第4話『傭兵ギルド』
※
ケインは桟橋の近くに立ち、目を細めた。
一隻の船が桟橋に停泊している。
ケインの記憶にある船の帆は四角形だが、その船の帆は三角形だ。
俺の記憶が間違っているのか? とケインは首を傾げた。
だが、ケインはすぐに悩むほどのことじゃないと結論づけた。
悩むとしたら、これからだ。
ケインは甲板に立つ傭兵ギルドの長、シフの動向を注意深く見守る。
ケインは剣の柄に手を伸ばした。
以前、ケインはクロノの足手まといになるくらいならば首を掻き切る覚悟があるとシフに啖呵を切ったが、自分から死を選ぶのと、無抵抗で斬られるのは違う。
まあ、このタイミングで斬りかかってくるようなことはないだろう。
シフは何度も侯爵邸に足を運び、クロノと対話を重ねているのだ。
シフが抱えている仕事を思えばクロノとの対話は相当な負担だったはずだ。
それでも、シフは代役を立てなかった。
それだけシフは今回の仕事を重要視しているのだろう。
「あら、緊張してるの?」
「……多少は、な」
ケインはいつの間にか隣に立っていたエレインを睨んだ。
今日のエレインは露出度の高い格好をしている。
エレインが着ているのはワンピース……いや、ドレスだろうか。
いやいや、布という線も捨てきれない。
まず、袖がない。
背中から伸びた二本の布が豊かな胸を隠している。
布は体に密着しているので、誰かが斜め後ろに立っていても覗き見ることはできない。
スカート部分の丈も短い。
これだけ短いのならばスカート部分は必要ないんじゃないかと思うほどだ。
ケインはシフの出迎えを終えたら、エレインよりも早く階段を登り、代官所に戻ることを決意した。
「それにしても、野次馬連中はどうにかならねーのか?」
「無理でしょ」
ケインはうんざりした気分で視線を巡らせた。
大勢の見物人が港の一角を取り囲んでいる。
その内の何割かはシフと傭兵ではなく、エレインを見ているようだが。
まあ、エレインを見ている連中の気持ちも分からなくはない。
エレインは魅力的な女だ。
立ち居振る舞い一つ取っても洗練されている。
これくらい住む世界の違う女だと気後れしそうなものだが、逆に獣欲を滾らせるヤツもいるようだ。
「気になる?」
「お前がここにいる理由が、な」
ケインは悪戯っぽく尋ねるエレインに平然と答えた。
「あの子とシフの橋渡しをしたのは私で、あの船は……一応、私が経営している『組合』の船よ」
クロノはエレインからシフを紹介されたと言っていたような気もするが、何しろ、数ヶ月前のことだ。
「俺の隣にいる理由は?」
「私が貴方と懇意にしているとアピールするためよ。決まってるじゃない」
ケインは鼻で息を吐き、肩越しに背後を見た。
粗末な机がやや離れた場所に置かれている。
ここでウェスタが傭兵の名前を確認し、ロナはクロノが発行した許可証を渡す手はずになっている。
ウェスタはケインの視線に気づくと、はにかむような笑みを浮かべた。
ロナは困ったように眉根を寄せ、ぎくりと体を強張らせた。
ケインが反射的に船を見ると、シフが船から降りる所だった。
二十人程度の男達がシフに付き従っている。
ロナが体を強張らせるのも無理ない。
男達は傭兵ギルドの最精鋭……ギルドの下位にランクしていたロナにしてみれば雲上人なのだから。
その雲上人……実際には事務方もいるのだが……を今日だけで百人余り受け入れる。
この百人余りが問題を起こさなければ更に百人追加、一定期間問題を起こさなければ、親族を呼ぶ許可を出すことになっている。
どうして、ガキが混じってるんだ? とケインは屈強な男達の中に子どもを発見し、首を傾げた。
年齢は十五くらいだろう。
