第2話『アリッサさんの憂鬱』修正版
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帝国暦四百三十二年十月……クロノは書類の処理を止め、窓の方を見た。
青空が窓の外に広がっている。
「……空はこんなに青いのに、僕は今日も今日とて書類の整理」
クロノは頬杖を突き、暗澹たる気分で溜息を吐いた。
気分が沈んでいる理由は遊べないからではない。
もちろん、仕事上のトラブルが原因でもない。
領地経営は順調だ。
三年越しの農業改革が成功したばかりだ。
農村の村長達から畑を新しく開墾するという話も聞いている。
何でも、今までは脱穀の負担が大きくて畑を広げられなかったらしいのだが、それが『千歯扱き』のお陰で解決したとか。
カド伯爵領の開拓も順調、シルバ式立体塩田の設置も順調、『シナー貿易組合』も順調だ。
ちなみに『シナー貿易組合』から届いた配当金は金貨二千二百枚……これで利益の三割というから恐ろしい。
奴隷商人の仕事も順調……神聖アルゴ王国と交易が始まってからはミノタウルスの需要が伸びているそうだ。
傭兵ギルドも順調、代官所も順調、何もかも順調なのだが、クロノを悩ませる問題が一つだけある。
アリッサだ。
最近、アリッサの様子がおかしいのだ。
仕事中にボーッとしていたり、艶っぽい感じで溜息を吐いたり、目が合うと顔を真っ赤にして俯いたり、ちょっと手が触れただけなのに凄まじい勢いで離れたりと……まあ、こんな感じである。
「どうしたもんだろう?」
クロノは頬杖を突き、疑問を口にした。
答えはない。
クロノは一人きり、執務室で仕事をしているのだ。
「どうしたもんかな~」
クロノは天を仰いだ。
※
アリッサはスプーンでスープを掻き回す。
昼時の食堂は活気に満ちている。
かつての侯爵邸を知る身としては信じられないような光景だ。
前エラキス侯爵の時代は静かで、ギスギスした空気が漂っていた。
使用人同士の関係も悪かった。
前エラキス侯爵のお手付きとなった使用人の関係は特に悪かった。
アリッサは暗澹たる気分で溜息を吐いた。
仕事は順調だ。
メイド長とクロノ付きのメイドを兼任するようになってから負担は増えたが、半端な仕事はしていない。
雇用主であるクロノからも、部下からも一定以上の評価を受けていると思う。
けれど、母親としては些か自信がない。
もちろん、金銭的な不自由はアリスンにさせていない。
花売りの仕事は辞めさせたし、最低限の教養を身に付けられるように教育も受けさせている。
家だって引っ越した。
今のアリッサはそれだけ稼いでいるのだ。
その分、娘と過ごす時間は少なくなった。
そのことで責められたことはない。
アリスンは良い子だ。
元々、アリスンは良い子だったが、アリッサが仕事に復帰してから以前よりも良い子になった。
だが、アリッサの気分を落ち込ませているのは別件だった。
最近、クロノ様の様子がおかしいのだ。
アリッサが仕事中に視線を感じて振り向くと、クロノが物陰からアリッサを見ているのだ。
それだけではない。
クロノは偶然を装い、アリッサに触れてくる。
どうすれば? とアリッサは自問した。
アリッサの常識は夫でもない男性とそういう関係になるべきではない。
しかし、そういう選択もありなのではないかと感じてもいる。
アリッサはスープを掻き回すのを止め、視線を巡らせた。
食堂は活気に満ち、食堂を利用するメイドや事務員は楽しそうに笑っている。
この光景を作り出したクロノならば前エラキス侯爵のようにアリッサを捨てたりしないだろう。
もし、アリッサの身に何かあったとしても、クロノはアリスンを育ててくれるはずだ。
いけない。
浅ましい考えを捨てなければ、とアリッサは小さく頭を振った。
「ここ、空いてるかい?」
アリッサが顔を上げると、トレイを持った女将が対面に立っていた。
「ええ、空いてます」
「座らせて貰うよ」
そう言って、女将は席に着いた。
パンと少量のスープがトレイに載っていた。
「今から食事ですか?」
「ちょいと小腹が空いちまってね」
女将はパンを小さく千切り、口に運んだ。
アリッサも食事を再開する。
スープはすっかり冷めていた。
