第2話『屑拾いのロナ』修正版
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若い時の苦労は買ってでもしろ、という言葉がある。
若い頃の苦労は自分を鍛え、成長に繋がるという意味の言葉である。
この言葉にロナは異を唱えたい。
苦労が自分を鍛えるのは分かるのだが、『買ってでも』という部分は違うのではないかと思うのだ。
ロナの経験上、苦労とは勝手にやって来るものである。
上手くやり過ごしても、より強大になって戻ってくるという厄介な性質まで備えている。
更に厄介なことに苦労は不意打ちの名手でもある。
巧妙に隠された罠のように、あるいは通り魔のように何の脈絡もなく襲い掛かってくる。
いや、それ以前に自分から求めた苦労は苦労と呼ばないのではないだろうか。
自分で始めたことならば止められる。
止めるという選択肢がないからこそ、苦労と呼ぶのだ。
ロナが思うに『若い時の苦労は買ってでもしろ』と最初に言った人物は恵まれた人間だったのだろう。
そうでなければ他人に苦労を勧めるようなマネはしないはずだ。
過大な苦労や不幸は人間性を歪めるのだから。
人間性が歪むだけならばマシだろう。
重圧に耐えかねて圧死する可能性もある。
痛みを感じる間もなく死ぬか、じわじわと押し潰されるか……ロナは前者を選びたいが、どうやら後者の可能性が高いようだ。
父さん、とロナは膝を抱える腕に力を込めた。
好きで膝を抱えている訳ではない。
ほんの少し手を伸ばした先には鉄格子、頭を上げると、触れるか、触れないかの所に天井があるため、膝を抱えるしかないのだ。
ロナは狭い檻の中に閉じ込められていた。
すぐ目の前を誰かが通り過ぎる。
目の悪いロナには彼女の姿が滲んで見えるが、彼女が服とも呼べない布で体を包んでいるくらいは分かった。
いや、想像できたと言うべきだろう。
ロナもまた彼女と同じように服とも呼べないような布を身に纏っているのだから。
彼女がそうであるようにロナは奴隷だ。
三週間前は自由都市国家群の傭兵だったが、今は奴隷だった。
膝を抱えたまま、ロナは父を思う。
ロナの父親は騎士だった。
少なくとも、自由都市国家群がケフェウス帝国の一部であった頃は。
父は金と引き替えに帝国を裏切った。
騎士にあるまじき行為だと思うが、同時期に多数の騎士がケフェウス帝国を裏切っていることを考えれば一概に父を責められない。
父は上手く帝国を裏切った。
父がミスを犯したとすれば、自分の才覚を見誤ったことだろう。
父は騎士の肩書きがなくても人並み以上の成功を掴めると信じていたのだろうが、数年で帝国を裏切った代価を使い果たした点を鑑みるにそれは思い込みでしかなかったようだ。
普通ならば反省する。
父も反省した。
反省して真面目に働き、しばらくして同じ過ちを犯した。
その後も父は一山当てようと、商売を始めて失敗したり、騙されて金を取られたりを繰り返した。
そんな環境で育ったからか、ロナは物心付く頃には近所の店を手伝って家計を助けるようになっていた。
その合間を縫って母から読み書きを習い、父から剣術を教わった。
もっとも、父は剣術の稽古にかこつけて憂さを晴らしたいだけだったようだが。
十五歳になると、ロナは傭兵として働き始めた。
腕に自信があったからではなく、真っ当な勤め先が見つからなかったからだ。
真っ当な経営者が身内に浪費家がいる人間を雇う訳がなく、それが分からないくらいロナは幼かった。
傭兵になって五年が過ぎた頃、ロナは『屑拾い』の名で呼ばれるようになった。
駆け出しの傭兵がやるような屑みたいな仕事をしているという意味だ。
そんな嘲りをロナは気にしなかった。
ロナの目的は家族三人で慎ましく暮らすだけの金を稼ぐことで、実際、それだけの金額を稼いでいたのだ。
しかし、生活は楽にならなかった。
楽になるどころか、父の浪費癖に拍車が掛かったのだ。
そのことで父とは数え切れないほど喧嘩をした。
喧嘩と同じ回数だけ金のことで言い争う惨めさを味わった。
