12/14・僕の心臓をあげる
華の金曜日だ。今までどれだけ私が死にそうになっているのか周に尋ねると、周は絶妙にお茶を濁しつつ「日に一回はノルマっぽくなってるみたい」と答えた。体感としては生命の危機は爆走自転車事件以来訪れていない。けれども彼の言葉を鑑みるに、多分水面下では周が私を生命の危機とかいうものから私を守ってくれているのかもしれない。周は何も言わないから実際のところどうなのかは分からないけど。
結局登下校時に一緒に帰ること、それから周が場所を問わず私のことを下の名前で呼ぶようになったこと以外、学校生活で変わったことは起きなかった。平和が一番だから、これは喜ばしいことだ。
ちなみに私達の距離感はあまり変わってはいない。ほとんど今までと同じ距離を保っている。本物の彼氏彼女なわけではないし、多分私も周も彼氏だとか彼女だとかそういう意識が薄いのだと思う。それはそれで別に困ることなんて無いから良いけど。
昼休みにお弁当を食べていると、一緒に昼食をとっていたミヤちゃんが妙に真面目な顔で私を見つめてきた。保温性に優れたスープジャーに入れてもらったワカメと豆腐のお味噌汁のように熱々な視線だ。まぁ今のタイミングで私に聞きたいことっていうと、一つしかないだろうけど。
ミヤちゃんは言おうか言うまいか迷うような素振りを数秒見せて、箸で持っていた唐揚げをコンパクトなお弁当箱の中に戻した。
「ねー、水瀬。あんた最近幼馴染とすごく仲良い感じらしいけど付き合ってるの?」
やっぱりこの話題だ。秘密主義というわけではないけど、あまり言いふらしたいわけでもなかったから、ミヤちゃんにも誰にも付き合い始めたことは言っていなかった。ただ、聞かれたことにはきちんと答えようと決めていたから、平常心で口を動かす。
「ん。付き合い始めた」
「まじかー。いつから?」
「えっと、水曜日」
「今日金曜日……もっとはやく言ってよ」
「え、あ、ごめん。ていうかミヤちゃんそこまで驚いてないね」
ミヤちゃんはさっき食べようとしていた唐揚げではなく、お弁当箱にお行儀よく並んでいた玉子焼きをぱくりと口に入れ咀嚼して飲み込んだ。その間彼女はずっと半目で私を睨んでいたけど、もともと可愛らしい顔立ちのミヤちゃんに睨まれても全然まったく怖くない。
「だってあんたら、もともと一部からは二人で一セットみたいに思われてたし。きゃぴきゃぴしてないから、熟年夫婦みたいな扱いだけど」
「初耳なんだけど」
「二人でいるところを見てる人とかだと、結構そう思うみたいよ?実際そういう雰囲気出てるし」
そういう雰囲気ってなんだ……
なかなか掴むことのできないプチトマトを箸で追いかけながら考える。考えたけどやっぱり分からない。
「この時期によくやるよ。星川は推薦なの?」
「いや、詳しくは知らないけど多分一般で国立受けるんじゃないかな」
言えばミヤちゃんは露骨にイヤそうな顔になった。
「はぁ?受験舐めてんの?」
「あー、昔から頭良いからね。あんまり心配とか無いんじゃないかな」
私達が通っている高校——市立真白辺南高校はここらの地域では大学進学を志している大半の中学生が進学する高校だ。真白辺南高校以外だとここらには就職に強い市立の高校と部活動が盛んな私立の高校が一校ずつしかないため、卒業後に就職を希望していたりだとか高校生活は部活に力を入れたいと思っている中学生以外は大体真白辺南に入るのだ。
だから一応進学校と呼ばれているけど全国的な偏差値はそこそこ。ただ、高校の偏差値というのは上から下まで平均したものだ。当然のことであるけど、頭の良い人は勿論やっぱり頭が良い。私は理系の普通クラスであるFクラスに在籍しているけど、周は昔から頭が良かったから文系の選抜クラスのAクラスに在籍している。
多くの子達が一般で受験をしようとしているところ、私は推薦制度を使って早い段階で受験にケリをつけていた。そんな私とは対照的にミヤちゃんもこの学校の多くの生徒と同じく大学進学を希望していて、一般入試で進学を考えているらしい。ミヤちゃん的には入試前に彼氏やら彼女やら恋人やらで浮かれている人に何かしら思うことがあるみたいだ。彼女は決して軽くない溜め息を吐いた。
「……気持ちが沈む」
「……ミヤちゃん」
「だから話変えるわ!」