船旅のせいか、最初から整えるつもりがないのか、ブラウンの髪はボサボサだ。
肌は浅黒い。
体はよく鍛えられている。
ただ、線が細い。
真っ正面から殴り合うような戦闘には向かないだろう。
顔立ちは……そういう目的で連れてきたんじゃないだろうな、と勘ぐってしまいそうになるほど整っている。
シフはケインの攻撃が届くか、届かないかの距離で歩みを止めた。
「……どうすれば良い?」
「事前に渡された名簿と身分証明書を照会して、それから、許可証を渡す感じだな」
傭兵ギルドが用意した名簿と身分証明書を照会しても不備はねーだろ、とケインは感じたが、口には出さない。
「その許可証はどれくらい役に立つ?」
「魔除けの刺青よりかは役に立つんじゃねーか。何しろ、ブラッド・ハマルの署名もあるからな」
ハマル子爵家はそれなりに歴史のある貴族で、当主のブラッドは第五近衛騎士団の団長だ。
他の貴族もブラッドの署名を見ればそれなりの対応をしてくれるはずだ。
「さて、さっさと手続きを済ませちまおうぜ」
「分かった」
ケインはウェスタの隣に立ち、手続きの様子を見守った。
トラブルが起きるんじゃないかと心配だったが、杞憂に終わった。
そうこうしている内に子どもの順番がやって来た。
子ども……傭兵ギルドの身分証明書によればクアントという名前らしい……は許可証を受け取ると、ケインを上目遣いに睨んだ。
クアントの目付きは友好的とは言えない。
強いて言えばエレナがケインを見る時の目付きに似ている。
無理もねーな、とケインは思う。
ケインは傭兵ギルドの裏切り者だ。
そんなことをケインが考えていると、足に痛みが走った。
クアントがケインの足を踏んだのだ。
いや、踏みにじったと言うべきだろうか。
クアントは笑みを浮かべていた。
それも満面の笑みではなく、暗い笑みである。
ケインは溜息を吐き、腕を振り上げた。
クアントは後退り、背後にいた男に激突した。
ケインが首筋を掻くと、クアントは顔を真っ赤にして俯いた。
クアントはロナから許可証を受け取り、街の方に走り出した。
「子どもの扱いが上手いのね?」
「俺は首を掻いただけだぜ」
エレインはくすくすと忍び笑いを漏らした。
※
ケインは一日の仕事を終え、通信用マジック・アイテムの前に立つ。
まあ、一日の仕事を終えたと言っても、ケインは大したことをしていない。
ケインがしたことと言えば、ウェスタとロナの仕事を監督し、トラブルが起きていないか街を巡回したくらいだ。
「……つー感じだな」
ケインはクロノに報告を終え、コップを口元に運んだ。
『傭兵ギルドの受け入れに関するトラブルはなかったんだね?』
「あ? ああ、トラブルらしいトラブルはなかったぜ」
ケインは首を傾げた。
報告を終えたばかりなのだ。
当然、傭兵ギルドの受け入れについても報告している。
まあ、クアントに足を踏まれたことについては報告していないが。
『まあ、トラブルが起きてないなら、それで良いんだけど』
クロノは奥歯に物が挟まったような言い方をした。
わざわざ指摘しているのだから、クロノはケインがクアントに足を踏まれたことを把握しているのだろう。
誰かが俺よりも先に報告してたってことか? とケインは真っ先にエレインを思い浮かべたが、時間的なことを考えれば代官所で働いている誰かだろう。
『ケイン、今日もお疲れ様』
「ああ、お疲れ」
ケインは通信用マジックアイテムに厚手の布を被せた。
まあ、厚手の布を被せても音を完全に遮ることはできないのだが。
※
翌日、ケインは代官所の二階で頬杖を突いていた。
今日は良い天気だ。
こんな日は馬に乗って街道を走れば、気分がスカッとするだろう。
