第七話 狂い咲き
エイルはムガジダ謹製の粉薬入りの小瓶をリニューカント執政軍の庁舎に投げ込んだ。
瞬時に広がった赤い粉薬は吸い込むまいと口を覆った兵士たちすらもバタバタとなぎ倒す。
本当に人体に影響はないのかと不安になる即効性だったが、吸い込んだ者の魔力で対象者を極度の安静状態に導くというその薬は庁舎の内部に居た兵士を眠らせただけだった。
無血で庁舎を押さえたエイルは随伴しているエルナダ先住民に捕虜の扱いを任せて港に向かう。
まだ庁舎の出来事を知らないリニューカント軍の兵をゴーレムで海に放り投げて船着き場を占拠したエイルは拍子抜けしつつも居合わせた商人たちに礼儀正しく一礼する。
「お騒がせいたしました。どうぞ、商談を続けてくださいませ」
エルナダ大陸の実権を握るリニューカント執政軍所属の兵士を海の藻屑にするエイルの暴挙を呆然と眺める商人たちを横目に、エイルは海で立ち泳ぎする兵士を一人ずつ回収して縛り上げる。
どうやらエイルが無差別に人を襲うような殺人鬼ではないと察した商人たちは、普段は税と一緒に賄賂を要求してくるリニューカント執政軍の兵士の無様な姿に忍び笑いながら商談を再開した。
こうして港の制圧は想定以上にあっさりと完了した。
「リニューカント執政軍に言わせれば、エルナダ先住民の反乱は想定していても本国からの移民が反乱を起こすとは考えていなかったのでしょうね」
これでは手柄にもならず、パッガスに褒めてもらえそうにないとため息を吐くエイルに、ティターは肩を竦める。
「制圧できないよりはましでしょう、とあなたに言っても同意は得られませんか。では、私は私の仕事がありますので」
ティターは懐から出した十数枚の封筒をひらひらさせながら、商人たちに声を掛ける。
「商談はまとまりましたか?」
「なんだい、あんた」
「いえ、本国の知り合いに手紙を出したいのですが、頼まれてくれませんか?」
「手数料は?」
「数も多いので銀貨三枚でお願いします」
「分かった。もう出航するところだから、三日もあれば向こうに届く」
「よろしくお願いします」
商人に封筒の束を渡して、ティターは別の商人に声を掛け、同じやり取りをした後でまた封筒の束を渡す。
海難事故などで封筒ごと海に沈む事態を想定しての保険だ。
「確かに届けよう。それにしてもお兄さん、ずいぶんと楽しそうじゃないか。この手紙はあれか、結婚の報告とかそんなのか?」
ティターの横に居るンナチャヤをちらちらと見ながらの質問に、ティターは曖昧な笑みを浮かべた。
「まぁ、そんなところです」
「そうかい。幸せにな」
ぽんとティターの肩を叩く商人に、ンナチャヤが胸を張って答える。
「絶対に幸せにする」
「ははは、心強い嫁さんじゃねぇか。尻に敷かれるなよ」
笑いながら去る商人を見送って、ティターはンナチャヤを横目で見る。
「ことあるごとにアピールしますね」
「良い男は取られないように常に自分の匂いを付けておくべし」
「やれやれ」
ティターは肩をすくめて歩き出す。
エイルはリニューカント執政軍に港町が包囲されるより早くここを放棄して精鋭部隊として内陸部で活動しなくてはならない。
しかし、ティターはこの港町に身を潜めて本国からの報せを待つ必要がある。
「適当な宿に泊まりましょう。往復六日、本国が重い腰を上げる時間も考えると十日は足止めされるでしょうから、ボードゲームかカードでも買っていきますか」
※
リニューカント執政軍に対して決起してから二十日が経つ頃には、エルナダ大陸各地の重要拠点を巡って睨み合いにもつれこんでいた。
パッガスは広げられた地図を睨む。
「リピレイ、計画通りではあるんだよな?」
「はい。寸分の狂いもありません」
誇らしそうに胸を張るリピレイの言う通り、反乱計画は順調に進んでいた。
エルナダ大陸に存在する街の三分の一を制圧し、リニューカント執政軍の動きを完全に封じ込めている。
計画立案者であるリピレイがギリギリまで詰めた計画は文字通り寸分の狂いもなく実行されているのだ。現場ではハードワークに対する不満が出ることもあったが、それすら想定していたリピレイは交代人員を送り込んだ後だった。
