……5年後
◆……5年後
── 長きに渡る隣国との戦争が、敏腕な王太子の活躍でやっと終結し、和平が成ることが決まった。
そんな中、5年後のある日……アルト・トリオが傷だらけの満身創痍の体で帰ってきた。バス・トリオ伯爵似の美丈夫で綺麗な美形だった顔の左の額から顎にかけて引き連れた傷がついていて、5年前と同じように侯爵邸の門前で最初は不審者かと5年分年取ったオクテットやセバスチャンに追い払われそうになっていたところを、レガートリータが気付き、対応して驚愕した。
「オクテットさんもセバスチャンちゃんもすっかり頭、灰色や白く染めてしまって。お互い見間違えても仕方ないよ」
「あまりにもアルト坊ちゃんが精悍になりすぎたし、先ぶれがなかったものですからね。無礼者だと追い返されても文句は言えますまい」
アルトは、フェルマータはきっともうとっくに結婚しているだろう……と思い込んでいたらしく、諦めているような口調でレガートリータに話しかけてきた。
「約束通り生きて帰ってきたから……恨むのは……なしだぞ?」
レガートリータも執事同様、姉が自殺未遂迄したのだ、と最初は文句の1つでも言ってやろうかと身構えていたのに、アルトの顔の傷を認めた途端、精悍な顔に醜い傷跡を付けるような凄惨な体験をしてきたのだと理解して怒りをぶつけるのを飲み込んだ。
「アルト義兄さん? ……本当にアルト義兄さん! あ……お姉様を呼んできましょうか?」
アルトは遠目で庭を仲良さげに散歩している、トレモロリア侯爵夫人と、フェルマータと、フェルマータが抱いている赤子の瞳の色を見てしまい、一瞬絶望の表情を見せた気がしたが、すぐに苦笑してレガートリータに、否と伝えた。
「……そうか……俺が5年も離れている間に母娘の仲がいつの間にか改善したのか……それは新しい旦那のおかげかな?」
「アルト義兄さん? ……夫のおかげというなら、確かにそれはあるかもしれないけど……ねえ。本当にお姉様を呼ばなくてもいいの?」
「父母や弟妹たちも心配しているだろうから、早く帰って顔を見せてやりたいんだよ。それに……もしまた縁が会ったら……その内会えるだろう?」
レガートリータが急いでフェルマータを呼び寄せようとしていたのを制して、5年前みたいに……否、今度は生家に帰るためにアルトは戦場から帰還時に乗ってきた馬に、さっさと飛び乗って去った。
しかも今回も誤解して……
レガートリータは、フェルマータが婚約解消してアルトが戦地へ行ってから2年後の16歳になると、デュエット子爵家の15歳のデビュタントを済ませたばかりの令息、デクテット・デュエットと正式に婚約していた。
デクテットの方でも、姉のクインティナほどではないが、兵士から最近騎士団に編入したクインティナと違い、文官任用試験に挑戦の最中だったので、合格できたら婚約を許可してもいいと侯爵から条件を出され、奮闘して見事最年少の15歳で合格して見習いとして採用されることが決定し、やっと婚約を許可された。
もちろんデクテットは王立学校へ通常14歳から入学するところを、12歳で入学試験に合格した天才児だったため早期入学後、普通は4年で卒業するのを、首席と飛び級で2年後の14歳で早期卒業している。
王太子は王太子教育と並行しながらなので、通常の14歳で入学し、それでも生徒会長や首位をキープして飛び級で16歳で早期卒業している。デクテットはそれ以来の最年少卒業生として快挙を成し遂げていた。
レガートリータとデクテットの二人が婚約してから2年後、レガートリータが18歳、デクテットが17歳になった年に結婚した。
侯爵夫妻がフェルマータの様に嫁き遅れになる前にと心配したこともあるし、クインティナが自分も求婚されているが、弟の婚姻が決まったら婚約を受ける決心が付くかもと告げたため、子爵夫妻が諸手を挙げて婚儀を早めたためだ。
だからバリストンとクインティナも、デクテットとレガートリータの結婚を機会に婚約した。ただし、バリストンは辺境伯家で砦を守るためと、戦地への物資や医療の支援のため、クインティナは兵士から騎士に昇格したとはいえ、相変わらず後方勤務で物資の搬入の仕事などで忙しく、慌ただしい婚約だった。
さらに1年後、レガートリータが19歳、デクテットが18歳になった年に、可愛い娘であるノネット・デュエットと名付けられた、フェルマータとクインティナたちにとっての姪が生まれた。
アルトが戦地から故国へ戻ったその日は偶然、レガートリータが姉妹の父母のいる侯爵邸に可愛い娘を見せに里帰りしていた期間中だった。
フェルマータが姪のノネットを抱っこしていた現場に居合わせてしまったアルトは、瞳の色がデクテットと同じ琥珀色でもレガートリータと同じ緑色でもなく、隔世遺伝によりフェルマータやトレモロリア侯爵夫人と同じ瞳の色の碧眼だったことから、フェルマータが生んだ娘だと誤解してしまったのだ。