アリッサが食事を終えると、女将は口を開いた。
「悩み事でもあるのかい?」
「いえ、悩み事というほどでは」
「それにしちゃ、深刻そうな顔をしてたけどね」
女将は頬杖を突いた。
もしかしたら、小腹が空いたというのは口実でアリッサの様子を確かめに来たのかも知れない。
「……女将は」
女将は嫌そうな顔をした。
「どうかしましたか?」
「いや、アンタもあたしを女将って呼ぶんだね」
アリッサは記憶を漁ったが、女将が本名で呼ばれている場面を思い出せなかった。
「失礼しました、シェーラ」
「女将で良いよ、女将で」
「では、女将と」
女将は苦笑いを浮かべた。
どうしろと? とアリッサは心の中で突っ込んだ。
「それで、何かあったのかい?」
「……ここでは少し」
「そんな心配は要らないと思うけどね」
アリッサは視線を巡らせた。
メイドや事務員は姿を消し、食堂は静けさを取り戻していた。
どうやら、アリッサが物思いに耽っている間に皆、食事を終えたらしい。
「……旦那様が」
性的な目で私を見るのですが、とアリッサは言いかけ、すぐに思い直した。
たとえ、事実でも恩人であるクロノを貶めてはいけないと自制心が働いたのだ。
「女将は夫以外の男性と性的な関係を持つことに抵抗はないのですか?」
「喧嘩を売ってんのかい」
「いえ、女将がどのように考えているのか参考にしたいと思い」
う~ん、と女将は難しそうな表情で唸った。
「そりゃ、まあ、抵抗はあるさ。あたしは今でも死んだ旦那を愛してるからね」
「亡くなった夫を愛しているのならば、何故、旦那様と?」
女将の態度はクロノに対しても、亡くなった夫に対しても不義理過ぎるのではないだろうか。
それを自覚しているのか、女将はバツが悪そうに顔を背けた。
「あの時は……金貨百枚の借金があったし、実家を頼れないしでテンパってたんだよ」
「私の記憶が確かならば、借金の問題は女将が雇用された時点で解決していたと思うのですが?」
「どうでも良いことばかり覚えてるね」
女将は面白くなさそうに言った。
「……あたしは借金を返すためにクロノ様に近づいてね」
「誘惑した、の間違いでは?」
「一々細かいね、アンタは。そうだよ、あたしは借金を返すためにクロノ様を誘惑したんだよ」
女将は文句があるのかと言わんばかりの態度で腕を組んだ。
「女将は借金を返すために旦那様を誘惑し、関係を持ったと?」
「アンタ、自分の言ったことを忘れたのかい? 借金の問題はコックとして雇われた時点で解決したって言ったばかりじゃないか」
「……では、何故?」
借金の問題が解決したのであれば抱かれる理由もなくなるはずだ。
「ちょっとした事件があってね。その時、落ち込んでるクロノ様を慰めてやったんだよ」
「それにしては長く続いているようですが?」
「……なかなか突き放せなくてね」
女将はボヤくように言い、ハッとしたように顔を上げた。
「け、けど、あたしは旦那が一番だって言ってるんだよ?」
「それもどうかと思いますが」
アリッサは女将が悪女のように思えてきた。
「やっぱり、最初の一回が悪かったのかね?」
「ありがとうございました」
アリッサは頭を抱える女将を残して食堂を後にした。
※
カーン、カーンという槌を打つ音が侯爵邸の庭に響き渡る。
前エラキス侯爵の時代、庭はそれなり……不意の来客があっても恥ずかしくない程度の体裁が整えられていたが、クロノが領主になってからは最低限の手入れしかされなくなった。
そんな環境にも関わらず、ティリア皇女は庭で香茶を飲むことを好んでいる。
日課と言っても良いだろう。
ティリア皇女は足を組み、薄い本を読んでいた。
薄い本はクロノが書いたものだ。
比喩と皮肉、暴力に満ちた作風はクロノの部下にウケている。
シンプルな文体とストーリーも受ける理由だろう。
アリッサはティリア皇女の傍らで控える。
当然、自分から声を掛けるようなマネはしない。
メイドは空気のような存在であるべきだ。
ティリア皇女はテーブルに置かれた皿に手を伸ばし、ビスケットを摘まんだ。
女将が苦心して作ったビスケットはアリッサの部下からも好評だ。
ナッツやドライフルーツを使ったりとバリエーションも多い。