喧嘩をした後、先に折れるのは父だった。
仕方がないとロナは父を許し、やはり、父は過ちを繰り返した。
恋人はできなかった。
好意を寄せてくれる人はいたが、父のことを知ると、ロナの元から去った。
そんな風に人生の中で最も輝かしい時期は過ぎ去り、三十歳になる頃、母が死に、ほどなくして父も死んだ。
涙は出なかった。
もう父に悩まされることはないとロナは清々しい気分で新たな人生の第一歩を踏み出し……父が残した借金のせいで奴隷に転落した。
※
落札されると、ロナは別の部屋に移動させられた。
それなりに広い部屋で、奴隷商人とその部下も一緒だ。
予想外の高値で売れたのが嬉しいのか、奴隷商人とその部下は何も言わなかった。
しばらくすると、扉の開く音が響いた。
反射的にロナは顔を上げたが、メガネがないため、視界はぼやけたままだ。
「……待たせたな」
「いえいえ、滅相もない」
気持ちの悪い猫撫で声で奴隷商人が応じる。
ロナを買ったと思しき男は奴隷商人に金貨を手渡し、契約書にサインをした。
「……目を細めているが」
「ああ、目が悪いのですよ。宜しければ金貨一枚でメガネをお譲りしますが?」
はぁ、と男は呆れたように溜息を吐いた。
「どうせ、こいつの物なんだろ?」
「今は、私の物です」
「仕方がねーな」
男は奴隷商人からメガネを受け取ると、すぐにメガネをロナに握らせた。
メガネを付けると、視界が明るくなる。
滲んでいた世界が輪郭を取り戻し、ロナは自分を買った男を見つめた。
男の年齢は三十を越えたくらいだろうか。
軍服に似た服を着ていて、服の上からでも男の体が鍛えられていると分かる。
顔立ちはそれなりに整っている。
粗野な印象も受けるが、口元に浮かぶ薄ら笑いが男に軽薄な印象を与えていた。
「俺はケイン。まあ、何だ、お前の上司になる。それから、お前の立場は……あ~、備品ってことになるのか?」
備品という言葉にロナは目眩を覚えた。
物扱いだ。
備品として男に代わる代わる犯されるということだろうか。
「取り敢えず、これを着ておけ。外に馬車を待たせてあるからな」
「はい」
ケインは上着を脱ぐと、ロナに手渡した。
上着は見た目こそ地味だが、しっかりと縫製がなされていた。
「俺の後について来い」
「……はい」
ロナが上着を着ると同時にケインは歩き出した。
檻の中に閉じ込められていたので、足を踏み出すたびに体が軋むように痛んだ。
建物の外に出ると、日の光が眼球の奥を痛いほど刺激した。
逃げられるだろうか、とロナは視線を巡らせ、すぐに諦めた。
今いる場所が分からない。
どれくらいケインが権力を持っているかも分からない。
何もかも分からない状態で逃げられるはずがない。
「あれが俺の……とにかく、馬車だ」
「……」
少し離れた所に立派な箱馬車が止まっていた。
逃げなくて良かった、とロナは安堵の息を吐いた。
これほどの箱馬車を所持しているのだから、ケインの身分は高いに違いない。
少なくとも多くの人間を動かせる立場にあるはずだ。
「この後、俺の上司に会わせる。俺の上司はクロノって言うんだが、エラキス侯爵領と隣にあるカド伯爵領の領主で……まあ、良いヤツだ」
ケインに促されるまま、ロナは馬車に乗った。
こんな高級な馬車に乗るのは初めての経験だったので、少なからず気分が高揚したが、自分が奴隷であることを思い出して気が滅入った。
恐らく、自分はクロノという男に抱かれた後、彼の部下に払い下げられるのだろう。
何とかして取り入ることはできないだろうか、とロナは馬車に揺られながら必死で考えを巡らせた。
※
馬車が目的の場所……侯爵邸に着いた後、ロナはケインに案内され、最上階にある執務室に通された。
「……入るぜ」
ケインが扉を開ける。
その先にいたのは二十歳前後、もしかしたら、二十歳未満かもしれない。
それくらい若い、黒髪の青年だった。
幼さを残した顔立ちはロナから見れば可愛いの範疇にある。
だが、可愛いで済ませてしまうのは早計だろう。
青年の右目……額から頬にかけて刃物によると思われる傷がある。