だからアルトは、侯爵夫人と並んで庭を散歩しているフェルマータ達を見て、自分が戦地へ行く前の5年前は母親と距離を置き、疎まれているような関係だったのが仲良く笑い合っている姿には安心したが、抱いている赤ん坊を見て、フェルマータの結婚した相手のおかげかと勘違いしたのだ。
『俺が5年も離れている間に母娘の仲がいつの間にか改善したのか……それは新しい旦那のおかげかな?』
『夫のおかげというなら、確かにそれはあるかもしれないけど』
それに対してレガートリータは、夫のデクテットのことを聞かれたのかと思って答えたつもりなのに、アルトはフェルマータの夫のことだと思い込んでいるのに気づかなかったのだ。……
戦地からなんとか生還したアルトの無事を喜んだトリオ伯爵夫妻や弟妹たちだったが、顔に怪我を負うほどの体験をするほど、上司や先輩や戦友たちの死で傷ついているらしいアルトを、休息させようと、暫くは好きに行動させていた。
それから約一か月後。
戦地から生還したり、遺品だけで帰還した騎士たちも全員故国に戻り、和平条約が完全に締結すると、終戦祝いとして王家主催の祭典が王城であると各貴族家に招待状が届いた。
男性不信のフェルマータも、顔の傷を気にしているアルトも参加しないわけにもいかず、当然二人とも会場で顔を合わせることになったが、お互い意識しているくせに遠目で知人たちや家族に囲まれながら声を掛けようとしなかった。
フェルマータは実に妹のデビュタント以来4年ぶりに社交場に出席し、一時期不穏で下卑た噂を流されていたが、それらはすっかりデマでありむしろ冤罪であることがわかり、多くは彼女に同情的か友好的であった。
一部は侯爵令嬢という地位や身分、既に21歳を過ぎているはずなのに、少しも経年劣化を思わせることなくむしろ磨き上げられた女性らしさと憂いを帯びた表情が敵対派閥の女性たちから敬遠されていたくらいだ。
逆に婚約者が決まらない男性や既婚者や男やもめたちから庇護欲を誘われたようで、彼女を狙って近づこうとした。
しかしそういう邪な欲望を抱いた輩が彼女に近づこうとすると、セプテット公爵夫妻や息子夫妻たち、カルテット侯爵夫妻、ソロン辺境伯夫妻やバリストン令息と婚約者のクインティナ令嬢、トリオ伯爵夫妻や息子のテノール、デュエット子爵夫妻や息子夫婦らが、入れ代わり立ち代わり彼女を取り囲んでは牽制して近づかせなかった。
顔の傷を気にしたアルトも、実は遠巻きに不埒な男を睨みつけていた。特に独身者の男性はアルトの視線を感じると、すごすごと尻尾を巻いて逃げ去るのだ。
(ああフェリ……5年も経ったのに君は以前と変わらず……いいや前以上にますます女性らしくなってしまって……ほらまた! そんな無防備に微笑むから不埒な男が近づいて!! ……
くっ!? 彼女を見つめていることがバレてしまった? いやいや一瞬だったはずだ。直ぐに他に目線を向けたからきっと気付かれていないはず……それに彼女は人妻なのに、それでも魅力的なんだな彼女は……)
逆に、精鋭騎士のアルトを見初めて令嬢が近づくが、彼の酷い傷のついた顔や冷ややかな瞳を見ると途端に怯え、びくびくしながら引き下がった。
一方、フェルマータもまたアルトの痛々しそうな傷がついた顔を見て、5年前の青年だった美丈夫が、憂いを帯びて益々余計に精悍で男らしい顔つきになったと新たに見惚れていた。
(ああアルト様……5年前と変わらず……いいえむしろ男らしく逞しく、なんてますます素敵になられたのかしら。周囲の女性たちがみなさんアルト様に見惚れていらっしゃるじゃありませんか。
そんなにじっと見つめたら返って……はっ!? 目が合ってしまったわ……どうしよう……未だ未練があるとか思われてしまったのでは……)
しかし死地に赴いてもいいくらい自分は嫌われたのだっけ……と5年前のことを今でも生々しく思い出すと、どうしても一歩が踏み出せなかった。
しかしフェルマータがアルトと婚約解消してから5年経った今でも、21歳になったフェルマータも、26歳になっていたアルトも、お互いに未だ結婚する兆候もなく、ましてや相手ができる気配もなかった。
フェルマータを守る家族や知人たち、アルトの視線にも怯まない強者が祝宴に出た彼女を見初めたらしく、求婚の打診をしてきたが、侯爵は吟味して断るか保留にした。
またアルトの方にも、傷があっても気にしないという猛者のような令嬢もいたが、彼自身は一生結婚できなくていい。いやむしろ一生誰も娶るつもりはないと、時には手紙で、しつこい令嬢には直接辛辣でことさらに冷たい態度で断った。
フェルマータは、父のダカーポ侯爵や執事のセバスチャンたちと一緒に、領地や事業の経営の仕事を覚えるのが楽しかったこともあるし、母親との仲が改善してから共に町に出かけて、ドレスを着せてもらったり買い物をしたり観劇に出かけたり、レース編みを通して懇意になった商人やデザイナーたちと一緒に、ドレスのデザインを考えるのが嬉しくて仕方がなかった。