だが、ケインは代官所を留守にする訳にはいかないのだ。
「暇だな」
「暇ですね」
「そうですね」
ケインが呟くと、ウェスタとロナは同意した。
この分だと、下で受付をしているメアリーとケイトも同意見だろう。
代官所の主な仕事は傭兵ギルドと商人の契約に立ち会うことだ。
契約がなければ代官所の仕事もない。
午前中、ロナとウェスタは掃除をして時間を潰していたが、掃除し尽くした感がある。
「……こういう時に挨拶に来てくれりゃ良いんだがな。今日、俺がしたことと言えばネズミの死体を片付けたくらいだぜ」
ケインは頬杖を突いた。
朝、ケインが目を覚まして代官所の周囲を見回っていると、代官所の玄関にネズミの死体があったのだ。
「そう言えば、傭兵ギルドの皆さんは何処で寝泊まりするんですか?」
「連中はギルド所有の建物で寝泊まりすることになってる」
ケインはウェスタの質問に答えた。
傭兵ギルドはシルバニアに拠点を構えている。
シフは傭兵ギルドが今までに培ってきたコネクションを使えなかったはずなので、エレインを頼ったはずだ。
「……問題は?」
「ああ、俺が見回った範囲じゃ揉め事は起きてねーな」
ケインが答えると、ロナは驚いたように目を見開いた。
「ケイン様は昨夜、見廻りをしたんですか?」
「性分でな」
今回、受け入れた百人余りは傭兵ギルドの精鋭……シフの子飼いか、そうでないにしてもシフの真意を理解している連中だ。
連中は余程のことが起きない限り問題を起こさないはずだ。
それくらいはケインも理解しているが、全く警戒しない訳にはいかない。
相手は百人からなる武装集団なのだ。
揉め事は起きてねーんだが、とケインは心の中で付け加えた。
街を見回っている最中に視線を感じたのだ。
面倒臭いことにならなきゃ良いんだけどな、とケインは天井を見上げた。
※
三日後、記念すべき初仕事が代官所に舞い込んだ。
傭兵を雇ったのは行商人組合だ。
行商人組合が雇った傭兵は十人、契約金は十人の傭兵を雇う額としては妥当、傭兵ギルドの精鋭を雇うにしては少ない。
ケインは三枚の契約書の内容が一致していることを確認し、サインを書いた。
一枚は傭兵ギルド、もう一枚は行商人組合、最後の一枚は代官所で保管となる。
これで傭兵ギルドも、行商人組合も契約の内容を勝手に変更できないという寸法だ。
ケインがどちらかと結託すればどうとでもできるのだが、ケインはどちらにも便宜を図るつもりはない。
ケインは取り締まる側が腐敗すれば全体がダメになるということを自分の経験から学んでいるのだ。
「問題なしだ」
ケインが言うと、シフと行商人組合の代表は部屋を出ていった。
契約書を見直し、ウェスタに手渡す。
「保管庫に保存してくれ。なくすなよ」
「なくしません」
ウェスタは拗ねたように唇を尖らせ、部屋を出て行った。
「今の金額は安すぎませんか? 仮にも傭兵ギルドの精鋭を雇うんですよ?」
「双方で合意した額だからな。俺達の出る幕じゃねーよ」
ケインは不満そうな顔のロナに言った。
ロナが安いと言えるのはケインと同じく、自由都市国家群で傭兵ギルドの精鋭を雇う金額を知っているからだ。
だが、とケインは思う。
傭兵はケフェウス帝国において正業と見なされない。
傭兵ギルドは足下を見られても不思議ではない状況にも関わらず、きちんと利益が出る金額で契約を結んでいる。
それは傭兵ギルドが戦闘バカの集団ではないことの証左だ。
「……何にせよ、もう少し忙しくなってくれりゃ良いんだけどな。傭兵ギルドの底力に期待って感じか」
ケインは頭の後ろで腕を組み、天井を見上げた。
※
ケインは街を歩く。
シルバニアは発展途上の街だ。