無論、リニューカント執政軍も手をこまねいていたわけではない。港町を奪還した後は速やかに内陸部へ取って返していくつかの街の奪還を成功させている。
もっとも、奪還させる事も含めて計画の内だとは、リニューカント執政軍も気付いていないようだった。
唐突な奇襲攻撃を受けた挙句に連戦を強いられたリニューカント執政軍は碌な戦争計画も立てられないまま兵を動かし続けた結果、兵たちがボイコットを画策しているとのうわさが出るほど士気が下がっている。
もともと、うまい汁を吸うためだけに集まっている兵たちだけあって、士気を維持するのは並大抵のことではないのだ。
それでもかろうじて拠点を防衛できているのは、パッガスたち反乱軍を討伐した際に恩賞を出すとリニューカント執政軍の上層部が公式声明を出したからだった。
リニューカント執政軍は、戦いが長引けば本国が援軍を出してくれると考えているらしいことも分かっている。
扉がノックされ、エイルが入室してきた。
「パッガス様、港のティターさんより知らせが届きました」
「本国の動きが分かったか?」
「この新聞をご覧ください。一面に本国政府の声明が掲載されています」
一面記事に目を通したパッガスは新聞の日付を確認して怪訝な顔をする。
「リニューカント執政軍への支援見送りを決定。これは分かるんだけど、日付が十五日も前だぞ?」
「その通りです。リニューカント執政軍にもこの報せは届いているはずですが、ティターさんからの報告によりますとリニューカント執政軍の末端兵士には情報が届いていないようです。現在、戦時特権の乱用でリニューカント執政軍が港を封鎖していますが、情報封鎖こそが目的でしょう」
「まぁ、本国の援軍が無いと判ったら兵が離反しかねないもんな。でもどうする。これじゃあ、リニューカント執政軍が瓦解するのは当分先になるだろ」
不安そうな顔をするパッガスに、エイルは首を横に振る。
「いえ、ティターさんがすでに手を打っています。この新聞を複製し、すでに港を含む各所でばら撒いている最中だとか」
「うっわ、えぐいことするなぁ」
しかし、ティターが本当に情報をばら撒いているのだとすれば、リニューカント執政軍は瓦解する。
「様子を見つつ、重要拠点を制圧してリニューカント執政軍の幹部を捕まえよう。できるだけ民間人に被害が出ないようにしてくれよ」
「その点で一つご報告があります」
「まだなにかあるのか?」
「本国からの援軍が無いと分かって民間の方々が避難を開始しました。いまやリニューカント執政軍とパッガス様の反乱軍が戦力的に互角とみられたのだと思います」
「あぁ、そうか。誰だって巻き込まれたくないもんな」
納得するパッガスに、エイルは詰め寄る。瞳には強い欲望の光が灯り爛々と輝いている。
「つまり、人々がついにパッガス様はこのエルナダ大陸における最大勢力の一角であると認めたことになるのです。とりもなおさず、パッガス様は世間から一目置かれる存在となりました!」
「あ、あぁ、ありがとう。これもみんなのおかげだ。特に、エイルには村つくりからずっと支えて来てもらって感謝してる。エイルがいなかったここまで来れなかっただろう。これからも俺の右腕として働いてほしい」
「はい! 喜んで!!」
パッガスに右腕と認められたエイルは頬を上気させ、とびきりの笑顔を浮かべる。まさしく満ち満ちたその笑みは事情を知らないモノが見れば一目で恋に落ちるほど魅力的だったが、もちろんパッガスは恋に落ちたりなどしなかった。
ため息を堪えつつ、パッガスはリピレイを見る。
「ふふふ、計画通り。やっぱりティター先生を港に潜伏させておいてよかった」
いくらティターでも十五日程度でエルナダ大陸各所に展開するリニューカント執政軍に複製した新聞記事をばら撒くのは難しい。確実に協力者がいるはずだが、リニューカント執政軍に封鎖されている港で協力者を作れるはずがない。
となれば、リピレイがあらかじめ港に協力者も潜伏させていたのだろう。ティターが自由に動けるようにとの思惑はあるだろうが、それとは別にティターの監視も兼ねているはずだ。
どっちも敵に回らなくてよかったとパッガスはほっとしながらも、これからもこの二人を部下として従えないといけない未来に思いをはせて胃を押さえた。
※
