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彼方の隣人  作者: 夏目羊
7/17

12/16・特別じゃないバラの花

 二週間まるっと引きこもるのは駄目だと言われたけど、土日に引きこもってはいけないと言われたわけじゃない。


「今日は海と山、どっちに行くの?」

「海ドライブだねぇ」


 父と母の趣味はアウトドア系のアクティビティ全般だ。だから、釣りやキャンプといった定番のものからジップラインやラフティング等、名前を聞いても正直ピンとこないようなアクティビティまで小さな頃から色んなことをやってきた。家でじっとするよりも外に出ることが好きな二人は、今日も外出するみたいでドライブに行くらしい。


「あさひは本当に行かない?」

「うん。昨日出かけたから、今日は家でのんびりする」

「そうかぁ」


 お父さんはがっくりと肩を落としてしまったけど、今日は予め外に出ないと決めていたのだ。「大変申し訳ないんだけど、明日は家で待機しててくれるかな」とは昨日の夜、周が私を家に送り、去り際に言った言葉である。


 昼より少し前に父と母は出かけていった。昼食は簡単に済ませて、リビングに移動。録画してたバラエティ番組を再生した。

 ふかふかした横長ソファーにお行儀悪く寝っ転がってクッションを抱きしめる。誰もいないから、今日は贅沢にソファーを占領できる。テレビの中では盛り上げ役の観客たちがスタジオを温めているけど、番組の内容はあまり頭に入ってこない。

 そして私は、いつのまにか寝ていたらしい。玄関のチャイムの音にハッとなって起き上がる。テレビはいつのまにか消えていて、ピンポーンという間延びしたチャイムの音だけが私の鼓膜を揺らしていた。

 何か夢を見ていたような気がするんだけど、思い出せない。いや、今はそれよりも。

 モニターを見ると、宅急便でも回覧板でもなかった。玄関まで向かって躊躇いなくドアを開ける。


「……寝てた?頬に跡ついてる」

 私の顔を確認して一言。幼馴染のその言葉に、私は頬を触りながら「まぁね。どうしたの?」と聞く。彼は少しだけ相好を崩した。

「ああ。この前借りた漫画を返しに来たのと、あと、おやつの時間だから」


 そう言って周は紙袋と箱を軽く掲げて見せた。漫画の入った紙袋と、近所のケーキ屋の箱。家に上がるのを断る理由は一つもない。漫画の入った紙袋は適当なところに置いてもらって、キッチンに誘導する。

 紅茶かコーヒーかどっちが良いかと聞くとコーヒーという答えが返って来たため、ドリッパーとフィルター、それからマグカップを用意する。一応コーヒーメーカーも家にあることはあるけど、二人分しか作らないから今日はこれで。

 周は勝手知ったる我が家の食器棚、といった感じでケーキを乗せる皿二枚とフォークを二本出してくれた。

 あまりこだわりが無いから、普通にポットのお湯でコーヒーをいれる。コーヒー豆が蒸れるのを待っている間、すぐ後ろでは周がケーキの取り出し作業をしている。開けられたケーキの箱の中身を覗き込んだ。そこには四つのケーキがぴたりと収まっている。


「父さんがチーズケーキで、母さんがオペラ。よく覚えてたね。ショートケーキとミルフィーユは私達の?」

「うん。あさひはどっちが良い?」

「うーん、どっちも好きだからなぁ。周はどっちが良い?」

「……じゃあ、ミルフィーユにしようかな」


 めずらしいこともあるんだな。この二つなら迷わずショートケーキを選ぶと思ったのに。普段はしないであろう周の選択に反応が遅れてしまった。「あさひ。コーヒー豆、もういいんじゃない?」という呼びかけで私はくるりと体を反転させてポットに向き合った。

 コーヒー二つにケーキ二個。別にダイニングテーブルで食べても良かったけど、テレビを見ようという話になったためリビングの方におやつを持って行く。


「何見るの?」

「これ」


 周は持ってきた紙袋の中にそれを入れてきたらしい。紙袋の中から一枚のディスクを取り出した。既製品のディスクではないらしい。手書きで記されているのは『小学二年・あのときの王子くん』という文字たち。懐かしい。うちの家では確かVHSでデータが残っているはずだ。データ移行しないとなぁ、と父がボヤいていたのを思い出す。