地面が石畳で舗装されているのは港の近く……五つの商会と行商人組合の建物周辺だけで、他は土が剥き出しだ。
街並みも洗練されているとは言えないが、熱気がある。
ハシェルのように好景気に沸いているのではなく、街そのものが成長する意思を持っているかのような熱気だ。
清濁を併せ持ち、混沌としながら秩序だっている。
そんなシルバニアの訳の分からない熱気を気に入っていた。
ケインは足を止めた。
今日も視線を感じたのだ。
誘ってみるか? とケインはしばし考える。
視線の主を放っておいても害はないような気もするが、ネズミの死骸が気になった。
ネズミの死骸が一日ごとに増えているのだ。
今朝、ケインは四匹のネズミの死骸を片付けた。
猫や犬にエスカレートする前に何とかしたい。
ケインの足は自然と人気のない方に向いていた。
ちょっと歩けば、すぐに人気のない空き地に出る。
ケインはシルバニアと代官所から離れた空き地……荒れ地と言うべきかも知れない……で振り向いた。
「よお、良い天気だな?」
「お前が死ぬには良い日だ」
ケインが話しかけると、クアントは敵愾心も露わに言い放った。
「どうして、俺が死ななきゃならないんだ?」
「言わなきゃ分からないのか、裏切り者め! お前はギルドに世話になりながら、ギルドの顔に泥を塗った! その罪は死を以て償うしかない!」
ケインは苦笑した。
「何がおかしい!」
「お前の気持ちは分からなくもねーんだぜ、クアント。けどな、俺の上司が被害者の商人と話をつけてるし、シフも……俺のやったことに目を瞑る方針らしいんだよな、これが」
それは、とクアントは口籠もった。
やはり、今回の件はクアントの独断のようだ。
何とか穏便に終わらせたいんだがな、とケインはクアントを見つめた。
「まあ、お前も代官所の玄関にネズミの死骸を置いて、少しは気が晴れただろ?」
「……っ!」
クアントは鬼のような形相でケインを睨んだ。
「う、うるさい! 口の達者なヤツだ! 剣を抜け! 勝負だ!」
「悪ぃが、剣を抜くつもりはねーよ」
クアントは剣を抜き、ケインに向かってきた。
見立て通り、クアントはかなり動けるようだった。
クアントが剣を一閃させ、ケインは攻撃を後ろに跳んで躱した。
クアントはムキになって剣を振り回すが、そのたびにケインは大きく距離を取って攻撃を躱した。
大したことねーな、とケインはクアントの攻撃を躱しながら、そんな感想を抱いた。
クアントは年齢の割に動ける方だ。
あくまで年齢の割に、だ。
クアント以上の傭兵などギルドには掃いて捨てるほどいるだろう。
ケインにはシフがわざわざクアントを連れてきた理由が分からなかった。
体術だけで無力化できるか? とケインはクアントの手首を掴んだ。
ケインは拍子抜けするほどあっさりとクアントの腕を掴んでしまったのだ。
「離せっ!」
「そう簡単に……っ!」
ケインの手が弾かれる。
いや、クアントは手ではなく、ケインの腕を弾いたのだ。
クアントは馬鹿げた跳躍力でケインから離れた。
「……刻印術か?」
「そうだ!」
クアントは自慢気に胸を張った。
黒い光がクアントの体を蛮族の戦化粧のように彩っていた。
クアントの刻印はクロノとスーのそれと異なっている。
「……そして、これが俺の力だ!」
「おいおい、マジかよ?」
クアントの刻印が強い光を放ち……ケインの意識は闇に呑まれた。
※
牙が見える。
爪が見える。
奈落のように暗い瞳が闇の中からケインを見つめている。
断片的な記憶が炸裂する。
爪が体を引き裂き、牙が腕に食い込む。
そいつはケインの叫び声を聞いて、愉しそうに目を細めた。
ケインが目を開けると、エレインが心配そうな表情でケインを見つめていた。