「素晴らしいとは思いませんか? 人々が兵を見るあの視線。穀潰しか犯罪者を見るあの目の色を。表情に浮かぶ隠しきれない嫌悪感を。蔑みの念を。エルナダ大陸最大の武装組織、リニューカント執政軍の権威は地に落ちた! 他ならぬ、この私の手によって!!」
「旦那様、楽しそう」
「人生で最高のひと時ですよ。私が情報という手で撫でただけで人々があれほどに尻尾を振っているのです。可愛いでしょう? 愛らしいでしょう?」
ティターはご機嫌に手を叩く。自身に拍手喝采する。
ティターがばら撒いた情報により人々はリニューカント執政軍を見限り、今のうちに反乱軍へのコネを作るべく動き出していた。
リニューカント執政軍の内部でも離反者が続出しており、統率を取る事も出来ない。
リニューカント執政軍に協力していたダックワイズ冒険隊やサウズバロウ開拓団も世間の目には逆らえず離反し、さりとて今さら反乱軍側に加担すれば節操なしと罵られるため身動きが取れず中立を表明。
エルナダ大陸中が大混乱だ。
「あぁ、空からこの大陸を見ることができないのがもどかしいですね!」
「金髪も喜んでる?」
「金髪……あぁ。ミチューさんですか。彼女も楽しんでいるでしょうね」
ンナチャヤの言葉に促されて視線を転じたティターは、ミチューを思い出す。
「今が一番忙しく、しかし彼女にとっては一番楽しい頃でしょう」
※
ミチューは避難してきた移民たちを反乱軍が占拠した街の一画へと案内していた。
「反乱軍のほとんどは先住民だって聞いて不安だったんだよ。ミチューちゃんが居てよかった」
気安く声を掛けてくるのは、かつてミチューが働いていた小料理屋の女店長だ。ダックワイズ冒険隊の打ち上げでミチューに異端者のレッテルが貼られた事を知る人物である。
「反乱軍には邪神が二柱も居るっていうし、ミチューちゃんが加わっていると聞いた時は落胆しちゃったんだけど、まさか私たちの被害を最小限にするために反乱軍に潜り込んでいたなんてね。疑ってごめんよ」
「いえいえそんな。私の方こそ突然料理屋を辞めてしまって、いろいろご迷惑をおかけしましたし」
「そんなこと気にしなくていいんだよ。悪いのはダックワイズ冒険隊の連中さ。まったく、リニューカント執政軍に手を貸したりして、矜持も節操もない」
かねてから腐敗組織として有名だったリニューカント執政軍に手を貸したことで、ダックワイズ冒険隊の信用も落ちていた。
だからこそ、異端者のレッテルを貼られているミチューが『反乱軍に加わっているのは先住民たちが移民を敵視するあまり暴走しないように調整して移民の被害を食い止めるため』という設定をすんなり受け入れてくれた。
「街の様子はどうですか?」
「酷いもんだよ」
小料理屋の女店長は無念そうに首を振る。
「リニューカント執政軍の脱走兵が逃亡資金欲しさに商店を襲ったりしてね。港はリニューカント執政軍が占拠しているから、そのまま海の外へ逃げちまおうって腹なんだろうさ。邪神騒ぎの後の三角教と同じだね」
女店長の言う通り、邪神ムガジダが三角教の教会に匿われていた事が発覚した後、各地の三角教関係者が我先にと本国へ引き上げた流れと今のリニューカント執政軍の動きは重なるところがある。
(でもリピレイさんが計画立てているから逃げられないだろうなぁ)
リニューカント執政軍を逃がして再起を図られても困る。リピレイだけならばあえて逃がす可能性もあったが、パッガスが前提条件、計画目標としてリニューカント執政軍を完膚なきまでに叩き潰すことを掲げているため、リピレイの計画もこの目標に沿っている。
今頃は港町にエイルや邪神二柱といった最高戦力がもぐりこんでいるはずだ。
リニューカント執政軍の幹部クラスは逃走を図るだろうが、計画を立てたリピレイでもなければエルナダ大陸を脱出するのは不可能だろう。
「ミチューさん、ダックワイズ冒険隊から使者の方がいらっしゃいました」
「え、あ、はい」
女店長に別れを告げて、ミチューは歩き出す。
使者が待っているのは街の外。街道上だった。
使者と言いながらも現在交戦中であることも踏まえて双方ともに武装した状態での面会だ。
(やった、知り合いがいる! レッテルを貼って来た人がたくさんいる!)