ただ、ビスケットに使われる砂糖は高級品だ。
レシピを教わっても、おいそれと手が出せない。
ティリア皇女はビスケットを頬張り、冷えた香茶を口にする。
砂糖の使われているビスケットは高級品で、メイドが香茶を冷やすために魔術を使ったりしているのだが……アリッサは考えないようにした。
随分、ティリア皇女は元気に……、とアリッサは内心首を傾げた。
ティリア皇女が意気消沈していたのは二、三日だったような気がする。
いえ、気のせいでしょう、とアリッサは自分の記憶を否定した。
ティリア皇女は第一皇位継承権を奪われたのだ。
きっと、出会ってから何日も落ち込んでいたはずだ。
落ち込んでいたに違いない。
旦那様の気持ちが通じたのでしょう、とアリッサは思うことにした。
クロノの献身がティリア皇女の心を癒したのだ、とも。
カップが空になる。
アリッサはティーポットを傾け、冷えた香茶をカップに注いだ。
ティリア皇女は満足そうな笑みを浮かべ、カップに手を伸ばす。
アリッサはティリア皇女の手首に縄の跡がついていることに気付いたが、あえて指摘しなかった。
今までも見て見ぬフリをしてきたので、今更という気もしますが、とアリッサは空を見上げた。
アリッサはティリア皇女付きのメイドだったのだ。
ティリア皇女がクロノにどんな扱いを受けているのか分かっている。
そして、今のアリッサはクロノ付きのメイドだ。
クロノが夜伽で何をしているのか把握している。
クロノは善人である。
部下や民を思いやる心を持ち、貧民や娼婦、奴隷にさえも救いの手を差し伸べる人間だ。
だが、それだけの人間ではない。
アリッサは戦場を知らないが、部下から聞いたクロノの武勇伝はクロノが単なる善人ではないことを示している。
クロノは凶暴さも備えていると考えるべきだろう。
もし、旦那様が凶暴性を露わにしたら……、とアリッサは胸に疼痛を覚えた。
恐ろしいと思う。
何をされるのか。
どんな風に蹂躙されてしまうのか。
アリッサはあまりの恐ろしさに身を強張らせた。
「……アリッサ」
「っ! はい、ティリア皇女」
アリッサは息を呑んだ。
いつの間にか、ティリア皇女はアリッサの方を向き、不思議そうに首を傾げていた。
「アリッサ、何をうっとりしているんだ?」
「うっとりですか?」
アリッサは思いも寄らぬ言葉に頬を押さえた。
自分がどんな表情を浮かべているのか手で触れても分からない。
強いて言えば少し熱っぽいだろうか。
「うむ、何か楽しいことでも考えていたのか?」
「いえ、何も」
興味を失ったのか、ティリア皇女はテーブルに向かい、本を読み始めた。
※
「お母さん、お帰りなさい!」
「ただいま、アリスン」
アリッサが家の扉を開けると、アリスンが飛びついてきた。
ご近所に迷惑を掛けないでしょうか? とアリッサは考えたが、何も言わずにアリスンを抱き締めた。
「えへへ、お母さん。ご飯の準備できてるよ」
アリスンは照れ臭そうにアリッサから離れた。
アリスンは今年で十三になる。
少し幼い所もあるが、親に甘えることを恥ずかしくも感じているようだ。
「いつもごめんなさいね」
「それは言わない約束だよ」
アリッサはリビングのイスに座り、見慣れない壺があることに気付いた。
壺と言っても手の平に乗せられるサイズだ。
「あ、それは犬の兵隊さんが持ってきてくれたの。あとで食べようね」
「?」
アリッサが壺を開けると、飴がいくつも入っていた。
犬の兵隊さんがシロとハイイロを示していることは分かる。
シロとハイイロは何かとアリスンを気に掛けてくれている。
二人とも非番の日にまでアリスンの面倒を見てくれるのだ。
シロとハイイロの給与で高価な飴を買えるだろうか。
アリッサはすぐにクロノを思い浮かべた。
だが、シロとハイイロがクロノの命令でアリスンの面倒を見ていることはないだろう。
クロノは非番の部下に負担を強いるようなマネをしない。
多分、クロノはシロとハイイロが非番の日にアリスンと会っていることを知り、飴を渡すように頼んだのだろう。
「アリスン、旦那様と……」
「お兄ちゃんのこと? お兄ちゃんとは時々、会うよ」
アリスンはキッチンから出てくると、テーブルにパンとスープを置いた。
アリッサは身を乗り出した。