エレインだけではなく、ウェスタとシフもいる。
「……クソ、地獄か」
「人の顔を見るなり、地獄はないんじゃないかしら?」
ケインが吐き捨てると、エレインは頬を引き攣らせた。
ここが地獄ではないにしろ、気分は最悪だった。
頭痛が酷い。
吐き気もする。
質の悪い風邪にでも罹ったかのように熱っぽく、全身が軋むように痛んだ。
ケインは視線を巡らせた。
どうやら宿舎の一室にいるようだ。
多分、誰かが運んでくれたのだろう。
「シフ、あれは何だ? あのガキ、俺の目の前で……」
ケインは頭を振った。
自分の見たものが信じられなかった。
誰だって、そうだろう。
「狼に変身しやがったぞ」
「ケイン、貴方は……多分、頭を強く打ち付けたのよ」
「おいおい、そんな可哀想な子を見るような目で俺を見るなよ」
ケインは憐れむような視線を向けるエレインに弱々しく突っ込んだ。
「シフ、あれは現実だよな? あれは何だ?」
「……刻印術だ」
シフは溜息交じりに言った。
「マジかよ? 一応、俺も刻印術について調べてみたけどよ、狼に変身できるなんて初耳だぜ」
調べたと言っても、侯爵邸にある本を読んだ程度だが、その中には変身に関する記述はなかった。
「我が一族の中でも狼に変身できる力を持つ者は多くない。ある血統、その中で極稀に発現する異能だ」
「けど、なんで、狼なんだ?」
「我が一族の伝承によれば、精霊は高き処にあり、人界に干渉する際はこの世界の生物の姿を借りて顕現する、とされている」
シフが断言しなかったのは一族の伝承を鵜呑みにしていないからだろう。
「それで狼かよ」
「ああ、この異能を発現させた者は変身した生き物の力を得る」
「つまり、狼並の嗅覚やら聴覚やらを備えてるってことか?」
「そういうことだ。伝承が正しければ、な」
ケインは歯を食い縛り、体を起こした。
「動いちゃダメよ!」
「ああ、後はこちらで対処する」
「どういう意味だ?」
シフは溜息を吐いた。
何故、分かり切っていることを尋ねるのかと言わんばかりの態度だ。
「ギルドの掟に従い、クアントを処分する。もちろん、治療費と慰謝料は支払う。それで今回の件を収めて貰いたい」
悪くねーな、とケインは冷静に計算する。
クアントを処分すれば他の傭兵達に対する警告にもなる。
ケインは自分の手を汚さずに厄介事を片付けられる上、治療費と慰謝料を貰えるのだ。
「納得したか?」
「……ふざけるな、クソが」
ケインは吐き捨て、ベッドから降りた。
「ケイン、貴方はもう一介の傭兵隊長じゃないのよ?」
「分かってる。俺は代官だ。けどな、俺はガキに良いようにやられて、黙っていられるほど出来た人間じゃねーんだよ」
「待て、これはお前だけの問題ではない」
シフがケインの行く手を塞いだ。
慌てるのも当然だ。
自分の部下を殺してでも事態の収拾を図ろうとしているのだから。
「そっちこそ、引っ込んでろ。これは俺とクアントの喧嘩だ。分かったら、退けよ」
ケインはシフを押し退け、扉に手を伸ばした。
※
ケインが食堂兼酒場に入ると、男達……主に傭兵連中はケインを見つめた。
その中にはクアントもいる。
ケインは努めて軽薄な風を装い、クアントに近づいた。
クアントは侮りきった目でケインを見つめていた。
今のクアントにとってケインは無様な敗北者だ。
多分、クアントは次の勝利も確信してるのだろう。
「おいおい、そんなに怖い目で見るなよ。いやな、俺も傭兵時代は悪いことをしたと思っているんだぜ。だから、詫びに来たんだよ。俺だって、二度も、三度も痛い目に遭うのは御免だからな。おい、姉ちゃん。こいつらに酒を、こっちのガキにはミルクだ」
ケインが捲し立てると、傭兵連中は安堵したように構えを解いた。