「ミヤちゃんの変わり身の早いところ、すごく潔くていいと思うよ」
ミヤちゃんの快活でさっぱりとした男前な態度は一緒にいてとても心が安らぐ。ミヤちゃんは爽やかに笑い、そして「ありがと!で、双方あんまりガツガツしたイメージ無いけどキスくらいはしたの?」なんて爆弾を至近距離で投下した。不意打ちとは卑怯なり!捕まりそうで捕まらなかったプチトマトが危うく弁当箱から華麗に跳躍してしまうところだった。
「い、いきなりなんてこと聞くの……」
「いや、二人とも全くイメージわかないから気になっちゃった」
「付き合い始めたばかりだし何もないよ」
「本当かな?」
「本当だよ」
手は繋いだ。ハグもした。でもそれはあくまで幼馴染の範囲を飛び越えない程度のものだった。と、思う。個人的に。それ以上はまぁ多分無い気がする。だって私達は別に互いが好きで付き合っているわけではないのだ。
あえて私達の関係を言葉で示せと言われれば、相利共生的な互恵関係にあると私は言うだろう。
やっと箸で掴めたプチトマトを口の中に放り込んで歯を突き立てる。皮の内側に収まっていたトマトの水分が口の中で、いきおいよく弾けた。弾けたトマトの汁はとてもとても甘かった。
☆
「最近付き合い始めたんだって?」
「うわ」
学校から帰ってきてコートを脱いでいたら夕飯の支度をしているのか、エプロンを身に付けた母さんがキッチンからひょっこり顔を出した。なんで知ってるの……なんてげっそりした顔をしているとカラカラと笑われた。まぁ、でも今までと違って毎日玄関まで周は迎えに来ているし送ってくれている。バレるのも時間の問題だったから仕方ないのかもしれない。
とかなんとか思っていたら「今日聞いて私ビックリしたのよ〜」なんて朗らかに笑う母。そういえば私が玄関に出るまで周と母さんは玄関で何やら雑談をしていた。そのときに周が申告したのかもしれない。
「今日ね、周君呼んでるから」
「え、なんで。聞いてないよ」
「サプライズよサプライズ!なんかねぇ、周君の家、二週間くらいご両親がいないらしいのね。だからしばらく夜ご飯だけでもウチにおいでって誘ったのよ」
「そうなんだ」
母さんはテンション高めに「もう!彼氏が家に来るのに、あさひったらテンション低い!」とぷりぷり怒るふりをしてキッチンに消えていった。仕草が完全に乙女だった。
ジャケットを脱いでカーディガンとスカート姿になる。玄関のチャイムが鳴って出て行くと、先程別れた周がコートを脱いでマフラーを外した状態で立っていた。詰襟くらい脱いできたら良かったのに。
「着替えなかったんだ」
「ああ、うん。あさひに早く会いたくて」
お前も乙女か。私の周りには乙女しかいないのか。微妙な気持ちになりながら周を家の中に招き入れる。晩御飯が出来るまで私達はソファーのあるリビングで待機することになった。
「テレビ観る?」
「さっきあさひが買っていた漫画が読んでみたい」
放課後、帰りに本屋に寄ってもらって、漫画の新刊を周の前で買った。繊細そうなタイトルにきらきらした絵柄。私が買ったのは少女漫画の新刊で、少し前から集めている漫画だった。
「読んだことあるの?」
周は首を横に振る。
「無い。だから一巻から読んでみたい」
「じゃあ取ってくるよ」
自室は二階にある。二階の自室から漫画本を持って一階のリビングに入ると丁度周がキッチンの方からマグカップを持ってくるところだった。
「これ、おばさんがココア作ってくれたんだ。食卓じゃなくて、ソファーのところのテーブルで良い?」
「うん、良いよ」
背の低いテーブルに二つのココアが置かれる。この家には何故か周専用のマグカップが置いてある。彩度の低い水色のマグと、これまた彩度の低い赤色のマグは二つ仲良く並んでいて、中身のココアがほわほわと湯気を立てている。
マグにはそれぞれ計七つの白い星がオリオン座の形であしらわれていた。遥か昔、と言っても数年前だけど誕生日兼クリスマスプレゼントとして周から貰ったものだ。赤色の方は私がいつも使っているけど、もう片方は父さんも母さんも使っていない。そのマグは周が我が家に来るときにしか使われていないのだ。しばらく目にしていなかったから、何だか不思議な気持ちになった。
「周がうちに上がるのって久しぶりだよね」
「そうだね」
「じゃあ座ろうか」
「うん」
