・大会前日、スキル上げをしない怠惰な日を過ごした
宿屋空鯨亭は不思議な宿だ。
ここのベットで眠ると、なんとHP・MPが全回復する。
昨日の疲れともサヨナラバイバイ。
シャキッと目覚めてシャキッとレベリングに入れる夢のお宿――それがこの空鯨亭だ。
そのメカニズムは極めて単純。
宿屋に泊まったら全回復と、ゲームシステム上そうなっているからそれが当然なのだ。
そんなチートな宿屋で堂々の二度寝、三度寝と決め込んで、午後2時半からの優雅な一日のスタートを切るのも、ある意味で最高の贅沢だった。
「やっと起きてきた!!」
「よう、キャンディさん、おはよう」
「おはようじゃないよ、もうおやつの時間だよ!!」
「今日は怠惰に過ごす日だからな」
思えば前世の記憶が目覚めて以来、休んだ日なんて1度もなかった。
ティリアが無言で手のひらを差し出すので50G銀貨を払ってしばらく寝ぼけていると、朝食とはほど遠いティーセットがテーブル席にやってきた。
「午後のコーチャセット4人前になりまーす♪」
「4人前って……ま、いいか」
「朝も昼もリチャードのせいでわびしかったんだからー」
「そりゃ悪かったな」
窓際の席でうららかな午後3時の日差しを浴びながら、安い茶葉なりに上手に淹れてくれた紅茶をすすった。
「リチャードって、黙ってそうしてればイケメン貴公子様なのに、性格が残念過ぎ……」
「キャンディさんだって黙ってりゃ街一番の美少女なのに、そういう性格だろ?」
ティリアは幸せそうにドーナッツに食いついていた。
午後のコーチャセットには黒糖ドーナッツ2つと薄いクラッカー4枚が付くようで、それが4人前となるとなかなかにゴキゲンなティータイムになった。
「お、なかなかいけるな」
黒糖ドーナッツも美味かった。
「うんっ、ありがと、リチャード!!」
「おう、その笑顔を見れただけでもおごったかいがあるかな。……むぅ、しかしこりゃ、かなり甘いな……」
「でも美味しいでしょ! これ、知り合いの菓子屋さんから仕入れてるんだから!」
ずいぶんと無邪気に笑うものだった。
繁盛時の営業スマイルとはまるで別物のその笑顔に目を細め、眠気覚ましの紅茶を楽しんだ。
カップが空になるとティリアは新しい紅茶をついでくれた。
公爵令息リチャード・グレンターをしていた頃の記憶では、もっともっと華やかで上等な茶会の席に参加していたものだが、今のひとときの方がよっぽど優雅で心地よかった。
≪女たらし:49→51≫
「ティリア、店はいいからリチャードさんと遊んでらっしゃい」
「え、いいの、ママ!?」
「いつもありがとうございます、リチャード様。よろしければティリアをお連れ下さい」
結局、ドーナッツはティリアが5つ、宿の奥さんが2つ、俺が1つだけ食べることになった。
奥さんにはティリアとの関係を誤解されているような気もしたが、誤解を解いたら解いたで面倒なので、全部先延ばしにすることにした。
ティリアと宿屋街を出て大通りをブラ付いた。
サービスのつもりなのか、ティリアは彼女みたいに腕を組んでくれた。
「えへへ、ママに感謝しなよーっ、リチャード!」
「で、どこ行く?」
「なんか買ってよ。食べ物じゃないやつ」
「いいぞ、何が欲しい?」
「リチャードがくれる物ならなんでもいいっ」
「それじゃ行き先が決まらないだろ」
「だって、一緒にいられるだけで全然いいし……」
そう言ってくれるのは嬉しいが、それでは何も始まらない。
しょうがないので目の前の建物に入った。
「え、服買ってくれるの……っ!?」
「それもあるが、以前ここに出品していた服があったことを今さら思い出した」
その建物のシステム名は【防具店】だ。
港の防具ギルド直営の施設で、以前ここに【貴族の服】【シルクの手袋】を出品した。
「お、お客様!?」
「おっす、俺が出した服売れた?」
「……いえ、まだ売れておりませんな」
「あれ、そうなの……?」
「お客様のパンツが原因ですよ、パンツが……っっ。お客様が出品された【貴族の服】【シルクの手袋】は素晴らしい品でございますが、お客方はそえられたパンツを見て逃げ出してゆくのです……っっ」
「アンタって行く先々で迷惑かけてんのねー……。すみません、その出品キャンセルできますかー?」
「もちろんですとも、お嬢さん!!」
防具屋の店員は感激するように受け答えして【貴族の服】と【シルクの手袋】と【リチャード・グレンターのパンツ】をティリアに渡した。
「まさか俺のパンツが欲しかったのか?」
「お客様はバカですか!!」
「ごめんなさい、この人こういう人なんです……。はい、これに着替えて?」
「……へ?」
「せっかくのデートなんだから、ちゃんとした格好してみてよ」
これ、デートだったのか?