 小学二年生の頃に私達がやった劇はディスクのタイトル通り『あのときの王子くん』だ。こちらのタイトルだとあまり馴染みがないけど、いわゆる『星の王子さま』を下敷きにした劇である。


 私が通っていた真白辺小学校では、六年生を送る会という、三月に卒業する六年生を在校生一同で送る会を毎年行っていた。その会では、在校生は学年ごとに劇や歌を披露した。小学二年生のころ私達がやったのが『あのときの王子くん』の劇だった。

 一学年に約百人。生徒は全員参加。なるべくなら、全員にステージに立ってほしい。先生は随分頭を悩ませたに違いない。

 王子さまなんかは十人以上いたと思うし、セリフのあるキャラクター以外にもセリフもなにも無いバオバブの木の役の子だっていた。それでも役を与えられていない子は、リングベルやカスタネット、鍵盤ハーモニカ等の楽器を用いて音響関連を担当していた。

 私はバラの役を割り当てられていた。バラといっても王子さまの唯一であるバラではない。五千のバラのうちの一輪。ありふれた、特別ではないバラの役である。そんな私とは対照的に周は王子さま役を割り当てられていた。


 あのときはとても必死だったし、失敗なんて全く無かったように思っていたけど、今こうして客観的に見てみると全体的に拙い。なにしろ、小学二年生だ。そりゃそうだよなぁと、しみじみ思う。

 王子さまEの役柄の周がステージの上で無名のバラ達に何かを言っている。幼いけど、今よりもずっと平坦な声。混ざり物の全くない声。


「きみ達は、ぼくのバラじゃない」


 言われたバラ役の子達はみんな一様に悲しそうな顔をしている。みんながみんな悲しそうな顔をしているのだから、先生からそういった演技指導があったのかもしれない。小さな私も、そういう顔をしている。そして違和感。あれ、私、なんか忘れてる。でも何を忘れているのか、まったく分からない。


「思い出せそう?」


 隣に視線を寄越せば、男は優雅な動作でミルフィーユを切り崩している。層になっているパイ生地を丁寧に剥がして、刺して、口の中へ。それから砂糖もミルクも入っていないコーヒーを二口ほど飲んでこちらに視線を投げてきた。「わからない」と正直に答えれば、彼の表情は綻んだ。


「そっか。まぁ君のその記憶は奥深くの戸棚にしまわれているものだから」

「戸棚?」

「そうさ。その都度使わなければ、それは戸棚の奥深くにしまいこまれてしまって、取り出しづらくなる。その上、君のそれには鍵も掛かってるんだから厄介なこと、この上ない」


 二人並んだソファーの上、手を伸ばせば簡単に届く距離だ。それなのに、気がつかなかった。

 金糸の髪はやっぱり星を砕いて溶かしたような色彩で、少し眩しい。王子くんが絵本の中から飛び出してきたかのような姿形をしている。


「出たな2Pカラー」

 いつのまにか周じゃなくなってた。苦々しく思っていることなんてお見通しなのかもしれない。彼は私の顔を見て笑みを深めた。


「これも夢?二日連続で夢オチだなんて」

「物語としては良くないのかもしれないけど、これは君の人生だから」

「今回は何?」


 聞けば彼はやれやれ、と肩をすくめてみせた。なんだその欧米的動作。2Pカラーは「向こうがズルしてるから、こっちはこっちで手助けしてあげようと思って。全く、郷に入ったのなら郷に従えという言葉を彼らは知らないのかな?思った以上に君の記憶には強固なプロテクトがかかっているみたいだ」と答える。


「星川周は、君に隠し事をしている」

「隠し事は誰にでもあるし、それで良いんじゃ?」

「そんなこと言って、逃げちゃ駄目だよ」


 咎めるように笑顔を消した彼の顔にひやりとなる。心臓が嫌な音を立てた。やっぱり、お見通しなのか。


「星川周が隠しているもの。暴かれたくないもの。元々は君のものだったのに、彼が隠してしまったんだよ。君は取り戻さなきゃ。君のものはきちんと君が管理しなきゃならない。何より、それは彼のためにもなるんだから!」


 ほら、と言って彼は持ってたフォークでテレビを指した。お行儀が悪い。ぱちっとチャンネルが変わって、映っているのは小さい私と小さい2Pカラーの周だ。背景は、家の近くの公園。隣を見る。にこりと笑う隣の周モドキは答えを教えてくれるわけではないらしい。