多分、青年は戦場に立った経験があるのだろう。
見れば羽ペンを握る青年の指は剣術に親しんでいることを物語るように節くれ立っていた。
「買ってきたぜ。名前はロナ、自由都市国家群の元傭兵だ」
「ケイン、服くらい着替えさせてやりなよ」
報告をしているのだから、黒髪の青年がクロノなのだろう。
上司という割にケインの口調は馴れ馴れしい。
もしかしたら、ケインとクロノは異母兄弟なのかも知れない。
とすればケインは家督を継ぐ権利のない妾の子といった所か。
「報告が先だと思ったんだがな」
「少しくらい報告が遅くなっても文句は言わないよ」
あまりに落ち着き払ったクロノの態度にロナは焦った。
自分で女の奴隷……性奴隷を買いに行かせながら、飢えている様子がない。
ロナは男性経験こそないが、その寸前までいった経験ならある。
わずかな経験と盗み聞きした知識から総合的に判断するに男という生き物は獣である。
愛を語りながら鼻息を荒くする生き物なのだ。
いや、よくよく考えてみればクロノは二つの領地を治める貴族だ。
女なんて選び放題だろう。
そんな彼が性奴隷を購入するということは特殊な……猟奇的な嗜好によるものと考えられないだろうか。
わざわざ元傭兵を買ったのも壊れにくいと判断された結果かも知れない。
ダラダラと嫌な汗が噴き出す。
「あれ、顔色が悪いよ?」
「健康診断の結果は良好なはずなんだが」
クロノが指摘すると、ケインは奴隷商人から渡されたらしい羊皮紙……医師による診断結果を見つめた。
「疲れが出たのかもな」
「挨拶して貰おうと思ったんだけど」
ケインとクロノに見つめられ、ロナは首を竦めた。
挨拶とは相手をさせるという意味の隠語に違いない。
「挨拶は大事だと思うけどよ」
「そうだね。これから長い付き合いになるんだから、体を大切にして貰わないと」
長い付き合い……ケインとクロノはロナを簡単に使い捨てるつもりはないようだが、何をされるのか考えるのも恐ろしい。
「今日はゆっくり休んで」
クロノの声は優しかったが、その優しさがロナには恐ろしかった。
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アリッサと名乗るメイドに案内された部屋は自由都市国家群にあったロナの家よりも立派だった。
これで使用人用の部屋なのだから、いかに自分が貧しい生活をしていたか思い知らされる。
「必要な物があればお持ちしますが?」
「いえ、ありません」
ロナは首を竦めた。
アリッサはクロノのメイドなのだ。
迂闊なことを尋ねれば報告されてしまうだろう。
だが、ここで何も尋ねなければ覚悟することさえできない。
「クロノ様は、どのような方でしょうか?」
「……立派な方です」
アリッサが答えるまでに若干の間があった。
答えるまでに間があったということは何かがあるのだろう。
「女性に不自由は?」
「されていないと思いますが……」
アリッサは言いにくそうに言葉を濁した。
不自由していないが、満足していないという所だろうか。
「私は、どうなるのでしょうか?」
「クロノ様の考えは分かりかねますが、一通り教育を行った後、異動になるのではないかと」
教育……自分の立場を分からせることだろうか。
移動先は地下か、それとも、家畜小屋か。
いや、クロノが常軌を逸した猟奇的な嗜好の持ち主であるのならば地下牢で拷問という線もある。
「今日はゆっくりと休んで下さい」
「……はい」
結局、ロナは何一つ覚悟を決められずに項垂れた。
※
扉が開いた瞬間、ロナは反射的に体を起こした。
驚かせてしまったのか、アリッサは扉を開けた姿勢のまま硬直していたが、何事もなかったように歩き出し、ベッドの傍らに立つ。
「おはようございます。体調は戻りましたか?」
「……少し、お腹が」
ロナは前傾になって呻いた。
肩から背中が重く感じるが、それ以外は何ともない。
要するに仮病だった。
だが、口に出してみると、何となく腹の調子が悪いような気がしてきた。
「調子が悪いようでしたら、お医者様を呼びますが?」
