことなどすぐに分かった。剣術と同じだ。
自身の技術も弛まぬ鍛錬があったからこその賜物。もちろん才能という面もあるが、それを抜きにしても一朝一夕で成せるものではない。
「セシル様」
「な、なに?」
突然真剣な声音で話しかけてきたウルガルドに、セシルは当惑する。何を言われるのか。緊張の面持ちで待っていると、彼は思っても見ないことを告げた。
「部屋でだらだらと過ごしていたわけではないのですね。座学に励まれているとは、関心です」
「ウル……そんなこと思ってたの?」
「その、昨日の今日なので……私も貴女の事を理解出来ていなかったと――」
褒めているのか。貶しているのか。よく分からない賛辞をウルガルドはもごもごと口籠りながら伝えてきた。
この程度のことはいつも侍女に言われなれているから気にしてはいないが、よりによって婚約者もその気があるとは。
あの侍女とこの婚約者。二人に挟まれて小言を言われた日にはどんな思いをするか。想像して顔が青くなるセシルに構わず、ウルガルドはだから――と締めに入った。
「これからですね」
「これから……」
たった一言で、彼が何を言わんとしているか。セシルは理解できた。
それに笑みを浮かべて頷くと、ウルガルドは椅子を引いて立ち上がる。
「それでは、警護任務に戻らせてもらいます」
「えっ、もう? もう少しくらい」
粘ってみたが、ウルガルドは首を縦に振らなかった。
相変わらずの生真面目さにセシルは苦笑して、読みかけの本を手に取る。
開けた窓からは冷たい夜気が流れ込み、静かな沈黙が二人を包み込んだ。
それは気まずさではなく、少しだけ居心地の良い沈黙だった。