 画面の中の小さな私は何か、旅のしおりのようなものを持っていた。どこかで見たことがある。そうだ、あれは旅のしおりじゃない。


「劇の台本だ」


 どこか遠くでガラス質の何かが割れるような音を聞いた。それから「それ以上は良くないな」という言葉。手のひらで目隠しをされる。思考がどんどんほどけていく。まともにものが考えられないけど、私の鼓膜はその音をキャッチした。二人分の、声がする。


「監督者、昨日もあさひの夢に入り込んだだろ」

「さぁ。なんのことやら?ボクは彼女のものを彼女に返そうと思っただけだよ」

 片方は剣呑な、尖った声。もう片方はふわふわと雲みたいな、つかみ所のない声。

「何のために」

「そりゃあ、君が隠そうとしてるから。まぁ嫌がらせかな」

「……」

「あはは、なにその顔」


 一体どんな表情をしているのだろう。ぼんやりする頭で目隠しをしている手を剥がそうとするけど「だめだよ」と制されてしまう。どんどん思考が覚束ないものになっていく。「さよなら、またね!」というふわふわした声が遠くに聞こえる。どうやら、ふわふわ声の持ち主は去って行ったようだ。だからここに残ったのは尖った声の持ち主と私だけ。

 尖った声の持ち主は声を幾分か柔らかなものにさせて囁いた。「これは夢。悪い夢だ」夢。夢だからコーヒーの匂いも美味しそうなケーキも全部本物じゃない。「そう、だから早く目覚めてよ」わかった、わかったよ。他ならぬ幼馴染の君が言うんだもんね。「うん」はいはい、今起きるから。

 だからそんな苦しそうな声、出さないでよ。

 それから一旦、思考は途切れる。



 ☆



 朝日の中、男女が寄り添っていた。テーブルを挟んで向こう側にある画面は暗転してエンドロールが流れ始める。

 二人で見始めた映画はいつのまにか終わっていた。どうやらまた私は寝ていたらしい。

 途中挟まる映像は主人公達のその後を映していた。中身をきちんと見ていないからよく分からないけど、確かジャンルはサスペンスホラーだったような。どんどん人が死んでいく感じの。だけれども、今流れている映像は未来を感じさせるエンディングに仕上がっていた。


「おはよう、あさひ」

「……おはよう」


 膝にはブランケットが掛かっていた。この場にこれを掛けてくれる存在は一人しかいない。寄りかかって眠りこけていた。左側に他人の体温を感じる。


「映画、面白かった?」

「どうだろう。思ったよりもスプラッタなシーンは無かったから、目を逸らさずに見られるだろうけど」


 巻き戻そうか、と周は聞くけどそんな気分にはならなかった。テレビの前にあるテーブルの上には皿が二枚、フォークが二本、マグが二つ。

 どちらもケーキは綺麗に食べてある。ケーキが乗っていた台紙とケーキの側面をぐるりと覆っていたプラスチックフィルムが皿の上に残っていた。私のコーヒーは全て飲み干されていて、周の砂糖とミルクが入ったコーヒーは半量ほど残っている。「夢は見たの?」と一言、穏やかな声で言う。


「どうかな。夢ってほら、忘れやすいものだから」

「昨日、電車では随分と夢見が悪そうだったよね」


 エンディングは流れ終わって液晶はチャプターを映し出している。周はリモコンでテレビの電源を落として、黒々とした画面にはぼんやりとした輪郭の私達が映った。


「周」

「うん」

「私に隠してること、たくさんある?」


 空気が少し、硬質なものに変わったような気がした。少しの沈黙を挟んで、やがて周は諦めたような声音で「あるよ」と呟いた。そして畳み掛けるように「たくさんある」と今度は苦しそうな声で言う。私は無言で隣にぐっと体重を掛けた。周はされるがままだ。

 彼を苦しませている原因を、私は知りたいと思っている。そして、出来ることなら取り除いてしまいたいとも思っている。例えそれを周が望んでいなくても。


 いつのまにか外は夕焼け色に染まりきっていて、カーテンを閉める時間になろうとしていた。誕生日まで、あと一週間とちょっと。どうせなら先程まで見ていた映画のようなハッピーエンドを迎えたかった。出来ることなら、二人で。隣人の体温を感じながら私は静かに目を閉じた。

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