「い、いえ、そこまでして頂くほどのことでは」
体を起こし、ロナは慌てて否定した。
「そうですか。大切な体なのですから、無理はなさらないように」
「……はい」
金貨四十一枚分、クロノ様を愉しませて頂かなければ、とロナはアリッサの声を聞いたような気がした。
「問題がなければ……湯浴みをした後、クロノ様からロナ様の仕事について説明をして頂きます」
「朝からですか?」
「食事の時間は設けますので、安心して下さい」
ああ、ちっとも安心できない、とロナは憂鬱な気分でベッドから下りた。
※
湯浴み……文字通り、湯を浴びることだ。
当然のことながら、湯浴みをするためには水を運び、湯を沸かさなければならない。
浴槽に浸かるとなれば湯を浴びるよりも多くの労力が必要となる。
汚れを落とすことにそれだけの労力を費やせるのは自由都市国家群でも富裕層だけだった。
貧乏人であるロナの場合、近くの井戸から水を汲んで体を洗うか、時折、公衆浴場を利用するかに限られていた。
だから、貴族の館に設けられた浴室で湯浴みをするのも、香料の練り込まれた石鹸を使うのもロナには初めての経験だった。
怖い、とロナは香料の匂いを漂わせながら執務室の前で立ち尽くした。
これだけの贅沢をさせたのだ。
この後、何をされるのか。
怖くて怖くて堪らなかった。
横を見ると、アリッサはロナが扉を開けるのを背筋を伸ばして待っていた。
あ、すみません。
本当にお腹が痛いんです。
もう少しだけ部屋で休ませて頂けないでしょうか? え、ダメですか。
ですよね、とロナは心の中で一人芝居をする。
意を決して扉を開けると、クロノはイスに座り、ケインは机に寄り掛かっていた。
ロナは執務室の中央に立つ。
「似合ってるよ」
「そうだな」
「……っ!」
ロナは首を竦め、身を捩った。
ロナの体を包んでいるのは奴隷商人に与えられた服ではなく、膝くらいの長さのスカートと飾り気のない上着だ。
ついでに言うと、下着も飾り気がない。
「……ロナ、君の仕事についてだけど」
最初に口を開いたのはクロノだった。
「わ、私は剣を扱えます! 自由都市国家群ではランクこそ高くありませんでしたが、傭兵をしていました!」
「ランク?」
「傭兵の格みたいなもんだな。仕事をこなした回数とか、仕事の成功率とか、その辺をギルドが審査して格付けをするんだよ」
クロノが見上げると、ケインは簡単に説明した。
どうやら、ケインは傭兵ギルドの制度に一定の知識があるらしい。
「気持ちは分からなくもないけど、君を買ったのはそういうことをさせるためじゃないんだよね」
クロノは背もたれに体重を預け、苦笑いを浮かべた。
ロナは絶望感に捕らわれそうな自分を叱咤する。
話は聞いてくれたのだ。
使い潰すよりも有益な使い方を示せれば生き延びられるかも知れない。
だが、ロナは言葉を発することができなかった。
最低限の教養はある。
安全な仕事を選んでいたが、荒事にも慣れている。
けれど、何をアピールすれば良いのか分からない。
「何でもします」
「勤労意欲に溢れてるね」
うんうん、とクロノは満足そうに頷いた。
「せめて、優しく」
「優しいと感じるか、厳しいと感じるかは個人差もあるからね。正直、どれくらいの仕事をこなすことになるかも分からないし」
何人の相手をすれば良いのか分からない。
それだけでもロナにとっては厳しい。
判断基準がないのも辛い。
「元傭兵なら大丈夫と思ったんだけど」
「いえ、こういうことは初めてで……あの、信じて頂けるか分かりませんが、私は男性経験がなく」
「いやいや、男性経験は必要ないから」
ああ、とロナは絶望の余り項垂れた。
「……なあ、クロノ様」
「何?」
クロノが尋ねると、ケインは怪訝そうに首を傾げていた。
「さっきから、微妙に会話が噛み合ってねーような気がするのは俺だけか?」
「言われてみれば……特に最後の部分は噛み合ってないね」
ケインとクロノは顔を見合わせ、ロナを見つめた。
二人に見つめられ、ロナは小さく悲鳴を上げた。