ミチューは使者の中に見知った顔をいくつか見つけて、内心飛び跳ねて喜ぶ。
ミチューを見つけた使者の方はというと、心臓でも鷲掴みにされたような弱り切った表情を浮かべた。
ダックワイズ冒険隊の代表者はかつてミチューの上司だった輸送隊長だった。
「なぜここに居るんだ……ミチュー」
「あれ、異端者って呼ばないんですか?」
「うぐっ」
にこやかに問いかけるミチューに輸送隊長は苦い顔をする。
ダックワイズ冒険隊がこの情勢下で反乱軍に使者を送り出した目的は十中八九、休戦協定の申し入れだろう。
対応しているミチューに対して異端者呼ばわりした過去をなかったことに出来ようはずもない。
ミチューは苦笑を浮かべて頬に手を当てた。
「すみません。意地悪でした。でも、ショックだったんですよ?」
「……その節は申し訳ない事をした」
頭を下げる輸送隊長に、ミチューは曖昧な笑みを浮かべて無言になる。
(これじゃあダメ。これじゃつまらない。ちゃんと言葉にしてくれないとね)
アルカイックスマイルを浮かべ続けるミチューに輸送隊長は頭を下げたまま口を開いた。
「ミチューが異端者だというのは我々の誤解だった。謝罪する」
きちんと言葉にしてもらえて、ミチューは少し気分が高揚するが、まだ足りない。
輸送隊長の後ろに控えるダックワイズ冒険隊の面々はまだミチューが異端者であると疑っているのが分かるのだ。
まだレッテルは剥がれていない。
(だからまだ楽しめる!)
うきうき気分のミチューは内心の高揚を悟られないようにアルカイックスマイルを継続しながら輸送隊長の後ろに控えている護衛たちに声を掛ける。
「この際ですから、わだかまりをなくすためにも話し合いましょう。まだ私の事を疑っているのなら、その理由を話してください」
ミチューが促すと、護衛たちは互いを視線で牽制する。下手な事を言えば交渉を始める前に決裂してしまいかねない。だが、ミチューに譲る気が無い以上は誰かが責任を持って話さなくてはならない。
護衛たちの様子に気付いて、輸送隊長が頭を上げた。
「申し訳ない。ミチュー、俺もまだ疑っている。反乱軍には邪神が二柱もいるんだろう?」
「はい。農業の邪神ラフトックと薬の邪神ムガジダがいます」
「やっぱりか。邪神を擁立している反乱軍に所属していて異端者じゃないってのは無理がないか?」
「誤解があるようですけど、反乱軍は邪神を擁立していませんよ。トップはパッガスさんです。邪神はあくまでも外部協力者ですね」
ミチューが事実を答えると、輸送隊長は口を閉ざして考えるそぶりを見せた。
「だ、だが、邪神と手を組んでいるのは事実だろう?」
「協力関係ですが邪神とも手を組んでいるのは事実ですね。ところで、邪神はどうして復活したかご存知ですか?」
「ミチューが復活させたんだろう?」
「もしもそうなら、なぜ三角教の教会から邪神ムガジダが現われたんだと思いますか?」
「……ミチューが三角教と繋がっていた」
「気付いているようですけど、異端者扱いして追いかけてきていたのはその三角教です。私が協力関係にあるのなら追いかけられたりしませんよね?」
理路整然と受け答えするミチューに、輸送隊長は視線を彷徨わせる。自身の論理が破綻している事に気付かされたのだ。
輸送隊長のみならず、護衛たちも自身の立場の悪さに気付いたようだった。
ミチューは畳みかける。
「邪神をつかってエルナダの土着宗教の駆逐を目論んだ三角教は失敗し、邪神を野に放ち、無責任にもエルナダ大陸から撤退していきました。では、私たちは野に放たれた邪神が好き勝手するのを見守るんですか? それくらいなら交渉の上で管理下に置く方が正しいとは思いませんか?」
「つまり、ミチューは邪神を管理下に置いたって言うのか?」
「まさか、私程度が邪神を御するなんて無理です。交渉は担当しましたけど、この戦争で無為に人命が失われることが無いよう約束を取り付けるので精いっぱいでした。邪神の管理は封印術を知る部下を持っているパッガスさんがやってくれますし」
というわけで、とミチューは両手を合わせて可愛らしく微笑んでみせる。
「ダックワイズ冒険隊にも被害が出ないように、交渉の余地もなく停戦協定を受け入れる用意がありますけど、どうしますか?」
どうしますかと問われても、ダックワイズ冒険隊には最初から選択肢がない。
リニューカント執政軍の敗色は濃厚で、このままではダックワイズ冒険隊も共倒れになりかねないからこそ反乱軍に鞍替えにきたのだから。
だが、ミチューの話を聞いた上で停戦協定を結べば共犯者となる。異端者だなどといった口で邪神と共闘する事になるのだ。