本心で思っていても、言ってはいけない言葉って世の中にいっぱいある。
まあいいかと更衣室に入って、最強防具【冒険者の服】からクソザコ防具【貴族の服】に着替えて【シルクの手袋】に指を通した。
「やば……っ、リチャードなのにカッコイイ……」
「首が窮屈だ、もう脱ぎたい……」
「ダメダメダメダメッ、今日はその格好でいてよっ!」
「なんで?」
「イケメン貴族とデートしてるみたいで私が楽しいから!」
「なるほど、わかりやすい理由だ」
そこまで言うならいいか。
今日はリチャード・グレンター元公爵のコスプレをして楽しむことにしよう。
「ではティリアお嬢様、お手をどうぞ」
いけ好かないキザ男だった頃のリチャードの人格をエミュすると、だいたいこんな感じになる。
「わぁ……っ!?」
「なんだよ、その反応……」
「だってだって、本当の貴公子様みたい……」
「ま、一応戸籍上は本当の貴公子様だからな」
奥の婦人服コーナーにティリアを連れて行き、やたら欲しそうな顔をしていたので【絹のカーディガン】を買ってやった。
「いいの……?」
「いいも何も今さらだろ」
「だって、ご飯たかるのとはだいぶ意味違うし……。なんか、お子様に戻ってはしゃいじゃいそうなくらい、嬉しい……」
実際彼女はまだ若い。子供みたいな無邪気な笑顔を浮かべて、更衣室で彼女は【絹のカーディガン】に袖を通した。
「おおっ、ありがとうございます、お客様っ!!」
お値段は880G。
高い買い物をしただけで防具屋の店員の態度が逆転した。
「現金なもんだな、おい」
「商売でございますので」
ティリアが更衣室から出てくると店員はさっと立ち去った。
ティリアは慣れない高級衣料に戸惑っていた。
「ど、どう……リチャード……?」
「かわいい」
「ほ、本当……? 変なところとか、ない……?」
「ははは、まるで普通の女の子みたいな反応じゃないか」
「だ、だって……」
ティリアは幸せそうだった。
この【貴族の服】に着替えてから、彼女は憧れのような目をこちらに送るようになっていた。
どこの世界でも貴公子様というのは女の子の憧れのようだ。
「ヤバ……はまっちゃいそう……」
「若いんだからオシャレくらい楽しんでいいんじゃないか?」
「違うよ、そういう意味じゃないし……」
「じゃあどういう意味だ?」
「ア……アンタに、ハマっちゃいそう……」
ティリアは顔を真っ赤にしてそう言った。消え入りそうな小声だった。
「他に欲しい物は?」
「い、いらないっ、もう十分……っ」
「そうか? 大会に優勝するから遠慮はいらないぞ?」
「まだしてないじゃんっ!!」
「俺が勝つに決まってるだろ。で、次どこ行く?」
「じゃあ、リチャードの家……行きたい……」
「俺んち? まあいいか、弟の様子も気になる」
貴族っぽくなったティリアを連れて、貴族街にあるグレンター家に帰った。
≪女たらし:51→53≫