給仕の女はすぐにカウンターに酒とミルクを持って来た。
「俺がやるから、仕事をしていてくれよ」
ケインは給仕の女から受け取り、傭兵一人一人に酒を渡した。
「悪かったな」
「……」
クアントは無言だったが、得意げに笑っていた。
次の瞬間、酒場は騒然となった。
ケインがクアントの頭上でカップを反転させ、ミルクを浴びせたからだ
「何をするっ!」
「喧嘩を売りに来たに決まってるだろ、クソガキ!」
ケインは牛乳塗れのクアントに言い返した。
「今度こそ、殺してやる! 表に出ろ!」
「あ? 馬鹿か、テメェは。すぐそこでやりあったら、気分良く酒を引っかけに来た連中に迷惑が掛かるだろうが。付いて来い」
ケインが顎をしゃくると、クアントは立ち上がった。
「寂しければ友達も連れてきて良いぜ?」
「誰が!」
ケインは酒場から出ると、港に向かった。
この時間の港ならば誰にも迷惑が掛からないと考えたからではない。
ケインは適当な場所で足を止め、クアントに向き直った。
少し歩いたせいか、クアントは冷静さを取り戻したようだった。
「さあ、剣を抜け!」
「ガキに剣なんざ必要ねーよ。こいつで十分だ」
ケインは拳を握り、クアントに突き出した。
「そっちこそ、刻印術を使えよ。まあ、今度は刻印術を使っても勝てねーけどな」
「望み通り、八つ裂きにしてやる!」
クアントが天に向かって吠える。
漆黒の光が蛮族の戦化粧のようにクアントの体を彩った。
漆黒の光は不規則に明滅し、強い光を放った。
次の瞬間、漆黒の光が刻印から噴き出し、クアントの体を覆い尽くしていく。
クアントは変身を終え、漆黒に輝く毛皮を持つ狼に変わった。
どういう理屈で変身が行われているのか、ケインにはさっぱり分からない。
『……いくぞっ!』
クアントが大口を開けてケインに襲い掛かってきた。
ケインは地面を転がり、クアントの口撃を躱した。
クアントは着地と同時に反転、再びケインに襲い掛かる。
ケインは余裕を持って躱したつもりだったが、痛みが肩に走った。
ケインが肩に触れると、血が指先を濡らした。
『どうした? 抵抗もできないのか? 泣いて謝るなら、許してやっても良いぞ?』
「おいおい、ちょっと出血させたくらいで勝利宣言かよ。これから俺の反撃が始まるんだぜ」
『だったら、死ねぇ!』
ヤバい、怒らせすぎたか? とケインは少しだけ後悔した。
クアントのスピードはケインの能力を完全に上回っている。
ケインは目で追うだけで精一杯だ。
『どうして? どうして、殺せない!』
クアントは動きを止め、苛立ったように叫んだ。
ケインは手の甲で顎を拭った。
血がべっとりと手の甲に付着する。
ケインがクアントの攻撃を凌げている理由は簡単だ。
クアントの動きは直線的過ぎるのだ。
「デカい口を叩いた割に大したことねーな。ああ、アレか? 実は精霊の力ってたいしたことないんじゃねーか? 狼の力を得るとか言ってたけど、お前より狼の方が強いぜ」
『黙れぇぇぇぇっ!』
クアントがケインに飛び掛かる。
ケインは口の端を吊り上げ、一つ目の切り札を指で弾いた。
それはクアントの鼻先で強烈な光を放った。
『ぎゃあああああああっ!』
クアントは着地に失敗し、前足で顔を掻くような動作を行った。
ケインはクアントに二つ目の切り札をぶつけた。
一つ目の切り札は閃光を放つマジック・アイテムだ。
二つ目の切り札は紙に包んだ胡椒だ。
『ゲハッ! こ、この、卑怯者っ!』
「うるせえっ! 喧嘩に卑怯もクソもあるか!」
ケインは慎重に位置を変えながら、クアントに二つ目の切り札を投げ続けた。
クアントがケインを見た。
ケインはクアントの視覚と嗅覚を奪った。
