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箕島校長の容態

 デパートの最上階にあるレストランで、紗奈恵と探偵部二人が向かい合っていた。白いテーブルの上にはコーヒーカップが3つ置かれているが、誰一人口をつけた者はいなかった。

「沢渕くん、さっきは驚いたわ。急に走り出すんだもの。一体何があったのよ?」

 叶美が説明を求めた。

 うつむいていた紗奈恵も、この時ばかりは沢渕の顔を見据えた。

 それには答えず、

「最近、身の回りで何か不審なことは起きていませんか?」

 と尋ねた。

「不審なこと、ですか?」

 白いワンピースの少女は、頬に手を当ててしばらく考えていたが、

「特に、思い当たりません」

「実は先程、あなたの後をつけてきた不審人物がいたのですよ」

「えっ、そうなの?」

 紗奈恵よりも先に叶美が驚きの声を上げた。

 探偵部の部長でありながら、まったく無警戒だったことが余程悔しかったと見える。

「背の高い黒いスーツを着た男ですよ。気がつきませんでしたか?」

 女子二人は、首を左右に振った。

「衆人環視の中であなたを襲うとは思いませんが、どうやら近づき様にハンドバッグを奪おうとしたようです」

 沢渕は当時の状況を思い出して言った。

 あの男は少し距離を置いて紗奈恵の背後を歩いていたが、ハンドバッグを肩から降ろした瞬間、突然彼女に突進するような素振りを見せた。そこでわざと騒ぎを大きくする目的で、人々を掻き分けるように近づいたのである。男は不意を突かれ、驚いたことだろう。これに懲りて、しばらく彼女に近づかなければいいのだが。

「どうしてこんなものを?」

 紗奈恵は膝の上に載せていた革のハンドバッグをテーブルに置いた。

「その中には、何か特別な物が入っていますか?」

「いいえ」

「おそらく高級そうなバッグだったので、奪おうとしたのでしょう」

 紗奈恵には心配させまいとしてそう言ったのだが、実際そうではないと分かっていた。

 あれは決して流しの犯行ではない。男の無駄のない動きからすると、おそらく訓練を受けている人物だろう。警備会社か探偵社か、そのような組織に属する者を思わせた。

 とすれば、金品を狙ったのではないことは明らかである。紗奈恵のハンドバッグに、彼らにとって何か重要な物が入っていると思って奪おうとしたのだ。つまり、この事件に関係する人物が、紗奈恵から探偵部に何らかの資料が手渡されると早とちりしたのである。すなわちあの人物は探偵部の存在に気づいているということだ。

「物騒な世の中ですから、お互い気をつけなければなりませんね」

 そう当たり障りのないことを言ってから、

「ところで、お話とは何でしょうか?」

 沢渕は本題に入った。

 紗奈恵は一度軽く咳払いをしてから、

「実は、勝手なお願いなのですが、探偵部のみなさんにこの事件から手を引いてもらいたいたいと思いまして」

 それは語尾が聞き取れないほど小さな声だった。

「どうしてまた?」

 叶美の方が声を被せた。

「こちらからお願いしておきながら、大変身勝手だとは思いますが…」

 叶美は戸惑いが隠せなかった。自然と沢渕の方に目を遣った。

「ひょっとすると、おじいさまの容態が悪いのですか?」

「はい。これまで三十年間ずっと植物状態でしたが、さすがにもう寿命とのことです。お医者様が言うには、せいぜいあとひと月しかもたないらしいです」

 二人は口を挟むことができず、紗奈恵のか細い声にただ耳を傾けるだけだった。

「もしかすると祖父が月ヶ瀬みなみさんの殺害に関与している可能性があるとお伺いしました。捜査が進んで、それが事実だと分かれば、祖父は卑劣な犯罪者なのですから、今までと同じように接することはできなくなってしまいます。それなら一層のこと、このまま何も分からずに、祖父が死んでしまった方がお互いに幸せかもしれない、そう考えたのです」

 紗奈恵はハンカチで涙を拭った。

「確かにその可能性は否定しませんが、僕にはあの厳格な箕島校長が児童を殺害して、校庭に死体を遺棄したとはとても信じられないのです。だからきちんと捜査をして、校長が犯人でないことを明らかにしたいのです。もし孫のあなたに疑念を向けられたまま、この世を去ることになったら、それはおじいさまにとって何よりの苦痛ではないでしょうか」