「いつ?」
「だから、時々だよ。一週間に一回会うかどうかくらい。けど、休みの日も街の視察をするなんて、お兄ちゃんは働き者だね」
アリスンはイスに座り、恋する乙女のような目で言った。
クロノはアリスンにとっても恩人なのだから、自然な流れだろう。
「会った時、どんなことをしているんですか?」
「それ、娘に対する言葉遣いじゃないよ」
アリスンは呆れたように言った。
「ん~、お兄ちゃんとは露店を歩いたり、裏路地に行ったり……あと、友達と一緒に遊んだりもするよ」
何が楽しいのか、アリスンはプッと噴き出した。
「お兄ちゃんは領主なのに誰にも気付いて貰えないんだよ」
「……ああ、それは」
クロノは街を視察する時、平民と変わらない服を着ている。
だから、誰も気付かないのだろう。
「お兄ちゃん、可愛いよね」
「……可愛い?」
アリッサは問い返した。
アリッサだって、クロノが可愛いと思うことはあるが、自分の娘がクロノを可愛いと言うことに違和感を覚える。
「お兄ちゃんはすごい人なのにすごくないんだもん。ほら、お兄ちゃんは……」
アリスンはクロノの凄さを語ったが、アリッサは娘の言葉の十分の一も理解できなかった。
アリッサは愕然とした。
アリスンは私塾に通っている。
せめて、最低限の教養を身に付けさせようという親心だったが、アリッサの理解を超える教養を身に付けるとは思わなかったのだ。
ええ、そうですね、とアリッサは返すだけで精一杯だった。
「あと、お兄ちゃんとは将来のことも話すよ」
「貴方は、何をしたいんですか?」
「お母さん、それも娘に対する言葉遣いじゃないよ」
アリスンは不満そうに言って、押し黙った。
「お兄ちゃんの役に立ちたいと思ってる。えっと、メイドとか、兵士としてじゃなくて、もっと、別の方法で」
「……それは」
アリッサは真っ先にエレナを思い浮かべた。
メイドや兵士以外の方法でクロノの役に立つためには学がいる。
もちろん、コネもだ。
最低限の教養を修める。
それくらいならばアリッサにも何とかできる。
だが、それ以上となると難しい。
「……ごめん、無理だよね」
「いえ、大丈夫です」
「何度も言うけど、それは娘に対する言葉遣いじゃないよ」
アリスンは呆れたように言った。
※
アリッサは明かりを消し、ベッドに横たわった。
安請け合いをしてしまったが、アリスンを自由都市国家群、もしくは帝都で勉強させるのは難しいと言わざるを得ない。
アリッサの月給は金貨二枚と銀貨十枚だ。
蓄えはそれなりにあるが、年単位で娘を支え続けるのは不可能だ。
旦那様に借金を申し出るしか……けれど、何の担保もなしにお金を貸してくれるでしょうか? とアリッサは横を向き、丸くなった。
アリッサとクロノの間にあるのは雇用関係と二年余りで培った信用だけだ。
信用を担保に借金をする。
それはあまりにも都合の良い考えのように思えた。
「あたしは借金を返すためにクロノ様を誘惑したんだよ」
アリッサは女将の言葉を思い出し、下腹部を押さえた。
クロノがそういう人でないのは分かっている。
だが、アリッサがクロノとそういう関係を結べば、信用を担保に借金をするという考えが現実味を帯びる。
私の体にそれほどの価値があるものでしょうか? とアリッサは下腹部を撫でた。
アリッサの体は前エラキス侯爵に汚され、無理な堕胎が祟って壊れている。
多分、心も。
※
アリッサは欠伸を噛み殺しながら、侯爵邸の廊下を歩く。
娘のために覚悟を決めたつもりだったが、昨夜は眠りが浅かった。
三度、いや、四度、目を覚ました。
どうやら、自分で思うほど覚悟を決められていなかったようだ。
アリッサは階段を登ろうとした所でセシリーと鉢合わせになった。
セシリーはギョッと目を剥き、取り繕うように咳払いをした。
「旦那様は、どちらに」
「あの男でしたら、ベッドで惰眠を貪っているのではなくて?」
セシリーは自分の口臭を気にしているかのように口を押さえながら言った。
まあ、気持ちは分からなくもない。
「旦那様は、今日は休みでしたね?」
「知りませんわ」
セシリーはプイッと顔を背け、何処かに行ってしまった。
セシリーはアリッサが非番だと気付かなかったようだ。