うちのソファーは三人がけのものが一つ、どーんとリビングで構えている。だから自然の成り行きで私達は隣り合って座ることになった。腕を伸ばさなくても余裕で届く距離。周は私がテーブルの上に置いた漫画本を手に取った。新刊はあとでゆっくりお風呂あがりに読むと決めているから、私はリモコンを手にとって録画していたバラエティ番組を観ることにした。
ココアが程よい温度になったころ。隣から「あさひ」と呼び掛けられた。声だけで「なに」と返事をすると「これ」なんて言うものだから私はテレビの中で何やら面白いことをしていた芸人から目を離した。
「この場面のここ」
どうやら少女漫画のワンシーンが気になるみたいだ。骨格や皮膚、乗っている爪まですらりとした指先が、とある場面を指している。なんてことのないシーンだ。
「これ、何故この女子は男子の第二ボタン欲しがるの」
「……周って中学の卒業式のとき、ブレザーだったのに第二ボタン女の子にあげてなかったっけ?意味知らなかったの?」
「第二ボタン以外にも他のところのボタンとか……あとネクタイと徽章も譲ったから。ぼくの私物を欲しがった女子達は大体、以前ぼくに告白してきた子達で、意中の相手の持ち物を持ちたいという心理が働くんだろうと思ってた」
「それ、だいたい合ってるよ」
「第二ボタンである意味は?この主人公は第二ボタンにこだわっている」
出た。疑問の色オンリーの瞳。サンショウウオのように昔から変わらない、宇宙の瞳。きっと三千万年後も周は変わらず、疑問を目の前にしたときこんな目をしていそうだ。
「確か心臓に近いからだよ」
「心臓?」
「心臓ってつまり、ココロでしょ。多分あなたの心を得たいって意味合いがあるんじゃないかな」
「へぇ」
周は静かに「ヒトは面白いことを考えるよね。心はそんなところにないんじゃない?」と言って漫画本を閉じたかと思うと、おもむろに距離を縮めてきた。そして「あさひのブレザーの第二ボタンが欲しい」と、囁いた。周は宇宙人バレしてからいちいち距離が近い。簡単にソファーの隅に追いやられてしまう。
「やだよ」
「何故」
「普通私が貰う方でしょ。それにまだ学校あるんだから。ボタン無くなったら困るよ」
「じゃあ交換すればいい。なんならぼくのは本物でも良いよ」
「ほ、ほんもの……?」
「ぼくの体の中にある偽物の心臓。レプリカだけどちゃんと動くよ。ぼくにはあんまり必要ないし。出血大サービスってやつだ」
宇宙人的ジョークは私の趣味ではないらしい。笑えない。
「やだよ。しかも血ぃ通ってないのに大出血も何もないでしょ……それに、」
「それに?」
紛い物の心臓を貰ったって意味なんて無いでしょ。
言えば彼は私のことを観察するようにまじまじと見て「ときどき、あさひの方が宇宙人っぽいこと言うよね」なんてどう捉えていいのか分からないコメントを残してココアを飲んだ。だって心なんて、本物を貰わなきゃ意味がないじゃないか。
周は唇についたココアを舐めとるように、ぺろりと唇を舐めた。宇宙人の舌は健康的な赤色だった。彼はココアを飲むためマグに向けていた視線を滑らせる。向かう先はどこか遠く。私を見透かすような眼差しで彼は言う。
「あさひの考えだとさ。紛い物の心は、心じゃないんだね」
言葉だけ聞けば責めているようだし、悲しんでいるようでもある。けれども声音は驚くくらいに平坦だ。ただただ事実を述べているようで、感情の混ざらない声。
ハッとなる。私はもしかして酷いことを言ったのではないか。自覚と後悔が遅れてやってきた。彼に感情がなくても、酷いことを言ったことには変わりはない。明確に、私は失敗してしまった。
「周、ごめん」
「どうして」
悪いことは何も無いのだと言うような目。そんな目で私を見ないでほしい。
「とにかくごめん。私ひどいこと言った」
「泣かないで」
「泣かないよ」
確かに目は少し潤んでしまったけど、泣くほどじゃない。ここで泣くのは狡い。ギリギリ大丈夫。笑ってみせるとソレを見た無表情の周が自然な流れで近付いてきて、気付けばゼロ距離。宇宙人の唇は少ししか触れなかったけど、やっぱり人間と同じく柔らかいものだった。そして私のファーストキスはほんのりココアの味がした。
突然の恋人らしいスキンシップに赤面するより純粋な驚きが勝る。今、何が起こった?