 紗奈恵は黙ってその言葉の意味を考えた。

「そうですね。沢渕さんの言う通りかもしれません。本当は私、祖父のことを信じたいのです。でも、真実を知るのが怖いのです」

「分かりました。何とか一ヶ月以内に事件を解決してみせます。おじいさまの前で三十年前の真実を明らかにすることをお約束します」

 沢渕は胸を張って言った。

「分かりました。では、先程の件は取り消します。どうか事件の解明をよろしくお願いします」

 紗奈恵の瞳から大粒の涙がこぼれた。

 それからしばらくの間、3人は何も喋らなかった。まるでそのテーブルだけ時が止まってしまったかのようだった。


 沢渕が突然、入口に向かって手を挙げた。

 叶美もつられて視線を向けると、なんとそこには柔道着姿の久万秋進士が立っていた。あまりにも場違いな雰囲気に周りの客がざわついている。彼は今、全ての人の視線を集めていた。

 柔道着はそんなことお構いなしに近づいてくる。

「悪い、悪い。待たせたな」

 巨漢がテーブルの前に立った。

 目が点になった叶美に、

「先程の一件で、すぐに連絡をして来てもらったのです。紗奈恵さんに危険が及ばないように、身辺警護を頼みました」

 クマは、そんなことよりも目の前の女性を早く紹介しろと言わんばかりに身体を揺すった。

「探偵部にも警護担当者がおりまして、武道をたしなむ久万秋進士さんです」

 白いワンピースの少女はすっと立ち上がると、深々とお辞儀をした。

「はじめまして。箕島紗奈恵と申します。どうぞよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしく。クマって呼んでください。あなたをお守りします」

 珍しく緊張した声。

「遠出をする際は、このクマ先輩に声を掛けてください」

「わざわざご丁寧にありがとうございます」

「では、クマ先輩とこの先のスケジュールを確認してください」

 沢渕はそう言って席を立った。叶美も続く。

「おい、お前たち。もう行ってしまうのか?」

 不安そうな声で二人を引き留めた。

 叶美が千円札を数枚こっそりと渡した。

「これは経費よ」

「悪いな」

 それから続けざまに、

「もう一枚」

 と大きな手を出した。

「仕方ないわねえ」

 そのやり取りを見て、紗奈恵はようやく笑顔を見せてくれた。

 歩き出した沢渕と叶美の背中で、

「カツカレー大盛り2つ」

 店内に大声が響いた。


 デパートを出て、二人は肩を並べて歩いていた。

「ねえ、あんな約束をして大丈夫なの?」

「何がですか?」

「ひと月のうちに事件を解決するって、大見得切ってたじゃない」

「仕方ありません。こちらが弱気なところを見せれば、彼女も事件に対して後ろ向きになってしまいそうでしたから」

「男子ってみんな、可愛い女の子の前では安請け合いしちゃうのよね」

 叶美は口を尖らせた。

「そんなことより、探偵部のメンバー全員に行動が監視されていないか確認してください」

「えっ、どういうこと?」

 部長は呑気な調子で言った。まだ探偵部の置かれた立場に気づいてないようだ。

「先程、紗奈恵さんが襲われそうになったのは偶然ではありません」

「ただのスリじゃなかったの?」

「箕島家から何か新たな証拠が探偵部に手渡されると思った連中が阻止しようとしたのです」

「それって、探偵部の存在がバレているってこと?」

「はい、そうです」

「どうして、そんなことに?」

「これは僕の推測ですが、フリーライターの鹿沼武義(たけよし)の差し金ですよ。直貴先輩によると、鹿沼は探偵部の存在に気がついているようですから、探偵を雇って周辺を調べてさせていたのかもしれません。おそらく箕島家も見張っているのだと思います」

「もしそうなら、我々も動きに気をつけないといけないわね」

「その通りです。今後の行動に注意するよう、メンバー全員に伝えてもらえますか?」

「分かったわ」

 そこからの部長の動きは迅速だった。

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