アリッサがクロノの部屋に入ると、クロノは着替えの最中だった。
旦那様は戦士……戦う者になったのですね、とアリッサはうっとりとクロノを見つめた。
クロノの体は引き締まっていた。
ただ、身長は平均の域をでないし、筋肉も付いているように見えない。
だが、そこに刻まれた無数の傷は恵まれた体躯を持たぬ者が戦場を駆けたことを物語っていた。
「……いやん」
クロノは上着を着終えると、変なことを言って体をくねらせた。
クロノは気まずそうにイスに座った。
「アリッサ、今日は休みじゃなかった?」
「……旦那様にお願いがあって参りました」
「昨夜来たのもお願いのせい?」
アリッサは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
見れば、クロノは小さな物を弄んでいた。
それはボタンだった。
アリッサは服の袖を見つめた。
そこにあるはずのボタンがなかった。
「旦那様にお願いがございます」
アリッサはクロノに歩み寄り、クロノの手に触れた。
怖い、と思う。
肉塊と血で染まった床がアリッサの脳裏を掠める。
「アリッサは旦那様のご寵愛を頂きたく存じます」
「それは、アリスンのために?」
アリッサは息を呑んだ。
クロノは面倒臭そうに頬杖を突いた。
「アリスンが僕の役に立つために勉強をしたがっているのは知ってるよ」
「……私は母親として」
「その件は解決済みなんだよね」
アリッサは驚きのあまり目を見開いた。
「奨学金……学校制度がきちんと確立されてない状態だから、一定以上の富裕層が対象になっちゃうんだけどさ」
「アリスンが、奨学金の対象になるとは」
「新しい知識を持ち帰らせることが目的だから、飛び抜けて優秀じゃなくても構わないんだよ。まあ、優秀に越したことはないけどね」
アリスンの夢が叶う。
話はこれで終わりだ。
アリッサが自分の体を担保にクロノから借金をする必要はなくなった。
アリッサはメイド服のエプロンを握り締めた。
「アリッサは理由を探しているように見えるよ」
「娘の夢を叶えるためです。多少、懐疑的になるのは当然では?」
クロノは亀裂のような笑みを浮かべた。
「抱かれる理由を探しているんじゃなくて?」
「私は、娘のために行動しているだけです」
「そう?」
クロノはアリッサから手を離した。
「今日、僕はお休みなんだよね」
「……」
「奨学金については心配しなくて良いよ。アリスンとは付き合いが長いからね。アリスンが母親を見捨ててまで留学先に残るとは考えてない」
それでも、とアリッサは思う。
「今日、僕はお休みなんだよね。けど、アリッサのために働くのも仕方がないかなと思ってるよ」
クロノはゆっくりと立ち上がり、
「……女将の店で待ってる」
アリッサの肩を叩いて部屋から出て行った。
※
旦那様はアリスンの望みを叶えて下さる、とアリッサは女将の店を目指す。
服は着替えた。
今、アリッサが着ているのは着慣れたメイド服ではなく、地味めのワンピースだ。
娘のために、とアリッサは頭を振った。
クロノは約束を破らない。
そういう人だ。
だから、アリッサの行動は意味がない。
思考は熱に浮かされたように胡乱だ。
アリッサは倒れ込むように女将の店……今はクロノの元部下が借り受けて食堂兼連れ込み宿を経営している……に足を踏み入れた。
幸い、客はいなかった。
クロノ様は左端の部屋でお待ちだ、とエルフの店主は野菜を切りながら、言った。
アリッサは階段を登り、左端の部屋に向かう。
これは正しい選択なのでしょうか? とアリッサはそこで立ち止まる。
ギシッ、と階段の軋む音が聞こえた。
もし、知り合いに見られたら……、とアリッサは部屋に飛び込み、勢いよく扉を閉めた。
「……あ、来ちゃうんだ」
クロノはベッドの上で胡座を掻き、意外そうに言った。
「旦那様が来いと仰ったからです」
「待ってると言っただけで、来いとは言ってないよ?」
クロノは胡座を掻いたまま、体を前後に揺らした。
安物のベッドはそれだけでギシギシと軋んだ。
「アリッサの望みは何?」
「娘の夢を叶えることです」
「本当に?」
クロノは嘲るような笑みを浮かべた。
その日、アリッサは自身の望みを知った。