ダカーポ侯爵の方でも、フェルマータには政略結婚ではなく恋愛結婚で娘の幸せを望み、婚約者に対しての接し方を厳しく制限していた謝罪を通して誤解がなくなった今は、娘の恋愛を自由にさせてあげたいと考えていたため、求婚者はことさら選別した。
嫁き遅れと言われるかもしれないが、本人が心から愛し尊敬し納得できる相手なら、どんな相手でも応援すると誓ったから、娘の自由にさせていた。
もしどこにも嫁ぎ先も貰い手も、また入り婿になる相手が見つからなくて侯爵家の後継問題をどうするか、どうなるかとなっても、兄のスタッカート公爵の次男か三男を養子に受ければいいとさえ考えていたから。
しかしこのままでは二人の仲が昔の様に戻れるのか。そうならなくとも二人とも新しい恋愛へ前向きに進めないだろうと、家族も知人たちも二人の事には胸を痛めた。
そこでフェルマータたちを心配していた者たちの内、バリストンとクインティナの二人が、騎士としての身分を利用してでもアルトに面会を申し入れた。
アルトのもとに訪問できることになった二人と、彼等に便乗した娘を連れたレガートリータが、各々で5年間の戦時中の話などを皮切りに、5年前にフェルマータとアルトの周囲で何が起こっていたのかを自分たちが覚えている範囲内でできるだけ詳しく子細を話した。
トレモロリア侯爵夫人が嫌がらせをしていたことや、メイドを断罪したこと、レガートリータ自身も嫌がらせをしていたことをアルトに謝罪しながら真実を打ち明けた。
さらに最近は女性騎士としての格好が板についてたクインティナ子爵令嬢が数年ぶりに男装をして、バリストン辺境伯令息が当時フェルマータに親友と従兄との仲を心配して仲介してくれた話をして、従兄とフェルマータとの関係についての誤解がなくなった。
「バリストン殿、クインティナ嬢、本当に誤解していて申し訳なかった。それにしても……俺より格好いい男ぶりだよな。見間違えても仕方ないと思わないか?」
「おいおい、文句を言うのはそこかよ。だが久しぶりにこんな格好の服着ると、気恥しい物があるな」
「可愛い従妹の元婚約者でも、そういつまでも見つめ続けられるのは不快だな。要件が終わったら、今後はオレの前でだけにしてほしいな」
「はいはい。バリスお従兄さまもティナ義姉さんもご馳走様」
「あーう」
「ははは……そこまで惚気られては、当時嫉妬していた俺は本当に馬鹿だったんだな。しかし二人とも男前で安心した。こんな素晴らしい親友と従兄殿がフェリ……フェルマータ嬢のそばにいるのだからな」
「男前と言われると変だが嫌な気はしないな」
「ティナはオレよりも男前だよ。そんなところに惚れたんだ」
「でもおかげで、アルト義兄さんに、誤解の1つが解けたようでよかったわね」
「たーい」
またレガートリータも自分の愚かな行為を告白した。レガートリータの娘であるノネットを連れてきているので、フェルマータの娘ではなかったのかと勘違いしていたことも判明した。
「まあ! アルト義兄さんはお姉様の娘だと疑ったの?」
「だーう?」
「おいおい、アルト殿。この顔つきを見てよ。どう見てもテットとレガートの特徴しかないだろう?」
「まあ髪の色と目の色だけ見たら確かに、相手はティナの家系だとわかっても、その伴侶がレガートかフェリか判別できなかったかもな」
「いやだって……5年も経ってるし、あんな美人のフェルマータが、既に20歳越えてるのに未だ独身だとは思えなくて……」
「まあいいですわ。お姉様が美人だと今も認めてるってことだけで許して差し上げますわね」
「あいあい」
さらに、レガートリータから、メイドがレガートリータの衣裳部屋に隠していたフェルマータの手紙の数々を渡された。
「お姉様の……当時アルト義兄さんに届かなかった手紙です。テノール君に頼んで渡してもらってもよかったのですが、アルト義兄さんがこの数か月、お姉様だけでなく実家の侯爵家の関係者も避けているようでしたし、アルト義兄さんの気持ちがわからなかったものですから。
でも祝宴で見たアルト義兄さんの様子を見て、もしかしてと思い……本来はお姉様から渡した方がよかったのかもしれませんが、余計なお世話だと思われても、どうしても一刻も早くアルト義兄さんに読んでほしかったのです」
「ぶーう」
「……フェルマータ嬢が? ……本当にあの時毎週こんなにも俺への手紙を……」
「全部読み切るのは当時の事を思い出して辛いことでしょうが、……気持ちの整理が付いたら、またいつでもわたしたちの誰かにご連絡下さい。
アルト義兄さんとお姉様の仲を裂くような行動をしたわたしが言うのもおこがましいですが、お二人に一歩を踏み出してもらいたいのです。
では……今日はこれで失礼します」
「ではまたな。アルト殿」
「またフェリを泣かさないことを望むよ。トリオ卿」
「たいたーい」──