「質問なんだけれど、ロナ……君は何をさせられると思ってるのかな?」
「……男性の相手を」
あ~、とクロノは項垂れ、ケインは困惑したように天を仰いだ。
「ケイン、説明した?」
「してねーよ。つか、ここで説明しようとしてたんだろうが」
「そうだけど」
クロノは気まずそうに咳払いをし、居住まいを正した。
「ロナ、君に任せたいのは事務仕事だ」
「それは何かの隠語ですか?」
「そうそう、実は……って、んな訳ないから!」
クロノの絶叫にロナは首を竦ませた。
「……ケイン様は私を備品だと」
「ケイン?」
「他に適当な表現が見つからなかったんだよ。お前だって、奴隷を所有者の財産に位置づけてるだろ」
クロノが睨むと、ケインは言い訳がましく言った。
「いや、まあ、物扱いしたくないのはやまやまなんだけど、帝国の法律とか、奴隷商人とか……色々あるんだよ、色々」
ゴニョゴニョとクロノも言い訳がましい。
「と、とにかく、ロナの仕事は事務だ。きちんと給料は払うし、ロナが自分を買い戻したいのなら応じるから。じゃあ、雇用契約書にサインを……」
クロノは引き出しから紙の束……契約書を取り出した。
※
何だかな~、とロナは食堂の片隅でパンを口に運んだ。
性奴隷にならずに済んだのは喜ばしいことだし、真っ当な職も得られたのだから、もう少し気分が楽になっても良さそうなものだが、何だかな~という気分なのだ。
理由は分かっている。
ロナは真っ当な仕事に憧れていたが、それは傭兵になる以前のことだ。
十五年近く傭兵として過ごし、真っ当な仕事に就くことを諦めたのだ。
だから、喜びよりも戸惑いや不安の方が大きい。
はぁ~、とロナは溜息を吐いた。
金貨四十一枚……一ヶ月に金貨一枚返済しても返済までに三年五ヶ月も掛かる。
結婚は諦めていた。
いや、父親のことがなければ自分みたいな年増でも娶ってくれる人はいるんじゃないだろうかと少し期待していたのだが、奴隷でも構わないと言ってくれそうな男性はいないような気がする。
視線を傾けると、エルフ達が朝食を食べていた。
いや、眼帯をしたエルフが一人、残る二人は人間である。
その人間にしてもロナより若い。
あれくらいの年齢なら、とロナは溜息を吐いた。
もう十歳も若ければ今の境遇に救いを見出すこともできたはずだ。
ああ、若さが憎い、とロナはスープを口に運んだ。
「……ロナさん、で宜しいでしょうか?」
ロナが食事を終え、しばらくすると、遠慮がちに声が掛けられた。
顔を上げると、小太りの中年男がテーブルを挟んで立っていた。
年齢は四十を少し越えたくらいだろうか。
白髪の入り混じる髪は密度が薄く、地肌の見えている部分が多い。
顔は脂ぎっているが、善良そうな……いや、気の弱そうな顔をしている。
「私はシッターと申します。この、クロノ様の領地で事務の責任者を務めておりまして」
「それは、どうも」
事務の責任者という割にシッターは腰が低かった。
「ロナさんがカド伯爵領で事務を務められるということで、それまで見習いとして業務に携わり、全体像を掴んで欲しいというクロノ様の意向でして」
「あ、はい、分かりました」
ロナは不安を隠して立ち上がった。
※
その夜、ロナは部屋に戻るなりベッドに倒れ込んだ。
職場に異動するまでは少しは役に立てるんじゃないかと思っていたのだが、初日で自分の至らなさを痛感させられた。
書類の運び先を間違えたり、書類の申請に来た商人を前に立ち尽くしてしまったり、もう散々だった。
「……傭兵になった頃は」
いや、今より酷かった。
あの頃のロナは颯爽と活躍できると根拠のない自信を抱いていて、今のようにイメージと現実とのギャップに打ちのめされた。
「落ち込むのは止めましょう」
ロナはベッドに座り、紙の束を見つめた。
紙に書かれているのは仕事をする上での注意点だ。
その内容と記憶を頼りにロナは仕事の全体像をイメージする。
最初に説明してくれればと思わないでもなかったが、そこは手探りの状態なのだろう。
機会があれば具申してみよう、とロナは笑みを浮かべた。