だが、クアントの聴覚は健在だ。
ケインにはクアントが笑ったように見えた。
『迂闊だな! まだ、耳が残ってるぞ!』
「クソッ!」
クアントがケインに向かって跳んだ。
狙いは首だ。
ケインは反射的に腕で首を庇った。
クアントの牙が腕に食い込む。
『ハハハッ! どうだ! 俺の耳はお前を捕らえたぞ! 目が見えなくても、鼻が利かなくても、お前なんか敵じゃない!』
「そうか? なら、念のために説明してやる」
ケインはクアントを渾身の力で抱き締めた。
どういう理屈で俺の腕に食いついてるのに声が出せるんだ? とケインは考えつつ、
「後ろは海だ。なあ、泳ぎは得意か?」
『っ!』
ケインはクアントを抱き締め、海に飛び込んだ。
※
海に飛び込んだ後のことを考えときゃ良かったな、とケインはクアントを引き摺りながら、代官所に向かう。
通行人が視線を向けてくるが、ケインは無視した。
シフとウェスタが代官所の前に立っていた。
ウェスタはケインに駆け寄り、アワワと慌てふためいた。
「ケインさん、怪我してます!」
「大した怪我じゃねーよ」
ケインはウェスタの頭を撫でようと手を伸ばしたが、自分の手が濡れていることに気付き、自分の頭を掻いた。
「よお、勝ったぜ」
「お前が負けるとは思っていない。俺も、エレインもな」
シフは憮然とした表情で言った。
「出迎えてくれないのは信頼の証か?」
「あの女が帰ったのはお前に呆れたからだ」
「そうかよ」
ケインはクアントから手を離した。
ゴンと音が響いた。
衝撃はそれなりにあったはずだが、クアントは気絶したままだ。
「さっさと連れて帰れ」
「……報告は?」
「分かってねーようだから、もう一度、言うぞ」
ケインはシフを睨み付け、ゆっくりと言った。
「今回の件は俺とクアントの喧嘩だ。だから、クアントが処分される必要はねーし、俺も『喧嘩して、ガキをぶちのめしてやりました』なんてアホな報告をするつもりもねーんだよ」
分かったか、とケインはシフの胸を拳で軽く突いた。
「それがお前のやり方か?」
「ああ、これが俺のやり方だ」
※
翌朝、ケインは体の痛みで目を覚ました。
だが、気分は晴れやかだ。
負けっ放しは趣味ではないのだ。
もう少し余裕があるな。
まあ、今日はないだろうが……、とケインは上着を羽織り、代官所の玄関に向かった。
クアントが代官所の玄関に座っていた。
「これは何の冗談だ?」
「……」
クアントは答えない。
「おい、何か言えよ」
「……た」
クアントは何事かを呟いた。
「聞こえねーよ」
「父上に勘当されたんだ、お前のせいで!」
ケインが言うと、クアントは激昂したように叫んだ。
「は?」
ケインはクアントを見つめた。
クアントは嘘を吐いているように見えない。
「父上って誰だよ、父上って」
「……シフだ」
「ある血統ってのはそういうことかよ。つーか、勘当ってなんだよ、勘当って」
シフが自分の子どもを殺そうとしていたのも訳が分からない。
いや、ケインにだってシフがそれだけ本気だと分かる。
「こんなガキを放り出したって野垂れ死ぬに決まってるじゃねーか」
「お、俺は一人前の戦士だ!」
「嘘吐け。頼る相手がいなかったから、俺の所に転がり込んできたんだろ?」
「……うぐ」
クアントは呻いた。
クアントだって他に頼る相手がいるか、一人で生きる術を身に付けていれば二度も殺そうとした相手に頼ろうと思わないだろう。
「取り敢えず、中に入れよ。その後は……人手も足りねーし、代官所で働きながら、身の振り方を考えろ」
「戦士としての待遇を要求する」
「まあ、戦う以外のことを覚えたらな」
そう言って、ケインは代官所の扉を開けた。