「い、いきなり何?」
血の通っていない宇宙人の皮膚に余剰な赤みは見られない。何故、という気持ちが頭の中でぐるぐる巡る。周は悩んでいるような、そうでもないような微妙な顔をしている。
「今こうするのが適切だって判断したから」
「どういう……」
周はたっぷり数分は答えを出し渋ったあと「分からない」と自身の不可解な行動について何一つ分からないということを潔く認めた。
それ以上、二人とも何も言えなくなって、私達は何となく重いもったりとした雰囲気の中それぞれの作業に戻った。隣で読書を再開させた彼をチラ見すると、ちょうどヒーローが泣いているヒロインを慰めてキスをするシーンを開いていた。
ああ、なるほど。
「あのね周、少女漫画は参考にしないでね」
「なんで?」
「……だってキスって、適切だって判断してするものじゃないから」
今更心臓がドキドキしてきて思わず俯いてしまった。キスって言葉は口にすると案外恥ずかしい。そんな私の胸中を一切察しない彼はあまり抑揚のない声で私の鼓膜を震わせた。
「でも君の涙は引っ込んだ。ぼくは君が泣くとどうしていいのか分からなくなる。だから、唇を合わせて涙が出なくなるのなら……そっちの方が良い」
それ以上でもそれ以下でも無い言葉。彼の言葉を聞いていたら「あさひ、テーブルに料理運ぶの手伝って!」と母さんから呼びかけられた。料理が出来たらしい。父さんは今日遅いみたいだし周もいるから先に私達だけで夕飯を食べるのだろう。
周が先に席から立ってキッチンの方に向かう。慌てて私も彼に続く。表情は当然見えなかった。大きな背中だ。小さい頃は私の方が大きかったのに、高一のころ成長期が来た周は大差をつけて私の身長を抜いた。表情は見えないけど、多分、母さんに向けて見せるための笑みを浮かべているのだろう。
一応カップルな二人と、お母さんという存在を一緒の空間に同席させれば当然話題に上がるのはカップル二人の嬉し恥ずかしい交際に関した話題である。ミーハー気質が少しばかり強い私のお母さんは、私の口が外敵から身を守る二枚貝の如く開かないことを承知していたため、我が幼馴染が集中砲火に遭った。
どちらが告白したのか。いつから好きだったのか。今まで彼氏がいなかったあさひにもステキな彼氏が出来たのね。土日に出かけてきなさいよ。恥ずかしがり屋な娘だけどこれからもよろしくね。エトセトラ。
途中何度も耳を塞いでしまいそうになったけど、どうにか耐えた。苦行だった。隣に座っていた周は頬を染めてはいないけど、平生よりも幾分かはにかんだような表情で母さんの質問に答えた。それからご飯を食べ終えて少しお茶を飲み。
「おじさんにも会いたかったんですけど、そろそろお暇させていただきます」
「いいのよ。どうせ周君、また来るんだし?」
母さんは意味深な視線を私に寄越した。身内のこういったイジりほど居た堪れないものはない。背中に母さんの「またちゃんと明日も食べに来るのよ」という幼馴染に向けた言葉を受けながら彼の背中を押して玄関に誘導。ローファーを履いた周は小さく手を振った。
「じゃあ、また明日ね。おやすみ」
周はゆるやかに微笑んで私に背中を向ける。手を伸ばせば簡単に届く距離。でも、事実を知ってから周と私の距離は近いようで遠くなってしまったような、そんな気がしていた。あるいは、元からなのかもしれないけど。
「あまね」
思わず腕を掴んでしまった。周は首だけで振り返る。何?という表情で見られて少し狼狽えてしまったけど「ちょっと待ってて」と階段を駆け上がり自室へと駆け込んだ。手には学校指定のジャケットとハサミ。階段を降りて直ぐのところに玄関はある。周は私が持ってきたものについて僅かに驚いたような顔をした。
周の目の前に立って私の制服に縫いとめてあった金色の第二ボタンをちょきんと切り落とした。周はそれをキャッチして握り込む。そしてまじまじと校章入りの金ボタンを観察した。
「私の心臓をあげるから、周の金色の心臓もちょうだい」
掌を差し出して、それだけ言えば十分だった。ゆっくり顔を上げた周は宇宙の瞳にきらりとした星を瞬かせている。
「僕のものは、まがいものでも良いの?」
「いいよ。まがいものでも、それは確かに周のなんでしょ」
「意味がないって言ったのは、あさひなのに」
仕方がないような、それでいて少し嬉しそうな目をしていた。この宇宙人は人間のものと遜色ない表情を作るのが上手い。だからこそ周はまだ手を伸ばしても届かない距離にいる。
「じゃあ、交換だ」
静かに目を伏せて、周は私から裁縫バサミを受け取る。ちょきん。玄関にハサミの音だけが響いた。周は自身の心臓を切り取った。ある種の儀式のように、慎重に厳かに。
そして、ぽろりと重力に従い落ちていくソレを私は制服を持っていない方の手でキャッチした。先程私の制服から離れていった金色と同じような意匠のソレは静かに私の掌の中へと収まる。意味のないことかもしれない。でも、それでも良い。こうすることはきっと無駄じゃないと信じたかった。
貰ったボタンをぎゅうと握って周の顔を真っ直ぐ見る。
「ねぇ周、明日一緒に出かけようよ」
せめて指先だけでも届いて欲しいというこの感情は一体何なのだろう。