しかも、ミチューの論理によれば、邪神を信奉しているわけではないのだから確かに異端者ではない。論理的な逃げ道自体は用意されている。
あとは、ミチューを異端者ではないと認めるかどうかだけ。異端者ではないと認めるのなら共犯者になり、認めないなら交渉決裂だ。
輸送隊長が頭を下げる。選択肢がないのだから。
護衛たちが悔しそうに頭を下げる。自分たちの間違いを認めるがゆえに。
ミチューが顔を伏せる。浮かべているその不気味な笑いを悟られないように。
(あぁ、皆の視線が気持ちいい)
ある種の異端者に頭を下げていると、輸送隊長たちが気付く事は幸いにもなかった。
※
ティッグ大佐は息を殺して地下水道を進んでいた。
リニューカント執政軍の幹部の一人でもあるティッグ大佐だったが、今はただ一人。部下の一人もいない。上司や同僚もここに来るまでに捕えられていた。
「……なんなんだ、あの女は!」
歯を砕かんばかりに食いしばり、ティッグ大佐はあの女を思い出す。
銀髪の妖精のような少女だ。軍人であるティッグだからこそ、あの少女は体を鍛えていない事も分かっていた。
だが、おかしいのだ。
地下水道に木霊する足音に、自分の物ではない音が重なってティッグ大佐は足を止める。
「――くっそ!」
すぐに身を翻して、ティッグ大佐は来た道を戻り、分かれ道を曲がった。
地下水道の入り口に入る際、ティッグ大佐は上司も含めて五十人近い大所帯だった。
入り組んだ地下水道はそのまま海へと通じている。開口部は複数あり、その中のいくつかは反乱軍の決起を聞いて退路に出来るよう偽装工作を施してあった。
確実に逃げ出せる。敗戦は屈辱的だが、捕まって責任を取らされるよりはよほどましだ。
そう考えての逃避行は、地下水道を進んだ先にぽつんと置いてあった木箱の上に文字が書かれた木切れを発見してから雰囲気が変わった。
――計画通り。
ただそれだけが書かれた木切れを不審そうに手に取った部下は突然木切れを落として苦しみだした。
木切れの裏に毒が塗ってあったのだ。
明らかに害意のあるトラップ。こんなものが仕掛けられているからにはティッグ大佐たちがこの地下水道に逃げ込む事を想定して罠を張ってあると見るべきだった。
だが、五十人もの軍人を相手に直接戦う気が向こうにはないらしい。それは回りくどいトラップが仕掛けられていたことから見ても明らかだ。
『これは我らの動揺を誘い、足止めするための時間稼ぎではないか? 罠にかかった者も苦しむだけで命を落としたわけではない。負傷者を増やし、進軍速度を落とさせるのは常套手段だ。連中、この地下水道の出入口を封鎖できるだけの戦力がまだないのかもしれない。一気に駆け抜けるべきだ』
理路整然とそう抗弁した将軍は五分後、横道から現れた邪神ムガジダが投げつけてきた液体を浴びて転げまわり、解毒剤を求めて投降していった。
『地図によれば、この右の行き止まりに行って右手の壁を破壊すれば近道になるはずです!』
そう意気込んで道を曲がった部下は突如現れた植物の壁によりティッグ大佐たちと分断され、奥に張り込んでいたらしいラフトックに可愛がられていた。
『お前もリピレイの被害者だ。無碍には扱わんよ』
何故かラフトックの声が疲れていたのが印象的だった。
『敵が何人いようが俺達が固まって先頭にいれば強行突破できるに決まってる』
鼻息荒く先頭を買って出た自慢の精鋭たちが妖艶な女が操るゴーレムに蹴散らされた。
『おかしい! この入り組んだ水路でなぜこうも敵に遭遇する? それも邪神二柱に高位土魔法使い、向こうの最高戦力のはずだろう。この遭遇率は内通者でもいないと説明がつかない!』
そう息巻いて仲間割れを起こした同僚は信頼できる部下を連れて別ルートを歩いて行ったが直後に悲鳴が聞こえてきた。
そして、悲鳴の聞こえて来た道から姿を現したのが銀髪の少女だ。
雪のように白い頬を上気させ、充実感に満ち溢れた笑みでスキップしてきた少女はティッグ大佐たちに手を振った。
『計画はまだ半ば。最後までお付き合いくださいね』
「――何なんだ、お前は!」
一人になったティッグ大佐は地下水道の開口部、海が見えるその出口に待っていた高位土魔法使いの女エイル、農業の神ラフトック、薬の神ムガジダを無視して奥に居る銀髪の少女に声を張り上げる。
銀髪の少女は楽しそうに手元の紙を広げて見せた。
そこには、ティッグ大佐が叫んだ言葉が一字一句たがわず書き記されていた。
「ティッグ大佐さんが怒った時の口癖だって聞きました。計画通りですね」
そう言って銀髪を潮風に靡かせ、リピレイは満足そうに笑った。




