第74話 美味しさの正体
宿〈海辺の子ブタ亭〉の扉を開けると、
昼間とは違う、落ち着いた空気が流れていた。
「……ただいま……」
小さく呟き、部屋へ戻る。
装備はすでに預けてある。
身体も、心も、少し軽い。
ベッドに腰掛け、採取袋の中を整理していると──
ナナミは、ふと一つの小袋に視線を落とした。
淡く光を宿す、透明な結晶。
「……アストラル」
(なあに?)
「今から……」
「この《ミラージュ・コア》、使ってもいいかな?」
一瞬の間。
(いいけど……前は、すごく嫌がってたわよね)
「……うん」
ナナミは、少しだけ顔をしかめる。
「美味しくないし……正直、嫌だよ……」
「……でも」
小さく、拳を握る。
「魔力、増やせるなら……早いうちに、やっておきたいなって」
その言葉に──
アストラルの声が、ふっと柔らかくなった。
(……いい子ね、ナナミ)
「……!」
その一言だけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
(素晴らしい判断よ。それじゃあ、始めましょう)
(前と同じ。焦らなくていいわ)
「……うん」
* * *
《ミラージュ・コア》を砕き、水に溶かす。
覚悟を決めて、口に含む。
「……にが……っ」
(我慢よ)
「……うぅ……」
それでも、前よりは耐えられた。
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
(いいわ……今、その流れを整える)
(呼吸を意識して)
「……吸って……吐いて……」
魔力が、胸から四肢へと流れていく感覚。
痛みはない。
苦しさもない。
ただ、少しずつ──
自分の内側が、広がっていく。
(……上出来よ)
しばらくして、アストラルが告げた。
(今日は、ここまで。ちゃんと“力”になってるわ)
「……ほんと……?」
(ええ。よく頑張ったわ)
ナナミは、ほっと息を吐いた。
* * *
訓練を終え、階下の食堂へ向かう。
扉を開けた瞬間──
ふわりと、いつもより濃い香りが鼻をくすぐった。
「……?」
「あら、ナナミちゃん」
女主人のダイアンが、にこにこと声をかけてくる。
「今日はね、ちょっと珍しい食材が入ってるのよ」
「え……?」
ナナミの目が、きらりと輝く。
「なにかな……ワクワク……」
厨房では、スコットが黙々と作業していた。
やがて、皿が運ばれてくる。
いつもの焼きたてパン。
煮込み野菜のスープ。
そして──
白く、ぷりっとした魚の切り身。
バターが溶け、芳醇な香りが立ちのぼる。
「……」
スコットが、一言だけ言った。
「食べてくれ。自信作だ」
「……いただきます……!」
ナナミは、そっとフォークを入れる。
一口。
──ふわっ。
口の中に、やさしい甘みが広がった。
「……おいし……」
身は柔らかく、癖がない。
バターのコクが、魚の旨みを引き立てている。
パンをちぎって、一緒に食べる。
「……!」
二重に美味しい。
止まらない。
「……おいしい……!」
横から、ダイアンが満足そうに笑った。
「でしょ?」
「はい!」
「これ……なんの魚なんですか……?」
ダイアンは、あっさり答える。
「シェード・フィッシュよ」
「……え?」
「あまりお金にならないからねぇ」
「ダイヴァーさん、あんまり持ってきてくれないの」
その瞬間。
ナナミの脳裏に、今日のギルドがよぎる。
──三体分。
──銅貨五枚。
「……」
フォークを持ったまま、固まる。
「……えええええ~!?」
思わず、声が裏返った。
ダイアンとスコットが、きょとんとする中──
ナナミの顔は、じわじわ赤くなっていった。
(……今日、納品したやつ……!?)
美味しさの正体を知った夜は、
なんだか少しだけ、不思議で。
でも──
とても、あたたかかった。
──続く。




